山岡鉄次物語 父母編5-3
《人生刻んで3》幼い命
☆珠恵は義姉の家で毎日を送っていた。
塩川市内には戦時中の統制で休業していたが、機械を動かし始めた小さな製糸織物工場があった。
甲陽市の隣の町にある石山製糸場の下請けをしながら、撚糸や織物の仕事をしている工場だ。
製糸工経験者の珠恵は、工場主の松本に「ぜひ、うちの工場で働いてほしい。」と声を掛けられると、直ぐに勤めを始めた。
最初の頃、珠恵は工場で若い子たちに繭から糸を取る作業を指導していたが、しばらくしてから撚糸作業を任されるようになっていた。
珠恵は1本から複数本の糸を引き揃え、撚糸機と呼ばれる機械でひねりを加える作業を難なくこなすことが出来た。
毎日の仕事はそれなりに楽しく自信を持って勤めていた。
珠恵の姉妹たちも仕事を求めて働いていた。
芳江には結婚しようと思っている男性がいて、その人の仕事を手伝っていた。この男性は塩島と云ってテキ屋をしている人だが、この時はヤミ市で米の商売に精を出していた。
芳江は時々、ヤミ米を持って帰って来た。
清子は2人の子供がいる八千代に息子を預けて、農家の手伝い仕事をしていた。農家からはお金ではなく、野菜などの食べられるものを報酬として頂いていた。
終戦直後、一番必要なものはお金より食料品だったからだ。
珠恵も工場が休みの日には、農家の手伝いをしていた。
十分ではなかったが、食べ物はなんとかやりくり出来ていた。
八千代の男女2人の子供と清子の息子、3人の可愛い盛りの子供たちのおかげで、賑やかで楽しい時間を過ごしていた。
義姉八千代には珠恵の甥と姪にあたる5歳の勝己と4歳の喜美子がいた。優しかった兄勝義の子供たちだ。また姉清子の2歳の正二もいた。
珠恵は自分と同じく、幼い時に父親を亡くした子供たちが、不憫に思えてならなかった。
珠恵は仕事から帰ると、必ず子供たちとおとぎ話をしたり、歌を唄って聞かせたり、楽しい遊びの相手をしていた。
八千代の息子はあまり過激な遊びは出来なかったが、珠恵に笑顔で応えてくれていた。
5歳の男の子は勝己と云った。勝己は生まれた時から心臓に病を抱えていた。
心臓に穴が空く病気で、当時は長くは生きられないと云われていた。
勝己の病は心房中隔欠損症と云う先天性心疾患だ。
この病は軽い人は自然に治るが、手術を数回しなければならない人、運動を制限して心臓に負担をかけてはいけない人、完全な治療が出来ない人など、さまざまだ。
この頃は、完治するのに心臓外科手術が必要とされる人にとっては、とても残念な時代だった。
太平洋戦争の為、国内では数えるほどしか手術が行われておらず、技術的にも難しいとされていた。
勝己は戦時中、入院治療が出来ずにいた。また医療が未発達で快癒は難しいと思われていた。
ある日、珠恵が仕事から帰ると、勝己の妹喜美子が泣きじゃくりながら抱きついて来た。
『お兄ちゃんが死んじゃった。』
勝己は敷かれた蒲団に静かに寝かされていた。
勝己は昼頃、他の子供たちと楽しく遊んでいた時に、倒れてしまったのだ。
医師に診てもらったが、手遅れだった。
珠恵は喜美子を抱き締めながら、自分より幼い子供の死を目の前にして、胸が張り裂けそうに痛むのだった。