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山岡鉄次物語 父母編7-1

《 家族1》起業

☆頼正は新天地で家族としばらく安定した生活を送る。

昭和25年、頼正は蒼生市にやって来た。


この頃の国内は吉田茂首相が第3次吉田内閣を組織し、連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーが率いるGHQの占領下にあった。

GHQの終戦直後の占領政策では、治安維持法の廃止、特別高等警察の廃止、内務省と司法省の解体・廃止など、日本の民主化を推進して来た。
これにより日本共産党の主要幹部が刑務所から釈放されて、合法的に活動を始めた。
その結果、労働運動が激化し、大規模なデモやストライキが発生するようになっていた。

マッカーサーは中国大陸で毛沢東率いる中国共産党が優勢になると、アジア・太平洋地域の共産化を恐れ、共産主義勢力を弾圧する方針に転じるのだ。
マッカーサーの指令により、日本共産党員と支持者が公職追放され、公務員や民間企業においても日本共産党員と支持者が解雇され、1万人を超える人々が失職した。この事を人々の間では赤狩りと呼んでいた。

国外では朝鮮戦争が勃発した。
占領下の日本は戦力の不保持を明記した憲法を制定したが、冷戦が本格化する中でマッカーサーの姿勢が変わった。
マッカーサーは日本の自衛権を主張し、朝鮮戦争が始まると警察予備隊の創設を命じたのだ。
日本の駐留軍の多くが朝鮮半島へ移動した為、日本国内の防衛と治安維持の兵力が必要になったのだ。


蒼生市は頼正にとって初めての街では無かった。
以前テキ屋商売をしていた頃、何回となく来ていた。
また蒼生市には、相談に乗ってくれた伯父が住んでいる。

頼正は伯父の紹介で、蒼生郵便局の隣に在った空き店舗の一画を借りることにした。
頼正は手始めに、伯父の妻の手を借りて賃焼き煎餅屋を始めた。
客から小麦粉と薪を預かって、手間賃と引き換えに一定量の煎餅を客に納めるのだが、残った小麦粉と薪は頼正の儲けとなった。

煎餅なら米を使ったほうが、旨いものが出来る。
この頃の米不足は主食として食べる分にも困る状態が続いていた。
小麦粉は戦後になると米国から多量に輸入され、安く手に入るようになっていたのだ。柔らかい煎餅は主食代わりになって、多くの客が注文に来ていた。

頼正は1年と少しの間、小麦粉煎餅の賃焼き屋を続けていた。

昭和26年になると頼正は製パン業開業の為に、ある程度出来た資金を元手に、不足分は伯父の保証を得て銀行融資を受けた。
十分な融資は受けられなかったが、何とかなると開業に踏み切ることにしたのだ。

頼正は蒼生市の中心地に、パン生地作りも出来る広さの店舗を借りて、製パンに必要な機械器具を揃えた。
パン焼きの機械は資金の都合で小型のものになった。
頼正は製パンについて多少の知識はあったが、2人の職人を雇い、何とか開業にこぎつけた。
開店当時から店売りは人気が出て、飛ぶように売れた。徐々に卸先を開拓していた。

数ヶ月後、頼正はパン屋の事業が軌道に乗ったところで、珠恵と睦美と幸恵たち家族を呼び寄せた。

家族みんなで住んだ家は、繁華街の裏街にある池の近くの長屋だった。綺麗な水の湧く池のほとりには、立派な寺院がひかえていた。
長屋の住まいは狭かったが、家族揃った生活は充実した時間となっていた。

長屋には満州から引き揚げて来た家族や朝鮮戦争で日本に逃げて来た朝鮮人家族が住んでいた。
それぞれどこか重いものを抱えているようだが、苦労をしながらも明るく日々を送っていた。
珠恵が売れ残りのパンを分けてやると、親しみの笑顔がお返しされた。

頼正はパンの店売りの他に、卸先もだいぶ増やして来た。
パンの増産を計画し、電力の確保の為に電柱に変圧器を設置し、大型のパン焼き機を備えたのだ。


ある日の事、さあこれからと云う時に、頼正は店舗の家主から立ち退きの通告を受けるのだった。


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