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山岡鉄次物語 父母編8-3

《守って3》貧しくも

☆廃業後の頼正と珠恵と子供たちの生活は貧しく厳しいものになる。

頼正たちが移り住んだ家は、未完成のまま放置されていた一部床や壁の無いあばら屋だった。
家の場所は、蒼生市の中心を南北に走る本町通りを南に向かい、河間民夫の住まいの一町手前辺りを西に少し入った一画にあった。家の前に小川の流れる古い家屋だ。

その家は、昔の武家屋敷の回り廊下のような縁側がL字に続いている。縁側の突き当りには便所があった。普段は雨戸を開け放してあるので、外廊下があるようだ。
畳の部屋が3つ有り、襖か障子を開ければ廊下があるが、そこにはいきなり外の空気と外の眺めが現れる。

畳は使い物にならないぐらい荒れていたので、とりあえず古新聞を敷いて、少しずつ新畳に替えていった。
台所は土間で、へっつい(かまど)があり薪が有れば使えそうだった。電気の供給がなかったので、整備点検をして、使えるようにしたが、水道がなかった。
飲食用の水は、事情を理解してくれた少し離れた家からもらうことが出来たが、水は重い、珠恵は運ぶのに苦労していた。風呂用には目の前を流れる小川の水を使った。
土間の隅には、頼正が何処からか調達した風呂桶を据えた。薪で焚く釜のある風呂だ。
土間の続きに板の間らしい部分があるが、肝心の板が無く縁の下が丸見えだった。少しずつ板を張っていき何とか床が出来た。
壁の無い部分が何ヵ所かあったが、簡単にベニヤ板を張った。

子供たちにとっては面白い家だが、直さないと使えないところだらけで、頼正と珠恵は毎日少しずつ修繕作業を続けた。
夏は涼しい風の通る家も、冬の風のある雪の日は、障子の隙間に雪がたまるような寒い家だった。

頼正はあばら屋を家族で住めるように何とか修繕して生活を始めた。珠恵は設備の整っていない不便な中でも、昔のことを思えば何ともないと、家事をしていた。

昭和31年も終わろうといている頃だ。
 
この年には石原慎太郎原作の日活映画「太陽の季節」で石原裕次郎がデビューした。

売春防止法が公布された。売春を処罰し、売春を行うおそれのある女子に対して補導や保護を行い、売春の防止を図るためとした。翌年には赤線が廃止されることなる。

中央気象台が気象庁として生まれ変わった。

9月に台風12号が発生、中心気圧930ヘクトパスカル、過去最大となる73.6mの瞬間風速を観測した。台風は沖縄本島に上陸、横断して、五島列島を通過し、対馬海峡から日本海へ抜けた。
死者行方不明者41人、負傷者251人、全壊家屋5,318戸、浸水家屋4,800戸の被害を出した。特に沖縄地方では戦後最大の被害となった。

蒼生市の東側に、南北に走るバイパス道路の工事が進められていた。
頼正は臨時雇いの土工として、汗を流していた。1日働いて200~300円(今の5~6千円ほど)の日当だった。

ある時は森林業者の助っ人として山へ伐採の作業に、また河間民夫の勤める三木商店で、廃品回収や古物商の手伝いをして頑張っていた。

頼正の家は薪をたくさん必要としていた。頼正が伐採仕事に出掛ける日は、子供たちから「薪のお土産ね~。」と見送りされていた。

小さな子供をかかえている珠恵は内職仕事に精をだしていた。色々な内職をしていたが、単価の安い内職はいかにたくさんの作業が出来るかだ。子供の手でも借りてやる必要があった。
睦美と幸恵は幼く拙い手で、懸命に珠恵を手伝った。子供たちにとって、母といっしょに流行歌を唄ったり、母の話を聞きながらの作業は楽しい時間となっていた。

幼い子供たちには貧しさの切なさはわからなかったが、睦美と幸恵は物事がわかる年頃になっていたので、少し辛い経験をしていた。

珠恵の内職は経木紙の糊付けだった。
経木紙とは杉や桧を薄く削った板に紙を貼ったもので、当時おにぎりなどの食品を包装するのに使われていたものだ。

ある日、睦美と幸恵は2人だけで内職した経木紙を発注先に納品に行った。
発注先の主人は経木と紙の間に棒を差込み、剥がしながら怒鳴った。

『こんなんじゃあ、お金払えないぞ。やり直しだ。』

睦美と幸恵はなんてことをするんだと思い、悔しさで涙した。2人は仕方がないと、品物を持ち帰るしかなかった。

隙間風の入る寒い家での経木紙の糊付けは、糊が凍ってしまい接着が不十分だったのだ。

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