辰 八月納涼歌舞伎『髪結新三』『狐花』
<白梅の芝居見物記>
梅雨小袖昔八丈 髪結新三
私が『髪結新三』を初めて拝見したのは、初代尾上辰之助丈の新三でした。当時はまだ歌舞伎初心者で、芝居の中の新三と全く同じように大家さんの言っていることがわからず首をひねって見ていたのを思い出します。
辰之助丈の新三が魅力的で、中村吉右衛門丈の源七も喜劇味があったので、喜劇的要素の濃い芝居でカッコイイ役者さんを見て楽しむものだと当時の私は解釈していました。
十七代目中村勘三郎丈の新三を拝見するに及び、役者の芸うまさ、その妙や味わいを見せる作品でもあるのだなということを教わります。
ただ、その後は芝居のうまさもさることながら、私としては素敵な役者さんの魅力を堪能させていただくことが第一義である芝居として楽しんできたというのが正直なところです。
今回、中村勘九郎丈の新三や松本幸四郎丈の源七を拝見していて、この作品を改めて考え直す必要性が自分の中に生まれました。
それは恐らく世話の型物とし見せるだけではなく、今の若い役者さんらしい特徴だと思いますが、特に新三の役作りに心理描写が顔を覗かせるため、改めてこの作品がどういった芝居として描かれたものかを考え直す必要性を感じたからです。
今までに感じたことのなかった大きな特徴が一番出ているのは、新三が源七に金を突き返すところです。新三が怒りを直に源七にぶつけそれを受けた源七も怒りを直に返す。ここの所の緊迫感は今まで感じたことがない程生々しいものでした。
この生々しい怒りが、閻魔堂橋における源七の行動につながる動機として、ある意味説得力を持つ結果とはなったとは思います。ただ、それが古典として洗い上げられてきた型物の作品としていいのかどうか‥。
『梅雨小袖昔八丈』は明治6年(1873)6月東京中村座で初演されました。作者は河竹黙阿弥(五十七才)。乾坤坊良齋の講談を脚色したものとされます。
新三は三十才の五代目尾上菊五郎。源七は六十五才の三代目中村仲蔵。この時、仲蔵は源七と大家の二役。菊五郎は新三と大賀越前守の二役を演じています。さらに車力善八と居酒屋三右衛門の二役を中村寿治郎が演じていることは注目すべきだと私は思います。
古典歌舞伎において一人の役者が何役か兼ねる場合、ただ単に早替りとか多様な芸を見せるということが本来の目的ではないことは、強調しておきたいと思います。
また、本作でどういったことを作者やその周辺の人が意図していたであろうということは、『四千両』などとは違い、その背景の説明を含めるととても1-2冊の本を書いても説明することは出来難いことが当て込まれていると私は考えているので、ここでは割愛せざるを得ません。
ただ、初代が齋藤某の子であると伝えられている中村仲蔵の三代目が大きな二役を演じていること。また菊五郎家が屋号を音羽屋とし神田明神と深い縁を持っていたことに注目すべきことだけは指摘しておきたいと思います。
浮世絵師や講談師をはじめ、近世以来の文化活動においてその名に「齋」の字を用いている者が異常とも思えるほど多いこと。その名を名乗ることには何らかの思いを受け継ぎ伝えようという意図があるであろうことを見逃してはならないであろうことは、歌舞伎を考える場合にも是非心に留め置いていただきたく思います。
本作の初演を思えば、源七は決して幸四郎丈の仁(ニン)とは言えず、ある意味気の毒な配役と言えるのではないでしょうか。吉右衛門丈のように源七を愛嬌で押し切ることの出来る芸風でもないので、喜劇的に演じることが出来ないと面白みも出ない役どころのようにも思われます。
また、大家は坂東弥十郎丈のような好々爺的な側面を持った人物ではなく、もっと一筋縄ではいかない手強さで新三をやり込めるところが、一つの眼目となる人物であるかと思われます。
ただ、そうしたことをいちいちあげつらうより、舞台を楽しめればいいように思われる自分もいるのですが‥。
この作品を古典として掘り下げる志のある役者さんがいるのであれば、一度通しでの上演を試みてもいいようには思われますが、如何でしょうか。
追記的にはなってしまいますが、感想を少し羅列します。
勘九郎丈の新三は、魅力的ですがまだ手順を追っている感が否めないように感じられました。
中村扇雀丈のお常が、ほどよい色と大店を背負う女性の程よい品格が出ていて存在感を発揮されていました。
幸四郎丈の源七は叔父吉右衛門のような座頭役者らしい風格が出てきていて、幕切れではこの場の源七にふさわしいと言えるかは別として、幡随院長兵衛が見たいと思わせる大きさと色気が感じられました。
中村七之助丈の忠七は、簡単に新三の術中にはまってしまう世間知らずで、熊の結納に対してどこにでもいる若者のような嫉妬を覗かせる軽薄な人物像に見えてしまい、私としては不満が残りました。この役には『忠臣蔵』の判官にさえ通じる品格と一本筋の通った人物像が求められると私は考えています。
坂東巳之助丈の勝奴はイキがよく江戸前の奴の雰囲気をよく出しているように私には思われました。
中村いてう丈の鰹売り。中村助五郎丈以来の久々にイキのいい鰹売りを拝見出来て嬉しかったです。
狐花 葉不見冥府路行(ハモミズニアノヨノミチユキ)
作家デビュー30周年を迎えるという京極夏彦氏の書き下ろしの新作。
京極氏の作品を拝読したことがない者が京極作品に関して感想を書くことに抵抗がないではありませんが‥。
今回、歌舞伎上演と併せて出版された小説の方も読んでみようかとも考えもしましたが‥。京極ワールドを知らないのであれば、かえって一人の見物として感じたままをつづった方がいいようにも思われたので小説は読んでおりません。
SNSに所謂「ネタバレ」を遠慮するコメントが多く見られたことに、歌舞伎を長年見続けてきた者にとってはかなり違和感を感じていました。
実際、ミステリー色のある謎解きを作品の面白さとして捉える観客がいて然るべき内容のストーリー仕立てであることは確かでしょう。
ただ、ネタバレがあってもなくても楽しめなければ、歌舞伎を見る醍醐味も得られないないことは確かなようにも思います。
この作品を拝見して、この作品の中心を成すのは上月監物ではないかと私は解釈したのですが、上月監物は歌舞伎の世界に馴染んでいなければ生まれ得ないキャラクターであるかと私には思われます。
京極氏は歌舞伎や浄瑠璃をよくお読みになっているということで、それが上月の人物設定に大きな影響を与えていらっしゃるのかもしれません。
私は、歌舞伎や浄瑠璃は歴史上に名を残すような大物の人物を中心に描いている演劇だと考えています。今回作者がそれを意図していなかったとしても、歌舞伎の作品以上に、現代的な解釈でこの歴史上の人物が描き出されているように私には感じられます。
歌舞伎で描かれている歴史上の人物は実際にはこうした人物であったろうとあらためて考えさせられました。
現代風に言えば所謂「サイコパス」と言えるのでしょう。表面的にどう見えていたかは別として、この人物には「愛」や「慈悲」といった人間らしい感覚は実際には皆無であっただろうと改めて気付かされました。あるのは「支配欲」もしくは「征服欲」。
一見一人の女性の色香に迷ったように描かれますが、彼女の立場やバックにある財力等に魅力を感じていなければここまで一人の女性に対して執着することはあり得ない人物であったでしょう。
邪魔な者は消すというより、利用価値のないものは切り捨てるといった方が、この人物を表現するのに適しているように私は思われます。
それは、単に政治的な独裁者などというくくりで表現出来る人物ではないのだと今回教わったような気がします。
ただ、本作の中で上月という人物を鮮やかに描き出しながら、この人物を「法」によって裁けるととらえているところに関しては疑問が残ります。
実際に「法」で裁けるとしたら、どんな証拠を持って、どんな事実を暴くことによって裁くことが出来るのか。「法による仇討ち」という一番大切な部分が描き切れていないように私には感じられました。
なにより生き証人がすべて死んでしまい、舞台の中の現実問題としてさえ、むしろ上月は裁きから一番遠いところにいってしまっているようにさえ私には感じられます。
人間に罪の意識を感じることの出来る「心」があれば、人の良心に訴えるような「裁き」も有効でしょうが‥。
罪の意識がそもそもなく、回りの者がその人物の表層しか見ていな状況であれば、”法”によって裁きを受けさせることが出来難いことは、近世演劇が扱う歴史を見れば私は証明することが出来るとさえ考えます。
そのことに関して今は詳細に説明することは出来ませんが‥。
嘆き悲しんだり出来るのは人の心を持っているからです。人を恨んだり憎んだり出来るのも人の心を持っているからでしょう。
ただ、憎しみを超越して、正しい道を歩もうとする力は人間にはあるはずです。
例え悲劇的結末であろうと、この作品の中心人物が、萩之介もしくは中禅寺洲齋とし描き切れていればと‥、そこが残念に思われます。
舞台としては出演者の皆さんお一人お一人がご自分の持ち場できちんとした芝居をされていたのが印象的で、決して悪い舞台ではなく、きちんとした芝居を楽しませて頂くことが出来たことは確かでした。
今回、登紀の坂東新悟丈、実祢の中村虎之介丈が、癖のある娘役を好演しており歌舞伎の女形ならではの描写が頼もしく感じられました。
2024.8.12
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