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泉鏡花作 歌舞伎『天守物語』

十二月大歌舞伎 第三部 <白梅の芝居見物記>

 今回の歌舞伎座の舞台は、幕開きから幻想的な雰囲気が薄く感じられ、異界を覗いていると言うより、上村吉弥丈の芝居をはじめ殿上人の無邪気な日常を見ているような出だしで少し戸惑いました。
 無意識のうちに自分の中でイメージが固まっていた『天守物語』とは、よほど違った肌触りの舞台となっており、違和感を禁じ得なかった。というのが、最初の印象でした。

 それが、さらに中村七之助丈の富姫の登場で、坂東玉三郎丈以外演じる者がいない、という現実を、いやが上にも思い知らされこととなりました。
 それが、玉三郎丈の亀姫の登場で空気感が一挙に変わり、一人の役者の存在によってここまで舞台の空気が変わるものかと、改めて玉三郎丈の独特な存在感、その大きさに圧倒されました。

 ただ、玉三郎丈の退場によりこの舞台はどうなるのだろうとちょっぴり心配をしたのですが‥。その心配は、すぐに消えてなくなりました。
 玉三郞丈の『天守物語』とは、全く別の作品世界が展開され、それがとても興味深いものだったからです。玉三郎丈の舞台からは思いもよらなかった作品のテーマが私に迫ってきて、そちらに心惹かれることとなったからです。

 泉鏡花の作品と言えば、怪奇趣味であったり、神聖なロマンティシズムや、幻想的な世界とのイメージが強く、玉三郎丈の『天守物語』は、まさにそれを体現していたような舞台でした。
 現実世界ではない神秘的で、幻想的で、耽美的な世界を、そっと覗いているような観劇体験が魅力であったと思います。それが『天守物語』という作品の在り方であると、玉三郎丈の舞台から無意識に固定観念を持って見ていたのだということを強く感じました。

 今回、七之助丈と中村虎之介丈の台詞のやり取りに耳を傾けていると、この作品の別の側面が初めて見えて来たように思いました。

 原作の戯曲を読んではいないのですが、この作品の裏には、強い反戦への思い、「武力」への偏重に対する危機感があったのではないか。人間のあるべき姿や純粋な思いがゆがめられかねない、そんな方向に世の中全体が進んでいっている「空気」を、日本社会に感じ取っていたのではないか。そんな世の中に、この作者は警鐘をならしたかったのではないか。
 今回の舞台を見ていて、そうした鳥瞰的に、冷静に日本社会を見ている作者の目線を感ぜずにはおれませんでした。

 『天守物語』は、大正6年(1917)9月に雑誌「新小説」に戯曲として発表されています。泉鏡花自身が上演を強く望んだそうですが、その望みを生前に叶えることは出来ませんでした。初演は発表から30年以上も経った、第二次大戦後の昭和26年(1951)10月の新派による上演でした。

 作品が発表された時、日本がそれを上演できるほどに成熟した社会であれば、あの悲惨な戦争はなかったのではないか‥。などと考えたりもしますが‥。発表当初の日本社会は、鏡花の思いが叶えられることのない世の中であったとは言えるでしょう。

 大正6年と言えば、第一次世界大戦下。日露戦争に勝ち、日本が無謀な世界大戦に突入していく流れがいよいよ強くなっていった時代です。
 武力に対する過信。力や社会的風潮の圧力によってねじ曲げられていく真っ当な考え。時代の風潮に流され、日本人自身が人として大切なことが見えなくなりつつあった時代であったのではないでしょうか。
 そうした時代であることを泉花自身が感じとり、大変な危機感をもっていたのではないか。

 鏡花の作家としてのデビュー作は、神奈川で起こった「真土事件」という農民の暴動を扱った『冠弥左衛門』でした。
 世の中に対して、社会に対しての問題意識を若い頃から強く持った人物であることを、私は、今回初めて知りました。
 
 七之助丈と虎之介丈によって、そうした作品世界を垣間見せて頂いたように思います。
 玉三郎丈が積み上げてきた前半の異界の幻想性は薄いものの、後半の、まだ世間ずれしていない人間として澄んだ心を持つ若者と、澄んだ精神世界を希求する異界の者の、純粋な心の結びつき‥。耽美的な舞台でなかった分、かえって若い二人の役者によって、純粋な精神の結びつきの美しさが浮かび上がってくるような舞台であったように感じました。

 七之助丈は、玉三郎丈のような抽象的な美や幻想性を体現できる芸質の役者ではないように、私には思います。
 彼の特徴は、無器用なまでに人間くさい芯をもった、自分自身が惚れ込むような人物であれば、生き生きと演じきれるのですが、型から入って役の美しさを追求していくことや、抽象的な美で観客を魅了するような役柄を得意とする役者ではないように、私には思えます。

 そうした玉三郎丈とは対極の芸質ゆえに、玉三郎丈とはあまりにも違うがゆえに、玉三郎丈にはなかった、鏡花作品の可能性が今回開けたようにも、私には思われました。

 玉三郎丈の中でも、新しい世代を導くなかで、新しい鏡花の世界が広がりつつあるのではないか。そんなようにも思えます。
 七之助丈の富姫は、玉三郎丈の目には足りないところばかりではないのか。まだまだ、不完全さが目に付きますが‥。それは、また深める部分の余地が、大いにあるということのようにも思われます。

 悲劇の中に終わるかと思われた幕切れ‥。
 中村勘九郎丈の工人、近江之丞桃六が絶妙な味わいで魅せて幕となります。自然の営みに思いをはせ、どんなに傷つけられても、心の目さえ澄んでいれば、世の中に光はさす。
 純粋な心の目は、人間が修復しようとすれば、いつでも、何度でも修復することが出来る‥。
 そんなことを信じさせてくれる、美しい幕切れでした。

 そうした心に灯火が残り、心温められ、劇場を後にすることが出来るとともに、古典となっていく作品の強さをしみじみと感じることができました。
                         2023.12.26
 

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