見出し画像

歌舞伎とは如何なる演劇か その五

定式幕から読み取る歌舞伎の精神

定式幕の本来の色

 歌舞伎の舞台で使われる、黒・柿色・緑、この三色に染めた布を縦に縫い合わせて作った引幕を定式幕といいます。いつも使われる幕だから「定式」です。
 歌舞伎揚のパッケージでもお馴染みです。
 現在、歌舞伎座や、色の順番は異なりますが国立劇場で使用されています。その他、歌舞伎が上演されるときには、この定式幕を引幕が使用される作品ではかならず用います。また、現在中村屋が仮設の劇場である中村座で使っている引幕は、黒・白・柿色の三色ですが、これは江戸時代の中村座の定式幕にならっているのかと思います。
 ただ、この三色がいつ頃から定着したのか、実はわかっていません。

 江戸時代、江戸三座の引幕はこの三色ではありませんでした。

 享和三年(1803)初版の『戯場訓蒙図彙』巻二に、「幕の染色の異同」として、次のように記載されています。
  堺町の芝居は紺・柿・白の三色を用いる
  木挽町と市村座は紺・柿・緑の三色を用いて白を用いることはない
    (※堺町の芝居=中村座。木挽町=森田座)
 少なくとも享和までは、今のように黒は用いられず、その代わり紺が使われていたことがわかります。

 いつの間にか変わってしまっていた、ということではなく、これは意図的に変えたのだと私は考えています。それは、もともとの三色がどうしてその三色を用いていたのかを考えることで、自ずから知れることだと思います。

唐三彩の配色を取り入れた江戸時代の引幕

 江戸時代の官許の劇場である三座とも、紺・柿・緑・白、この四色のうち三色を使っているのですが、これは”唐三彩”の配色を取り入れているのだと私は考えます。

 唐三彩とは、唐代の色釉を施した陶器で、主として副葬用に制作されたものとされます。博物館などで目にしたことがあるかと思います。盛唐の則天武后の武周革命(690~705)の時期に、一挙に成熟したと言われます。白・緑・褐色の三色の組み合わせが最も多いと言われますが、藍を加えた緑、褐、藍もよく目にします。
 唐三彩は、盛唐の貴族文化を背景としていて、長安、洛陽の都付近だけに見られるもので、唐の貴族文化が衰えると見られなくなるようです。中国の陶磁器は、青磁、白磁が隆盛となり、次代に受け継がれていくことになります。

日本の文化に深く根を下ろす”唐”

 能狂言や歌舞伎の舞扇で、大輪の牡丹の花を描いたものが使われることがあります。石橋物という演し物のジャンルでは、牡丹の花が欠かせません。
 中国で牡丹は「あまねく花を看るも此の花に勝るものなし」(『全唐詩』巻二十六)と絶賛されます。別称として「花王」「花神」「富貴花」とされるほどでした。
 唐の時代に、牡丹は熱狂的に愛玩されたようです。
 今でも、牡丹は美しさの化身で、純潔と愛情を象徴するとされるのだそうです。
 一時期、中国では牡丹を国花に指定していた時期もあったようです。現在、それは否定され中国の国花をどうするのか模索中であり、未だに決まっていないようですが‥

 日本の伝統芸能のみならず芸術や文学と、「唐」が切っても切り離せない関係性を持つことは間違いありません。
 日本では、舶来物を唐物(カラモノ)と呼んだ時期が長くありました。海を渡ってくる物。「唐=加羅」であったことは、記憶にとどめておいていただきたいと思います。

 江戸時代の商工業者を中心に花開いた文化において、盛唐時代が一つの見習うべき、時には顕彰すべき、もしくは思いを致すべき時代であったことは間違いないと思います。

北斎もこだわった唐三彩

 信州小布施の北斎館で、『冨嶽三十六景』全作の展示を見たときです。
 このシリーズが唐三彩、白地に柿、緑、藍の配色にこだわって描かれている作品群であることに、はじめて気がつきました。
 それまでは、『冨嶽三十六景』の「神奈川沖浪裏」は、あざやかな藍で刷られたものが素晴らしく、印象に残っていましたし、「赤富士」も、あざやかな色の赤と藍の対象が魅力的な作品というイメージが強くありました。
 それが、小布施では、全作とも素朴な配色の刷りのもので統一された作品が集められ、展示されていました。この時、本来の意図をくみ取れていなかったことに、はじめて気付かされたのです。

日本建国の精神と唐の文化

 TVドラマでお馴染みの”水戸黄門”こと、徳川光圀。
 水戸のご老公様は、名前に「國」の字ではなく「圀」の字をわざわざ使用しています。「圀」の字は則天文字と言われます。中国武周の則天武后が制定した文字です。
 光圀は『大日本史』の編纂に着手し、水戸学の基礎をつくった人ですが、その方が、自分の名前にわざわざ則天文字を用いていることは、記憶にとどめておいて頂きたく思います。

 歌舞伎を支え、守り、伝統を受け継いで来た人たちの思想的背景には、「日本」建国にまで遡って、何かを学ぼうとし、何かを受け継ぎ、自分たちの生きる時代に生かしていこうとする精神があったことは間違いないのではないでしょうか。少なくとも日本には千三百年の歴史があります。そして、千三百年前の国作りを行った人たちは、さらに列島を越えた、人間の営みの中に何かを学び、生かそうとしていたのだと、私は考えます。

源平交代思想

 「色」という観点からいくと、歌舞伎でもよく取りあげられる、平氏の赤旗、源氏の白旗。これは、歌舞伎を見る上でも大変重要な視点であると思います。
 源平交代思想とか呼ばれる考え方がありますが、源氏が善、平氏が悪との構図は、人形浄瑠璃作品の中心にある考え方と言えるのではないか、と私は思っています。
 人形浄瑠璃の作品群は、歌舞伎においても重要な位置をしめますが、寛政期を境に、ほとんど新作が書かれなくなります。天明の大飢饉を経て、世情が不安定化し、松平定信の改革が断行されるなかで、人形浄瑠璃の中の、源氏絶対の考えが成り立たなくなって来たからではないか、と私は考えています。

 源氏の在り方が絶対でないとしたら、それでは、どうしたらいいのか。
 簡単には見いだせずとも、暗中模索しながらでも前進することが求められる時代に、致命的な言論統制は、厳しさを増すばかりでした。
 それまでも、歌舞伎は執拗に言論統制のターゲットにされて来ました。
 安永六年(1777)、大阪中の芝居で上演された歌舞伎の『伽羅先代萩』は、日本演劇が、ようやく成熟した戯曲を生み出すまでに成長してきていることを証明する作品だったと思います。
 しかし、そうした戯曲を次々に生み出していく芽は、ジワジワと摘み取られていきました。
 文化期にはまだ、民衆の中に根強い活力があり、それが歌舞伎の新作にも表れています。しかし、文政期から天保期、頽廃的な空気が歌舞伎の新作にも否応なく反映されていきます。

赤と白の融合―鴇色

 それでも、歌舞伎には反骨精神がありました。
 先に紹介した『仮名手本忠臣蔵』を独参湯とし、健全な作品も上演され続けました。
 また、人形浄瑠璃の作品を大事に上演する一方で、源氏だけを絶対とせず、平氏のよいところも認めていたことは間違いありません。
 歌舞伎の衣装でひときは目を引く「赤」。これは単に配色の妙や伊達で使用されているのではない、と私は思います。
 歌舞伎が様々な役柄で使用する色使いには、その人物の性根がどういうものであるのか、しっかり暗示されているのです。
 そして、赤と白を混ぜた鴇色の衣装、それは、どちらも持ち合わせている象徴であること、それだけ今は指摘しておきたいと思います。

 「歌舞伎」は、「傾き者(カブキモノ)」が生み出してきた芸能であり、演劇です。
 空気を読み、小善を振り回し、何となく流され受け入れていく日本人に、「何故?」を突きつけてくる存在。
 この「傾き者」達を説得できなければ、どこかが歪んでいるか、説得する人に問題があるのだと。そうしたことを考えさせる演劇、それが「歌舞伎」なのだと、私は思います。
                     2023.9.12


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?