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中村鴈治郎丈への期待

七月大阪松竹座「沼津」

 七月大阪松竹座での「沼津」は、上方ならではの味わいのある、いい芝居であったと思います。
 中村鴈治郎丈の平作、中村扇雀丈の十兵衛、片岡孝太郎丈のお米と、中堅役者さん達のバランスのとれた布陣でしたが、なかでも鴈治郎丈の平作は、とても魅力的で印象的な舞台となっていました。
 素朴で温かみのある、根っからの人のよさ。その一方で、義にあつい十兵衛でさえ押し切られる、命を賭した平作の義のあり方が、鴈治郎丈ならではの柔らかみのある中にも芯の通った人物像として、自然に描かれており、『伊賀越道中双六』の世界観を改めて考えさせられる一幕となっていました。

 『伊賀越』は、『曽我』『忠臣蔵』とともに、三大仇討ちの一つです。何故三大仇討ちとして位置づけられるかは、単なる仇討ち物の人気狂言だからという理由からではありません。むしろ、歌舞伎を考える上でも、戦国から江戸初期の政治情勢を考える上でも、非常に重要な背景をもっているからこそ、時代を越えて練り上げられてきたと言えます。ここでは深入り出来ないですが、「沼津」も、単なる庶民の悲劇を描いている幕ではないと思っています。『伊賀越』の背景にある、日本人の義につながる美意識が強く意識されて描かれ、演じられてきたからこそ、名作として残ってきたのだと思います。鴈治郎丈の平作にはそれが自然に浮かび上がっていて、とてもいい舞台であったと思います。

『祇園恋づくし』

 昨年、やはりこの大阪松竹座で七月に上演された『祇園恋づくし』は、同年10月には東京歌舞伎座で再演されましたが、それもうなずける、楽しくて、上方らしい味わいが魅力の舞台であったと思います。
 作品自体よく出来ていると思いますし、幸四郎丈の江戸前の指物師留五郎がニンであり、おっとしりながらも抜け目のない芸妓染香も、意外(?)な魅力がありました。なかでも一番の功績は、鴈治郎丈の上方役者としての味わいが、単なるドタバタ喜劇に終わらない、「芸」で見せる要となっていらっしゃったことが、大きかったように私は思いました。

上方歌舞伎に寄せる期待 『けいせい仏の原』

 上方歌舞伎と言っても、役者さんそれぞれの方の個性によるところも大きいかと思います。今の上方役者さん、一昔前、さらにはその前‥と、どんな芸や型をもって上方の味わいと定義できるのか。一言では言えない幅もあるかと思います。
 そうしたことはひとまず置くとして、鴈治郎丈の個性をさらに発展させる方向として、鴈治郎丈に是非試みて欲しいと期待を寄せる芝居が、私にはあります。

 それは、近松門左衛門作の歌舞伎『けいせい仏の原』です。

 昭和62(1987)年8/29~9/1、国立大劇場にて、坂田藤十郎丈がライフワークとされた近松座の、第六回定期公演がありました。その演目が『けいせい仏の原』で、それは、私にとって大変印象深いものでした。
 近松門左衛門作、木下順二脚本、今井今朝子補訂、武智鉄二演出。
 初めて見た時、大変面白く感じたので、その後何度かのぞきにいったのですが、最初見た時の面白さが、その後全くなくなってしまった点で、より印象に残る芝居となりました。
 その頃、ちょうど国立劇場内のアルバイトをさせてもらっていたので、何度か舞台をのぞくことがたまたま出来たのですが、なぜ、最初に見た面白さが、急になくなってしまったのか、長らく私にとっては謎となっていました。

 その謎が解けたのが、随分年を経た、平成25(2013)年2/1,紀尾井小ホールで行われた「江戸演劇に生きた人々 第三回」を拝聴しに行った時でした。
 坂田藤十郎丈と鳥越文蔵氏の対談の後、坂田藤十郎丈による、絵入狂言本『けいせい仏の原』の朗読を聞いて、あの時の面白さはこれであったと、記憶が蘇ってきたのです。
 別の機会に、藤十郎丈であったと思いますが、演出家の意図に沿うことに抵抗があり、台詞の言い回しを、いつもの歌舞伎調に直してしまったという趣旨の話をどこかで聞いたのを、同時に思い出しました。

 きっと、武智鉄二氏の演出は、狂言本に残る台詞回しを、役者さんに要求していたのではないか。武智鉄二氏が見守っている時は、その台詞回しで試みていたものの、しっくり来ないため、いつもの台詞回しに戻していたのではないか。そんな仮説が、私の中で浮かびました。

 絵入狂言本を、台本と同じとは捉えない考え方もあるかと思います。
 しかし、一個人の感想にすぎませんが、近松座の面白かった舞台は、狂言本の台詞回しを取り入れたことにあったのではないか。朗読だけでも大変面白く拝聴出来たということは、これが舞台で再現されたら、さらに面白いものにすることが出来るに違いない、と私には思えます。
 狂言本と言えども、当時の台詞回しの粋が再現出来るくらい残っている可能性は、十分にあると思うのです。

 狂言本に残る台詞回しの再現を試みるということは、上方歌舞伎の「芸」の再発見ばかりでなく、新たな、上方歌舞伎の創造性につながる可能性を秘めているようにも、私には思われます。

 菊五郎丈の黙阿弥調の台詞回しや江戸前の啖呵。吉右衛門丈や仁左衛門丈は、義太夫や他の古典芸能など研究し、独自に昇華させた台詞術で聞かせる芸境を開拓しましたが、次世代に、台詞術で魅せる役者さんは、まだ出てきていないように思います。 

 歌舞伎にとって、台詞術というのは、もっと重要視されるべき要素だと私は思うのですが‥
 見た目にばかり重きが置かれすぎているようにも感じます。

 狂言本に残る、台詞回しの面白さ。
 それがしっくり来るような所作と合わせて、掘り下げられてもいいのではないか。
 そして、『仏の原』の再生には、今の鴈治郎丈の芸がうってつけのように私には思えますが、いかがでしょうか?
                     2023.8.1

 

 

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