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辰 六月歌舞伎鑑賞教室『封印切』 

 <白梅の芝居見物記>

 国立が行う歌舞伎鑑賞教室の意味

 国立劇場の再建問題が迷走する中、それでも六月七月恒例の歌舞伎鑑賞教室がとどこおりなく行われることに関しては、関係者の尽力に敬意を払いたいと思います。
 この迷走をもたらしている負の要因とは裏表と言えるでしょうが、決められた道筋や方針を粛々と実行していける誠意や能力は日本の役所の誇るべき部分であることは確かでしょう。

 コロナ禍が、非常に大きなダメージを舞台芸術のみならず文化活動全体に与えたことは間違いありません。
 当然続いていくと思われていた日常が脅かされ、社会がどうなっていくかわからない大きな不安の中で、文化活動は不要不急とみなされました。
 国によっては大きな爪痕を残した天災だったと思いますが、ありがたいことに日本において地獄を見る方は思ったほど多くはなかったのではないでしょうか。すでにコロナ禍があったことさえ忘れ去られているような日常が戻ってきています。

 不要不急と見做された文化活動ですが、その重要性が見直されたことも確かだと思います。
 鑑賞教室を粛々と続けることが出来るのも、教育現場において舞台芸術を鑑賞することの意義や重要性が再認識され、多感な十代に観劇を経験してもらうための補助制度を行政が充実させてくれているからだということは見逃せません。

 国立劇場だけが担っている事業ではありませんが、数年とはいえ友達との交流もままならなかった子供達に、少しでも上質な文化に触れて頂けるよう、舞台を作る皆さまのさらなる誠意や奮闘に期待したいと思います。

 国立劇場再建問題に関して、中村鴈治郎丈も一言おっしゃっていますが、それに関してはまた改めて言及したいと思います。 

 今回、六月の国立劇場における歌舞伎鑑賞教室は、荒川区民会館・サンパール荒川・大ホールで出張公演が行われました。

 歌舞伎の見方

 「歌舞伎の見方」で、近世の飛脚業に関して簡単にではありますが解説があったことは、芝居の導入部としては大変わかり易くなっており、よいアイデアだったのではないでしょうか。
 ただ、いつもの劇場とは違うということもあるからかもしれませんが、澤村宗之助丈が今の子供達とのコミュニケーションをどうとるか手探り状態であるように見えた点は気の毒なよう私には感じられました。

 舞台を作る側としては、観客の反応というのは気になるところだとは思います。ただ、もともと人とコミュニケーションをとるよりスマートフォンとにらめっこしていることの多い世代である上、数年といえども友達との交流さえ断たれていた今の若者達にとって、自分の気持ちを外にうまく出すことは私たちが考えるより難しいことなのかもしれません。
 また、子供が少ない今の社会において、あまりにも大人の方が子供に気を遣いすぎているようにも私は感じます。
 相手を見なくていいとは言えませんが、変に子供達の顔色を伺いすぎる必要もないように私には思われます。受け取るべきものはきっと受け取ってくれていると思います。

 恋飛脚大和往来 封印切

 今回の『封印切』ですが、井筒屋おえんとして片岡秀太郎丈がいないことの大きさを改めて感じさせられました。また、遊女梅川を上方色の薄い市川高麗蔵丈が演じていることにより作品としての違う側面が見えて来ました。また同時に上方和事の今後の在り方に関して改めて考えさせられました。

 近松門左衛門の『冥途の飛脚』が、何段階かの改作を経て現在の『封印切』につながるわけですが、その改変はある意味、時代時代の考え方を加味して姿を変え、また、役者の芸によって磨きをかけられて伝えられて来たことは、間違いないでしょう。
 そして今、現中村鴈治郎丈にはお父様の描いた世界からさらに作品自体に今一歩変化させることが求められる、そんな時代を迎えているのかもしれない。と、今回の公演で考えずにはいられなくなりました。

 3月に南座において若手俳優により上方芝居が上演されましたが、殊に『河庄』に対するコメントを読んでいて、うすうす感じていた事ではありますが‥。
 おそらく上方和事に限ることではないでしょうが、作品自体のテーマより、役者の芸の味わいにより重きが置かれる作品群である分、その問題点が如実に表れてくるようにも思われました。

 問題の根の深さを端的に表しているのは、中村亀鶴丈のパンフレットに載った八右衛門に対する次のようなコメントです。
 「決して悪人・敵役ではなく、あくまでも忠兵衛とは友達なんです」
 亀鶴丈のコメントを批判するのでは、決してありません。
 近松の『冥途の飛脚』を読めば、そうした解釈も当然出来るだろうと思います。ただ古典歌舞伎の在り方としては、『封印切』の八右衛門は悪人・敵役として描かれないと、芝居として成立しないように私には思われます。

 『俊寛』において、一番理が通っているのは敵役としえ描かれている瀬尾である、という考え方がベテラン役者さんの中にもあるようですが、そうした考え方がまかり通っては古典作品として成り立たないのではないか。そうした部分は思いの他多いように私には思われます。
 ただ、そうした考え方の方が現行の台本を読んでいて現代人の感覚とマッチするのであれば、原作に立ち返った上でなんらかの解釈の変更が求められるか、もしくは作品そのものの欠陥として改変が必要になってくるように、私には思われます。

 今ある上演台本だけで歌舞伎が描いてきた人物を合理的に解釈していくことの危険性を感じさせるととも、そこを乗り越えて存在意義を発揮してこそ、古典として残していく意義があるのではないか、と私には思われます。
 『曾根崎心中』を考察する際にも、近松門左衛門がどういった出自の人かという推測に少し触れました。『冥途の飛脚』も単なる巷で起こった三面記事的な事件を扱っただけの作品ではないと私は考えます。また、発表当時の世相にも思いを致しつつ、どういった思いがこの作品に込められているのか、改めて見直すことが必要な時代になっていると言えるのかも知れません。

 そうした考察は、時間をかけてなされていくものであるかと思いますが、鴈治郎丈にせよ、高麗蔵丈にせよ、身に付けた芸を遺憾なく発揮すれば、歌舞伎芸の素晴らしさは、若い人にも必ず伝わると思うのでそこは胸を張って演じて頂きたいと思います。

 ただ一点、音響のよさに重きが置かれた新しいホールでは歌舞伎の芝居小屋での台詞とは違った工夫が求められるのではないか、ということは是非指摘して起きたいと思います。
 ツケ打ちさんには気の毒ながら、ツケの音が金属音のような耳障りな響きがあるのは仕方ないにしても‥。
 世話物の台詞もつぶやくようにささやいては聞き取りにくいとは思いますが、かといって大劇場的な台詞回しだと大変耳障りなほど響いてしまって、台詞回しの機微を感じ取ることが出来ない側面があることは見逃せません。
 そうしたところは、劇場に合わせてどうにか工夫をして頂きたい点ではあります。

 今回の舞台で印象に残ったのは、高麗蔵丈演じる梅川の花道の引込みです。肚をくくって全盛を誇った遊女らしく凜として引込んでいく姿がとても美しかった。こうした人物像の方が悲劇性も却って増すように思われました。
 ただメソメソと男にすがるしか生きるすべがないような人物は、歌舞伎では基本的に描かれていないのではないかと思います。そうした女性は今の女性にとっても決して魅力的には映らないかと思います。歌舞伎にでてくる女性は、どんな立場にあっても芯のある凜としたところが私は魅力だと思います。

 鴈治郎丈の忠兵衛はやはり花道の引込みでは言い味わいをだしているのですが‥。ただ、忠兵衛が人間としての甘えが目立った情けない男という印象しか観客の記憶に残せないとしたら、歌舞伎においてはそれではいけないように私には思われます。
 誰からも慕われる人物には人間としての魅力があり尊敬が出来る部分や強さや時に弱さがあるはずです。ただ、人に慕われる人物であるにもかかわらず一つの過ちから我が身のみならず周りを不幸な状態に巻き込んでしまう、そこに悲劇があるのだと思います。
 そうした人物であることが観客にしっかりと伝わらないと、近松以来、この作品が伝えようとして来た大切な部分が損なわれてしまうように、私には思われます。

 亀鶴丈の八右衛門は上方の敵役らしいいい味わいが出てきているように私には思われます。
 なんといっても、中村寿治郎丈の肝入由兵衛が上方の味わいをしっかり出していらっしゃるのが貴重で芝居をしめていらっしゃいました。
 坂東彦三郎丈は最近ますます大きさを感じさせる舞台を見せて下さいますが、まだ上方のこうした芝居に馴染んで行かれるのはこれからでしょう。今後に期待です。
 井筒屋おえんに中村鴈成が抜擢され奮闘されています。長身が魅力ではあるのでしょうが、世話物であっても腰をしっかり落として重心を低くすることで人物の大きさもでてくるかと思います。今後上方歌舞伎を支えて行かれるお一人として頑張って頂きたいと思います。
                        2024.6.7

 

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