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二世中村吉右衛門三回忌追善 秀山祭 2

歌舞伎の”演出”を考える <白梅の芝居よもやまばなし>

 

 一本刀土俵入

 今年の秀山祭では、一興行の中で一役だけ別の役者で見る機会を得ることが、見物にとってはとても興味深い経験となることを実感させられました。
 ダブルキャストとして見る機会を得ることもそうですが‥。

 たまたま一つの役を、全くやり方が違う代役で見せていただけたのは、見る者にも、大変勉強になりました。
 休演を余儀なくされた役者さんには、申し訳なく思いますが‥。当初の役者で見ることを楽しみにされていた見物には、残念なことではありますが‥。
 どちらも見ることが出来た者としては、いろいろ考えさせられるいい機会となりました。
 今回、二人のまったく違った茂兵衛像を見ながら考えさせられたことを、少し書いて見たいと思います。

 この作品での、私の中での一番の舞台は、昭和60年12月、国立劇場における舞台であることを、まずはお断りしておきます。
 十七世中村勘三郎丈の茂兵衛も素晴らしかったのですが、何年経っても忘れられない、名場面として思い起こされるのは、実は、「布施川の川べり」の場です。老船頭、二代目市川子團子丈。清大工、二代目助高屋小傳次丈。
 二人が辰三郎の後ろ姿を見送り幕となる場面は、茂兵衛がお蔦家族を見送る幕切れの名場面に劣らない見せ場となっていました。

 今回の『一本刀土俵入』は、幸四郎丈、勘九郎丈の茂兵衛とも、それぞれの中にある、あこがれの茂兵衛像を再現しようと取り組まれている姿勢が、よくわかる舞台でした。
 茂兵衛のみならず、それぞれの役者さんもよくやっておられ、この作品自体がよく出来ているので、お客様も満足はしているのですが‥
 今回は、新作歌舞伎における演出家の重要性を実感したのも、また事実です。

 演出家の存在の重要性に気付かされたのは、本当につい最近のことです。大変恥ずかしいことではありますが‥
 本年五月の團菊祭大歌舞伎。私としては、好きな作品であり、久しぶりに見る『若き日の信長』。それが全く面白く感じられず、また、それが何故なのか、当初はうまく分析できずに、モヤモヤしていました。
 それが、渡辺保氏の劇評を拝読し、非常に納得させられたのでした。

 群雄割拠する戦国の世の中。信長が様々な思惑が渦巻く状況に放り出され、それでも一家を背負って立ち向かっていこうとする「若き日」の信長の姿。私自身の不満は、それを全く感じることが出来なかったことにあります。
 この作品を好きになったのは、十二代目市川團十郎丈の舞台が魅力的だったからです。十二代目は無器用な役者さんでした。この役が丈の人生とも重なる部分があり、また無器用さがかえってこの役の仁(ニン)にあっていたのかもしれません。大海に投げ出された若者の葛藤、それを無器用ながら乗り越えていこうとする若者の姿として印象に残る舞台でした。
 そして、若く無器用な役者を中心にしながら、舞台全体を見る演出家の力によって、作品としてしっかりとまとめられていたからこそ、いい舞台となっていたのでしょう。
 当代は、信長の晩年に近い年齢の感覚で作品を解釈し、それでよしとしていたのかもしれません。その信長像は、分別くさささえ感じさせながら、「弱肉強食」の世の中と割り切って戦場にむかっているようで‥。そんな姿を見せられても‥と、思ってしまったのが一番の不満と言えます。

 こうした新作歌舞伎は、演出家の意図にそって、作品全体を仕上げてこないと、上辺だけの再現に陥ってしまう、という視点を、渡辺氏の劇評から学ぶことが出来ました。

 『一本刀土俵入』に話を戻します。
 私の中での一番の舞台は、役者さんの実力もさることながら、作者:長谷川伸氏に師事しその作品の演出をずっと手がけられていたという、村上元三氏の演出によるのではないか。
 そんなことを、今回考えさせられました。
 60年の国立は、役者の芝居もさることながら、大道具や照明、音響効果まで、細部に至るまで目の行き届いた、作品全体として素晴らしい演し物になっていたと思います。

 今回の舞台が、そんなに悪かったわけではありません。
 皆さんよくやっていらっしゃった。
 吉之丞丈の弥八もよく今後に期待が持てる出来栄えでしたし、梅花丈もいい味をだしていたと思います。
 それでも、取手の宿、安孫子屋前の場に、なんだかしっくりこないものを感じました。場面全体に、その場で営まれている人々の生活感がないというのか。こうした作品群独特の空気感が漂わないというのか‥

 ただ、その代わり、今までとは違ったこの作品の可能性を私は感じました。
 渡辺保氏が、雀右衛門丈のお蔦に、今までの名優達から気付かされなかった女性の寂しさを見いだしたことを、劇評で書かれています。なるほどなと思いながら読ませていただきました。

 余談となりますが、雀右衛門丈のお蔦は、もう少し「小原節」を聴かせる「芸」にも磨きをかけていただけたら‥と思う点もありますが、美しく、芯の通ったお蔦であったと思います。
 また、お蔦の家では、松緑丈の辰三郎がいい味わいが出るようになってきていて秀逸でした。辰三郎もお蔦に惚れるだけの男性であり、お蔦がそんな辰三郎を改心させるだけの存在であること。そんな人物像が描ききれる、さらにいい場面となる可能性があることを、短いながら思わせいただける場面に仕上がっていました。

 渡辺氏のような、別の視点から勘三郎丈や吉右衛門丈とも違う茂兵衛像を、私は、幸四郎丈の芝居に見ました。
 幸四郎丈の中には、吉右衛門丈の朴訥な茂兵衛が印象深く、その朴訥さを大事に演じられたのだと思いますが。取手の宿では吉右衛門丈とは違う幸四郎丈ならではの茂兵衛になっており、そこに私は心を動かされました。
 一生懸命であれば、必ず横綱になれる。信念と言うよりは、自分を愛してくれた大好きなお母さんに、一生懸命生きることの大切さを教えられ、それを素直に聞き、一生懸命にやっていればなんとかなると思いながら生きてきたんだな‥。母親の姿まで想像できるような、そんな茂兵衛であり、その素直な心根に思わず涙が出ました。

 ただ、一生懸命だけではどうにもならない。そんなことをうすうす感じながら、それでも前を向いて生きようとしている。そんな若者が、片田舎の素朴で真面目で優しかった生母とはまた違った、女性に巡り逢うのです。
 酌婦に身をやつし、鉄火だけれど優しいまなざしを自分に向け、食べることさえ出来ないどん底の状態の自分に、全財産を与えてくれた女性。この女性の慈悲の心によって、一人の若者は救われます。これから横綱どころか相撲取りになる夢を絶たれながらも、前を向いて生きていく力を、この女性にもらったことは間違いないでしょう。

 ヤクザな渡世に身をやつしながらも、人として大事な事を守って生きようとする姿勢を貫いてきたであろうこと。そんな人物像となっており、それは、お蔦の存在があったからこそであることがすんなり入ってきました。
 そして、信じた女性は、信じたままの女性であり続けていた。
 それに引き換え、自分は今の姿に胸をはることはためらわれるものの、その女性の役に立つことは出来た。淡い恋心と寂しさを感じながら、これからもその女性をずっと胸にしまって、ブレずに生きていくのだろう。そんなことを想像させる、茂兵衛であったと思います。
 股旅の渡世人ではなく、後半は新門の辰五郎ばりに立派な人物になってしまったことが、作品本来の在り方から若干ずれてしまっているようで、残念な部分ではありますが‥
 役者の芸のうまさに心奪われるのではなく、作品の原点をみせてもらえるような、いい茂兵衛だったと思います。

 一方、この作品は股旅物としての味わいが魅力でもあり、代役の勘九郎丈の茂兵衛をよしとする感想が、SNS上にもありました。
 十七世勘三郎丈の茂兵衛が、一つの頂点であるとすれば、その流れの中にある勘九郎丈に軍配をあげる考えがあっても、然るべきだと思います。
 ただ、祖父や父の芸をよく写しているのですが、部分部分をよくなぞっているにすぎない面は否めませんでした。茂兵衛の人物像にしても、急に知的な部分が垣間見られるなど、真似るだけではなく、役として統一感を持って完成させるには、まだ距離があるようにも思われました。

 ただ、こう考えてくると、なにより作品全体をみる演出まで、出演の役者が負いきれるのか‥
 座頭役者が、作品全体の演出にどこまで責任を持てるのか。また、その必要があるのか‥
 それは、一概に言えないことであり、様々な考えがあってもいいことであるとも思いますが。

 一般的に、歌舞伎が演出家を必要としない演劇であるとの考えは、根強くあるかと思います。
 ただ、今回の秀山祭を見ていて、その考え方を絶対とすることへの疑問が、私の中で生まれてきました。

 義太夫狂言は、人形浄瑠璃というテキストと語りと三味線の様式がしっかり確率されており、それにのっとっているからこそ、その中でそれぞれの役者が、それぞれの工夫を積み重ねることができるのではないか。
 だからこそ、常に作品全体を見る演出家を必要としない面が、確かにあったのではないか。
 そんな考えも生まれてきました。
 舞踊劇や黙阿弥物など、浄瑠璃や三味線などで、その作品の世界観や雰囲気をささえる物があるからこそ、または、その雰囲気を出せる一座の芸風があったからこそ、全体をみる演出家を必要としない舞台作りが可能であったのではないか‥

 ただ、それはすべての歌舞伎作品に対して言えるのか。
 様式のしっかりした古典以外の、新作歌舞伎の演出を考える上で、池田大伍作『西郷と豚姫』にも言及してみたいと思います。
 先々代の鴈治郎では見たことがないのですが、十七世勘三郎と二代目松緑で見た舞台は、とても印象深く良い舞台でした。
 それを後年、二代目吉右衛門の西郷で見た時に、全く別物の作品を見ているようで、びっくりしたことをよく覚えています。二代目松緑の時に見た、作品の雰囲気や空気感がないことにかなり衝撃を受け、役者の芸以前に、作品そのものにがっかりしたことをよく覚えています。
 今思えば、作品全体に目配せ出来る演出家が不在であったからかもしれません。

 座頭役者が、演出まで手がけることが出来ればいいのでしょうが‥
 まだ若い座組の中で、演出家を入れて作品作りをしていくことの重要性を感じます。
 演出家自身を育て、大切にしていくということも、これからの重要な課題なのではないか。そう思うようになりました。

 そう考えれば、12月歌舞伎座の『天守物語』では、七之助丈が富姫で、玉三郎丈は亀姫に回り、作品全体の監修をするという姿勢は、刮目すべきことだと思います。
 演出家としても非凡な活躍を見せる玉三郎丈の姿勢は、多くの示唆を後進に与えるものであると言えるでしょう。
                       2023.10.3

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