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何も信用できなくなった消費者と、神聖化される発信者の魔女裁判。

「再生数のためって、いっそ言ってほしい。」

YouTubeのコメント欄に、体温の抜けた塩辛い文字がいくつも書き連なる。ディスプレイ上に表示されたそのメッセージはどこまでも機械的な表現だというのに、それは確かにこの地球上のどこかで生活している誰かが打ち込んだ、紛れもない「生きた言葉」であることが嫌でも脳裏をよぎる。

しんどい、な。

少し胸がギュッとして、わたしは思わずスマホの画面に目を細めてしまった。決して自分の動画につけられたコメントではない。あくまでネットを通して知ったクリエイターという、言ってしまえば「見知らぬ人」が作って発信しているコンテンツにつけられた、ただのテキスト情報だというのに。

一たびそのフレーズに釘付けになってしまったわたしの頭はチクチクと、まるで質の悪いウールで全身をすっぽりと覆われたかのような何とも言えない居心地の悪さを感じていた。

もう一度画面に目をやると、表現は違えどその動画にはいくつか似たような内容のものが連なっていた。コメントの内容を乱暴に要約すると、発信者が新しい製品に買い換える行為に対して「綺麗事を言うな」「金のためだろ」と罵っている内容がほとんどであった。

それは視聴者からの「怒り」にも、はたまた「失望」のようにも思えた。

自分が考えて、何かを「消費」すること。
それを他人に「報告する」ということ。

現代ではもう当たり前に思えるこの「ショーとしての消費」が持つ意味を、重みを、ふと考えてしまう。そのとても人ごとには思えないその現象について、わたしは冷めかけのコーヒーを胃に流し込んでからひとり、静かに思考を巡らせていたのだった。

難しくなった消費

先日、毎週月曜日に筆者が配信しているラジオ「ととのう月曜日」でも一部触れたの話題ではあるのだが、この頃「信用」と「消費」という2つのキーワードがわたしの中のホットな話題だった。

消費するという行為は、実は思いのほか難しい。

食料品はもちろん、化粧品やガジェット、はたまた体験などその範囲は幅広く、時にはデジタル課金という実態も際限もないモノへの消費額はリアルの消費額を上回るほどの勢いを見せるシーンも出てきた。

さらに現代のECの発達も相まって、もはや店舗に行く必要もなければ事前にATMから現金を下ろしておく必要もない。スマホの中で、ぽちぽちとボタンを押していくだけで口座から自動的にお金が引き落とされ、数百円から何百万円もの大金を動かすことができる現代は「即消費社会」とも言える。

その消費の発達に伴い、比例して進化したのが広告である。

資本主義社会において「消費を最大化すること」こそが企業の利益の最大化につながるのだから、あの手この手で消費を促すようになるのは自然の摂理だ。株主からだって会社の成長を求められるし、そのためには売上が必要になる。金の卵を産む鶏ともいえる消費対象を作ることが、現代の企業の使命ともいえる行為の一つであった。

そんな血眼で企業が取り組んできた「広告」だからこそ、行きすぎたものも出てきたのは事実だ。それは過大広告といわれ、現在では消費者庁が取り締まっているものも含めて「煽りすぎてはいけない」「誤解を招くような表現をしてはいけない」など、消費者が損をしないための守る仕組みも少しずつ進化している。

法で縛る必要があるほどのコトであるという事実こそが、この「広告」と「消費」という刺激的な関係を物語っているようにも思う。

しかしつい10年ぐらい前までは、企業の方が圧倒的に有利であった。どうしたって発信する内容も、その発信するメディアもお金で独占していたからだ。雑誌を見てもテレビを見ても、スポンサーが不利になるようなことは決して言えない。健康番組でもアルコールやタバコが体に悪いとは言えないし、あのシャンプーを使えば女優さんのようにサラサラヘアーが手に入ると刷り込まれる。

私たちは長年の経験で何となく分かっていた。あのCMで流れているシャンプーを使っても、あんなうるさらヘアーにはなれないということぐらい。

それでも心理テクニックを活用したプロのCMに個人が勝てるはずもなく、大半の人は「よく知っている商品」が欲しいし「よくみるブランド」や「有名な芸能人がイメージになっている商品」を手に取る。それが信頼であり、唯一の頼れるものであったからだ。

しかし、SNSの普及と同時に「赤裸々すぎる個人の体験談」がブログやつぶやき、動画コンテンツを通して速報性を伴った情報として入ってくるようになった。それは同時に、私たち消費者が腹の底でなんとなく押さえ込んでいた怨みを荒々しくほじくり返し、魅惑して離さないほどの威力を持っていた。

口コミの始まり

まず生まれたのが、特定サイト内における口コミだ。これは企業が用意するグルメサイトやECサイト内などで「実際に行った人」や「購入した人」が実体験をもとに意見を書き込むことができるシステムだ。

商品によってはレビューを書くとおまけがもらえたりと具体的なメリットを提示していることもあるが、根底としてその多くの書き込みを支えるのは「個人的な意見」と「自己表現」ができる、かつそれが「人目に付く=誰かの役に立つ」という人間の本能的な欲望を満たす場所でもあるということだ。

つまり、自己有能感を得るために多くの人はわざわざ時間と工数を使って口コミをする。

口コミが流行り出すと、口コミがない商品=怖いという新しい価値観が生まれ、酷評を受けるかもしれないというデメリットがあるにも関わらず「ないよりはある方がマシ」というスタンスで企業は自社商品の口コミを集めることに奔走した。

ついにはサクラと呼ばれる、いわゆる「良いこと」しか書き込まないダミー口コミの書き込みを専門の仕事とするあくどい集団すら出てきた。

世はまさに大口コミ時代に突入したのであった。

個人レビュワーの台頭

続いて台頭したのが、企業と一切の関係を持たない独立した「レビュワー」という存在だ。ジャンルは化粧品からガジェットまでさまざまではあるが、独立した自分の発信場所(ブログやSNS等)を持って活動するのが彼/彼女らの特徴だ。

以前の商品ごと、サイトごとに集約されていた有象無象の口コミとは異なり、個人が自分で運営するメディアだからこそコンテンツの一貫性はもちろん、視聴者への届け方もさらに自由度が増した。徐々に専門性が生まれ、化粧品ならこの人、ハイブランドのバックならこの人、キャンプ用品ならこの人と言った風に「個人のレビュー専門家」が誕生した。

そしてなんと言っても、その特徴はこれまでにない飛び抜けた「信憑性」にあった。

今ほど顔や実名を晒してレビューをする人は少なかったものの、実際の写真を載せたり「生の声」を書き込むことにより、読者からは「やっぱりそうだったんだ」という発見や「良くぞ言ってくれた!」という共感の声が上がった。同時に発信者と読者の間には「真実を暴いた」という一種の高揚感が生まれ、双方はより強く共鳴した。

しかし、ここに鋭く目をつけたのがやはり企業だ。

マス広告だけでなく個人にレビューを書いてもらうことの方が時に商品の信憑性が上がることを知った彼らが導入したのが「アフィリエイト」という報酬システムだ。ご存知の方も多いだろうが、アフィリエイトとは企業が発行した特定のURLなどを介して消費者が商品を購入すると、その掲載主にお金が支払われる報酬システムのことである。

要は個人が広告主になるのだ。

家でブログを書くだけで数万円の報酬をもらえるという事実は非常に魅惑的で、中には数百万円の月収を叩き出した「専業アフィリエイター」という新しい職業が生まれるほどの勢いを見せた。

同時に金銭報酬という甘い蜜に多くの人が怯み、ただただ誠実に「読者の反応」を喜び楽しんでいた純粋なレビュワー文化をじわじわと蝕んでいった。何せ、アフィリエイトは読者が「買うこと」が報酬の条件である場合がほとんどなのだ。

つまり、買ってもらわないとお金は入らない。

自然と「報酬が高い商品」を「いい感じ」に書く必要が出てきて、必然的に以前のような公平性は失われていった。

中にはクレジットカードや証券口座の開設など、一件あたりの報酬が数千円から数万円の高額報酬のアフィリエイトが登場して多くの人が群がった。その結果、それは金融関係の正確な情報がネットの検索結果から排除されてしまうほどの勢いを見せるほどであった。

これはいまだに継続している文化で、ネットの初心者ではそれが「アフィリエイトで稼ぐためのランキング」なのか「本当にそのライター自身のオススメなのか」を見極めることは非常に難しい。

またしても、消費者の求める「正しい消費」の糸口が、信用の置き場所が迷宮入りしたかのように思えた。

YouTubeが生み出した新たな広告システム

ここで新たに台頭したのがYouTubeであった。

発信者が作ったクリエイティブに広告が差し込まれるという形式は特段目新しいものではなかったが、それが「無作為に」「自動的に」行われるというのが意外にも画期的であった。

それまでもPV方式の自由広告スペースを設けるブログサイトは多かったが、やはり稼ぎ頭の主戦場はクリック型のアフィリエイト広告であった。この2つは単価が何倍にも異なるので、ブログで稼ごうとするとどうしても「直接商品を紹介する」アフィリエイト型を追求する必要があった。

これはライターをひどく悩ませた。

何せどんなにキャンプ用品を愛していても、キャンプ用品の高待遇なアフィリエイトを企業が提供しない限りはあまり稼ぐ余地がないからだ。趣味やボランティアとして割り切れればいいものの、文章を書くというそこそこ労力がかかる行為に対して「実際に儲けている人間」がいるというのに、自分は無償の奉仕をしていたのではなんだか腹落ちがしないのは当然とも言えた。

そうして適切な報酬を求めるとクリエイティブの幅が捻じ曲げられるというこの事実こそが、無垢でクリエイティブなライターたちをどこまでも苦しめたのだった。

しかしYouTubeはそこにメスを入れた。

動画の拡散性をプラットフォームとしてバックアップしながら、純粋なコンテンツにある程度の広告報酬をつけたのだ。そしてこの仕組みがもたらす「表現の自由度」に気づいたクリエイターは歓喜した。

たとえばポテトチップスのアフィリエイトはなくても、ポテトチップスを美味しそうに食べる動画をアップすると自動的にスナック会社の広告が貼られるようになった。クリエイターは自分が紹介しているコンテンツの内容はもちろん、商品がアフィリエイトの対象であるかどうかを気にする必要がなくなったのだ。

なんなら、語り動画のように商品そのものが出てこなくても一定のチャンネル登録者と再生数が担保できていれば広告がつくようになった。これはクリエイターの表現を制限することなく、広告主にとってもより多くのマスにリーチすることができる画期的なシステムであった。

また報酬額が思いのほか高かったことも特筆すべき点だ。

受け元のGoogleの決算資料を見ればクリエイターへの分配はあくまで一部だということは一目瞭然だが、それでもブログ時代に比べると爆発力があった。ブログで何億円の年収になったという話は聞いたことがないが、トップYouTuberであれば○億円円プレイヤーも決して珍しくはない。

これらの金銭的モチベーションをもとに、YouTuberは忖度をベースにした商品選びをせずとも思い思いのジャンルや思想を語ることが可能になった。その赤裸々さと、顔や声が出ることで感じる身近さから「動画で紹介されているものを買う」という新しく清らかな消費文化が再浮上したように思えた。

その市場が、あまりの過競争に陥るまでは。

消費者主義における神聖性に飲まれて

数少ない確固たる信念を持ち続けているメディアやライターを除けば、もう文章を主軸とする発信メディアは完全なPV主義をベースに、タイトルで煽り拡散させるという下品な手法が基本フォームになるほどに成り下がってしまった。

私自身ももう大手メディアには意図的に触れることがないよう工夫し、特定の思想を持っているような心惹かれる書き手さんの発信のみを選りすぐって読んでいるぐらいだ。

ググるという言葉が社会的に浸透したものの、5年ぐらい前と比べるとググった先の情報の「正しさ」を見極める困難性は飛躍的に上がっている。うっかり足を滑らせれば、読者はいつでも書き手の儲ける要件に絡め取られてしまう。それを言い悪いと断ずるほどの権限は全く私にはないが、少なくとも自分にとってそれはもう「要らないもの」でしかないのは事実だ。

しかし新しい「信用」を創造したかのように思えたYouTuberにも暗雲が立ち込めている。それはかつてのアフィリエイトと同様に「稼げる市場」として認識されたからこそ起きている、並々ならぬ過競争の現状であり、飯を食っていくには話のタネを選び抜かなければいけないというジレンマだ。

同じ製品、話題の製品をこぞって紹介する。できることなら徹夜してでも発表会を見て、朝方には最新の動画をアップする。それを視聴者が見抜いて「本当は使いませんよね」「すぐ売るんでしょ?」という切れ味の鋭い指摘をコメント欄に残していく。

本当に欲しいのかもしれないし、そうじゃないのかもしれない。どこまで行っても、その本来の意図は発信者本人にしか分からない。

それでもテキスト村の汚染から必死に逃れてきた市民が求める「清廉さ」を守ろうとする視聴者の声は、日に日に強まっているようにも思う。何よりその清廉さからはみ出ようとするクリエイターへの風当たりは、時に見るに絶えないほどの激情を伴って牙を剥く。

テキストでも動画でも、あらゆるプラットフォームにおける個人の声に求められる「神聖性」はもはやいち企業と並ぶほどに高まっている。これはかつてアフィリエイトの商材に悩んだライターとそう遠くない末路のようにも思えるし、それ以上の過酷さすら感じることすらあるのは私だけだろうか。

しかし過激な魔女裁判を行なってでも、私たちは消費を「失敗をしたくない」のだ。

そしてその期待に摩耗せず、長く清廉さに応え続けるのは一体誰なのか。消費の信用を裏付ける人々の遍歴とその重圧に思いを馳せながら、わたしは今日もAmazonを開いて口コミを舐め回すように眺め、もっともっと詳しい情報が欲しいと飢えた獣のようにYouTubeで商品名がヒットする動画を検索する旅路に出るのであった。

読んでいただいただけで十分なのですが、いただいたサポートでまた誰かのnoteをサポートしようと思います。 言葉にする楽しさ、気持ちよさがもっと広まりますように🙃