親の見栄っぱりに、わがまま、その子供として流され続けた人生・中編

裏口で私立中学に入学した私。

学力を満たしていないので、もちろん最初から点数が悪い。一学期は慣れない電車とバス通学でヘトヘト。何より小学校と塾で失敗した友人作りに一番体力を使う。

私がなりたいと思った人、それは塾で出会ったMちゃんと小学校で出会ったAちゃん。明るくて、ハッキリと自分の意見を伝えられる人になりたかった。

人はすぐに変われるのだろうか?

いや、すぐに変わることはできない。
しかし、変われずとも、変わったように装うことはできる。

中学受験のおかげで新しい環境を手に入れた。私の過去を知る人は誰もいない。バカだといじめられて、無視されていた私を知る人は誰もいない。

新しい自分を築いていく為の環境は整っていた。だから私は徹底的に、友達作りに時間を費やした。

何より、私は運が良かった。そんな無理して頑張っている私を、良い意味で知らず、周りはとても仲良くしてくれた。結婚した今も、友人達はご飯に行く仲だ。

でも無理をしすぎてたようで、身体がおかしくなり始めた。
半年経ったごろ、乗り換えの駅で腹痛に見舞われ、何とか登校するも保健室に直行。その日を境に登校しては保健室に直行し、2限まで休むことが多くなった。
症状は激しい腹痛と下痢。痛みで立っていられず、ひどい時は貧血を起こし、意識が飛んだ。
毎日毎日、朝は保健室に直行することが続き、遂には父に車で送ってもらわなければ学校まで辿り着けないほどになっていた。

両親も「頑張っていきなさい!」と、最初は言っていたが、いよいよ朝も起きられなくなった私を見てまずいと思ったようだ。これは根性論の話じゃないと。
一日学校を休み、大学病院に行って検査をして貰った。

結果は「自律神経失調症」

当時は「病名をつけられない症状に付ける病名」という認識だった。でも、親を根性論から引き剥がすには十分な病名だった。
その次の日から週に3回、父が車で送ってくれた。登校時間ギリギリまで車で休み、1限から出られるように工夫した。この工夫は父が自分で時間をコントロールできる自営業だからできた荒技で、普通のサラリーマンの家庭では無理だろう。

実際、私の後ろの席の子は自律神経失調症がひどくなり、わずか1年で退学していた。

3年生の中頃まで自律神経失調症に悩まされた。その影響でニキビも尋常じゃないくらいできた。今でも当時の写真を見返したくないほど、酷い顔をしていた。
中学校は義務教育。単位を満たさずとも卒業できるので、何とか中学生はクリアできた。

そのまま附属高校に進学。

高校に上がると、ようやく自律神経失調症が落ち着き、毎日1人で通学できるようになった。ニキビも治り、夢に描いた普通の学生生活ができるようになった。


また、勉強は赤点を取らない程度に、中学校で友達作りに勤しんだお陰で高校生活は楽だった。中学校から上がった子は240名、高校から入学した子は100名弱。
数から考えても、毎度クラス替えをしても誰かしら知っている友人がおり、一からの関係づくりをしなくて済むようになった。私が無理をしてでも努力してきた友達作りがひと段落することで、自律神経失調症が治るきっかけになった。

部活動もがんばった。軽音楽部。
当時はL'Arc-en-Ciel、GLAY、BUMP OF CHICKEN、ポルノグラフィティなど、バンドが流行っていた。もちろん私もMDウォークマンが壊れるほど聴いて、ライブにも沢山行った。

でもそんな楽しい高校生活も、長く続かなかった。

高校二年生、16歳の時
店が潰れたのだ。

自営業で、父が寿司職人として経営していた店は時代と、周りの住宅地の変化について行けず、ウン百万円の借金を残して潰れた。

しかも、ただ単に潰れたわけではなかった。
実は私が小学校4年生・10歳の時に古くなった店を取り壊し、新しく改装したのだ。

改装した理由は売り上げ低下のため、寿司以外も売る、和食レストランのような店にする為だった。天ぷらも焼き鳥も売ってる。今で言う和食居酒屋だ。普通ならもう少し売り上げが伸びてもいいと思う。でも、売り上げは伸び悩んだ。

理由は簡単だ。

父は自分が分析した「周りの住宅地の変化についていけなかった。」という結果を全く生かさなかった。
自分の居る地域が求めているもの、客層、売り上げ単価、世帯人員数、父はこれらの基本的な事を調べず、考えず、自分が理想とする思いのままの店を作った。そんな店は当然、田舎の住宅地の雰囲気に全く合わなかった。

時代は美味い・安い、デフレが続いていた時代に、誰が高級感を出した店構えの和食・寿司を食べるだろうか。回転寿司が流行り始め、誰でも簡単に寿司が食べられる時代に、我が家は付加価値を見いだせず、ただただ金をかけて、父の理想を実現させてしまったのだ。

そりゃ潰れるよ。


後に分かったことだが、この改装する時点で店の経営も家計も火の車だったようだ。生活費が足りなくて、母は何度も実家に帰り、大地主の祖父に頭を下げてお金を借りていた。

更に銀行から改装資金を借入できなかった為、改装資金も祖父から借りた。(祖父よく貸したね…)
それなのに改装してからたった6年で店は潰れてしまった。
しかも、祖父にお金を借りに行く時、母は経営者である父を連れて行かなかった。理由は「だって、かわいそうだから。」と。

私からすれば、何がかわいそうなのかよくわからない。母はお金の事で、祖父に詰められている父を見たくなかったのか?通常なら経営者が頭を下げてお金を借りる事が"筋"なのに、訳の分からない母の勝手な思いやりのせいで、父は祖父に会う事なく漠然とお金を借り続け、傾く店の経営を続けた。

当然、祖父の怒りは頂点に達した。
父は出禁になり、完済した後更に10年近く、敷居を跨ぐ事は許されなかった。

生活も立ち行かなくなってきて、わたしも高校を辞めなければならないところまで来た。
それはさせたくないと、店をたたむ半年ぐらい前から外貨を稼ぐために母は店を手伝うのをやめて、外で働くようになった。
田舎を出て働き、外の世界を知った母。
まだ店を潰したくないと、いつまでも踏ん切りをつけられない父。

少しずつ、両親の関係はおかしくなっていった。