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【掌編小説】人知れず、夏の恋

恋ってこんなにも人を狂わせるのね。薄暗い渡り廊下に蹲り、荒くなった呼吸を整える。生徒はもうとっくに下校している時刻なので、蛍光灯もほんの少ししか点いていない。暗がりの中で嗅覚は普段より研ぎ澄まされ、胸元に抱いたそれを鼻元へ近づけると、汗と制汗剤が混ざり合ったにおいがした。
いつもは窓際から眺めていた一番が、今はこんなにも近くにある。ボールを宙に放つときの、体躯の良い背中が脳裏に浮かぶ。
――今日は、野球部の練習は休みだから。ユニフォームがなくても、松下君は困らないはず。ほんのちょっと、借りるだけなら。問題はないはず。
明るくて、誰とでもすぐに打ち解けられて。太陽のようなひと、というのは、松下君のような人のことを指すのだろう。私みたいな、地味で、暗くておとなしくて、クラスメイトに距離を置かれているような女子にも、みんなと同じように接してくれる彼を、いつの間にか好きになっていた。
松下君に彼女がいることは知っている。クラスのみんなが騒いでいるから。野球部のマネージャーで、ぱっちりとした大きな瞳にショートボブ、小柄でくるくるとよく動く可愛い子。誰もがお似合いだって思う。
みんなが知らない松下君を彼女は知っている。校門を出てすぐそばの信号機の前で、信号が青に変わるのを待ちながら指先を絡めあって、互いに微笑みながら言葉を交わしている二人を目にしたこともある。
いつだって日常の中に敗者と勝者は存在していて、誰も批難できないような圧倒的な幸福を生きている人間がいて、彼らが存在しているだけで私たちの敗北は決まってしまっているようなものだと、ふたりをみていると、そういう醜い気持ちが体の内側から湧き上がってくるのだった。
――きっとこのユニフォームは、お母さんか、マネージャーである彼女が洗ってくれるのだろう。でもその前に、私がこうしてユニフォームを抱いている。それを彼女は知らない。松下君も、知らない。
私だけが知っている。私だけが松下君に近づいている。松下君の知らないところで。それがとても嬉しかった。

それでも明日は同じようにやってくる。何も変わらないような顔をしたまま。私だけの秘密を世界が黙認したまま。
布団に入り、目を閉じたあとも、つんとした匂いを思い出して、思わず目を開けると、オレンジ色の豆電球が真夜中の静寂の中で静かに輝いていた。
                            終

お題.com (xn--t8jz542a.com)様よりお題お借りしました。
お題:「眠れない」「 ユニフォームの汗のにおい」 「愚かな恋」


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