「sweet 19 blues」の時代

「SUNNY」っていう日本映画を観た。

舞台は1997年頃のコギャル・ルーズソックス全盛期をふりかえるという設定。BGMには安室奈美恵さんの曲が多様され、当時の特徴が色濃く描かれている。

キャラクターたちの年齢はおそらく私とドンピシャ。実際、映画のテーマソング「sweet 19 blues」を聴くと、みぞおちのあたりがドロリと熱くなった。

1997年前後の時代を振り返ると、なんとも奇妙でそこだけが切り取られた歴史のように感じるのは、中年以降の人たちが自身の高校時代を振り返る時に共通している感覚なのだろうか、またはやはりあの時代は独特だったのだろうかー。

「ルーズソックス」・「ラルフのカーディガン」・「ローファー」・「別の高校の指定バック(もしくはそれを模したバック)」・「おやじ狩り」・「援助交際」・「厚底ブーツ」・「ガン黒メイク」・「プリクラ」・「ポケベル」・「たまごっち」…。

私はいわゆる「コギャル」ではなかったが、それでも近づきたいと思ったし、実際クラスの女子たちはみな当たり前にルーズソックスを履いていた。私も、どこまでが自分的な限界かを探りながらスカートをできるだけ短くして、より大きなルーズソックスを見つけては、宝を発見したみたいな気持ちになった。ちなみに私の高校は基本私服だったにも関わらずである。(商店街の普通の服屋でも、女子高生っぽくなれるアイテムが普通に売られていたのだ。)

コギャル・ルックが「完璧」な子たちは、その時代の「成功者」だったし、どんな特技を持っているより魅力的でまぶしく見えた。それはスタイルが良いとか顔が良いとかそれ以前の「デビュー」感である。

「あんなふうに完璧になりたい」と思うけれど、超えられない一線があったのは、自分の中のふっきれなさと自信のなさゆえかもしれない。(そもそも私服の高校だし)

雑誌「egg」を見ると、色気むき出しの完璧な女子高生たちがいたし、その他のファッション雑誌もすべて女子高生ファッションが中心となっていたなあ、としみじみ思う。

あの時代の自分の心の中を思い出すと、なんだか切なくなる。あらゆる「軸」の中心は、なんだかよく分からない勢いに飲み込まれていたし、その勢いに乗りそびれないように、しがみついてそれらしくすることがつまり「生き生きしていることだ」と錯覚していた。手帳には大量のプリクラが貼られ、できるだけ見栄えがよいものを友人たちと共有しては合コン用に使用したりしたもんだった。

台風の中、好きな子がいる他校の文化祭にわざわざ向かう自分のことも記憶に鮮やかだ。ルーズソックスのたれた部分が水を含んでやたら重かったのを覚えている。「ソックタッチ(ルーズソックスをふくらはぎ部分に張り付けるためのノリ)」はとうに粘着性を失い、私の筋肉質なふくらはぎを露呈したまま、まるで鎖のついたゾウよろしく、ズリズリとひきずられる泥で茶色くなりかけたルーズソックス。その脳裏には安室奈美恵さんが歌う「sweet 19 blues」。全身びしょびしょ。せっかく整えた髪の毛は、ただでさえコシがなくて大変なので、台風のおかげできれいにぐちゃぐちゃに。おまけにバスを乗り継いで到着すると、台風の影響で文化祭は途中で終わっていた。

ーでも、なぜか満足だったのを覚えている。

帰りのバスの中で、脳裏にやはり「sweet 19 blues」を響かせながら、友人にどう報告するのかの文面を考える私。

そう。それは自分なりに精一杯「女子高生らしい物語」を演じきったからなのだと思う。

当時はそれが100%自分の心の中心から湧き上がる衝動だと信じようとしているのだが、どこかでその虚偽性に気づいてもいる。空っぽの軸を、あの強烈な女子高生文化のパワーの力を借りて保ったつもりになっていて、でもそんなものは虚構だから、結局グラグラしている。

だから、自分に対してなんだかうしろめたい。

でも気づかないふりをしていたんだよなあ。

あの異様な宙に浮いた感じはあの限られた時代だけのものなのか、はたまた未熟な高校生のあるあるなのか、はたまた私個人の独特な時間だったのか、それは分からないけれど。

―とまあ、女子高生時代の自分を振り返る40歳が主人公の映画のシナリオを演じるかのように、私は良い具合にメランコリックになっていて

脳裏にはずっと「sweet 19 blues」が流れている。



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