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W杯なんて、くだらない

先日、こんなツイートがバズっていた。

引用RTやリプ欄を見ると、概ね否定的な意見が並んでいた。素直に喜べないのは人格に問題がある、「変わってる私」アピールはいらない、など。

このツイートを初めて見たとき、「なんだか、わかる気がするな」と思った。ここ数年はそんな感情を忘れていたが、少なくともサッカーを引退してからしばらくは、似たような想いをW杯に抱いていたような記憶がある。

サッカーを引退したのは、今から10年以上前になる。子供の頃から人生を懸けて、間違いなく時間やエネルギーの大半を注いで打ち込んだサッカー。

夢見ていたような結果は得られず、それどころか引退する前の数年間は自分の中のプライドや自尊心、自我、価値観など大切にしてきたものがすべて踏みにじられていくような日々を経て、とうとう枯れ葉が燃え尽きてしまったかのようにサッカーを辞めたのだった。

引退してしばらくは、サッカーの試合はもちろん、サッカー関連のニュースも、他のスポーツですら、目にすることができなかった。

自分が諦めたサッカーという競技で、成功している人物がいるという現実を見せられることを恐れていたからだ。輝かしい人物を目の当たりにすることで、逆説的に不甲斐ない自分に焦点が当たってしまうから。

日本代表どころか、所属していたチームですらレギュラーはおろか選手としての尊厳も何も勝ち取れなかった自分。どれだけ手を伸ばしても届かない存在であるはずなのに、自分が持っていないものをすべて手にしているであろう存在を受け入れることが辛く、代表チームの試合を見ることもできなかった。

だから自然と、W杯の存在も自分の中から消えていった。元々サッカーをするのも見るのも好きで、W杯となれば日本代表に限らず欧州や南米のチームの試合まで欠かさずチェックするほどの熱の入れようだったが、サッカーから気持ちが遠のいたことで、W杯への熱もパッタリ消えてしまった。

W杯なんて、くだらない。

W杯が始まると、連日のようにメディアはそれ一色になる。今までさほど興味を示していなかったくせに、代表監督、選手は不必要に持ち上げられ、内面を特集した番組や記事が世間を賑わす。

大衆はまるで彼らを自分の分身かのように、熱のこもった声で激励する。

他人を応援して何になる?大事なのは自分の人生ではないのか?人を応援して盛り上がるなんて、ただの現実逃避だろーーー。

吐き捨てるように独り言を放った俺の頭の中に、「現実逃避」という言葉が残り続けた。

いや、違うーーー。

現実から目を背けているのは、俺の方だ。

俺は、怖いのだ。才能と努力の結晶のような彼らと、人生を懸けて何の成果も残せなかった自分。その二つを否が応でも比較せざるを得ないこの現実が怖いのだ。

彼らは、圧倒的な才能を持ちながら、それを凌駕する、常人では想像もつかないような努力を重ね、W杯という世界最高峰の舞台に立ち、自らの存在をこの世に解き放っている。

そして世界もそれを受け入れ、認め、称賛している。

片や俺は、才能でも負け、努力量でも負け、人間としての完成度、総合力で完全に劣っている。

引退したことで、自らの運命を受け入れたように思っていたが、それは引退というイベントによって強制的・受動的に受け入れさせられただけに過ぎず、本当の意味で敗北を真正面から受け入れてはいなかった。

俺はサッカーとは全く異なる業界で仕事を始めていた。そこでは、才能や能力といった抽象的なものよりも、目に見える努力量が結果に雲泥の差を生んでいた。

本当にこれ以上ないほど、頭を使い、工夫して、どのライバルよりも圧倒的に、誰がどう考えても自分がレギュラーにふさわしいと思えるくらい努力したか?現実と自尊心の狭間で苦しみもがいていただけで、答えはNoだった。

俺は、負けたのだ。それも圧倒的に。努力不足という、自分自身の責任で。強がりでもなく、謙虚なわけでもない、自らを限りなくフラットに省みて、俺は自分のサッカー人生をそう結論づけた。長いモラトリアムだった。

結論が出たのだから、いつまでも負けたことを振り返るのはやめにしよう。これから自分ができること、それだけにフォーカスしよう。

負けたからこそ、次の戦いでは、プライドや自尊心に振り回されるのではなく、これ以上ないほど試行錯誤できたかどうか?自分との約束を果たせているか?自分自身の努力を誇れるか?そういったことを指標にして生きていこう。

完全に負けを受け入れたはずなのに、どこか気持ちは晴れやかだった。



2018ロシアW杯。俺は純粋に一ファンとして、W杯を楽しんだ。優勝候補の強豪ベルギーをあと一歩まで追い詰めた日本に勇気をもらった。

そして2022カタールW杯。日本は優勝経験のある正真正銘の大本命、ドイツ相手に大金星を上げた。

天賦の才を受けた者が、その人生を懸けて、サッカー以外のすべてを捨てて臨むW杯。

サッカーから距離を空ければ空けるほど、冷静に客観的に、選手たちを心から尊敬できる。

自分自身が満足できる水準で努力ができているか?そう問い続けることだけにフォーカスすると、他人がどれだけ称賛されていようが、逆に貶されていようが、自分の価値とは切り離して客観的に考えることができる。

フラットに見れば、サッカーはやはりとんでもなく面白いスポーツだ。

W杯なんて、くだらない。

そう思う人もいるだろう。すべての人がサッカーを、スポーツを愛しているわけではないし、他の娯楽により興味がある人がいるのは当然だ。

でも、くだらないと思う理由が、かつての俺のように自分自身にあるのであれば、それを取り払ってフラットに見たとき、W杯という4年に一度の大舞台には極上のエンターテインメントが広がっている。

最後に、あえてまだ自分が見れなかった2010南アフリカW杯より、日本実況史上最高の名口上との呼び声高い下田恒幸さんの試合前口上を引用しよう。

2010南アフリカW杯初戦・日本対カメルーン戦のイントロダクション
 
「ドーハの悲劇でアジアの列強とのわずかな差を痛感し、
フランスのピッチで世界とはまだ距離があることを実感し、
自国開催の熱狂で世界と互角に渡れると錯覚し、
ドイツで味わった痛烈な敗北感。
 
私たちは4年ごとに世界と向き合い、
悔しさも喜びも糧にしながら、
右肩上がりに邁進してきました。
 
しかし、誤解を恐れずに言えば、
この数年の日本サッカー界と代表チームには、
幾ばくかの閉塞感が漂っています。
 
おそらく、今の閉塞感を打破する特効薬などありませんが、
それでもなお、これからピッチに立つ彼らが、
今できる最大限のことはあると信じます。
 
表面的に『一丸となって戦おう』と声を掛け合うよりも、
Jリーグの舞台で最も輝いている自分を存分に発揮してほしいと思います。
肩に力を入れて『世界を驚かしてやる』と宣言するよりも、
Jリーグで輝き、だからこそ海外のクラブが投資しようと感じた自分の魅力を100%出し尽くしてほしいと思います。
それがすなわち一丸であり、それがすなわち全力です。
 
2010 FIFAワールドカップ 南アフリカ。グループEの初戦。
日本にとっての4回目のW杯。
相手は『不屈のライオン』の異名をとるアフリカの雄、カメルーンです。

ドイツには勝ったが、このあとはどうなるかわからない。

それでも珠玉の才能たちが全身全霊を懸け、歴史を作るために挑み続けるだけで、W杯は素晴らしい。

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