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自己分析「人が嫌いということについて」

昔「紀州のドンファン事件」っていうのがあった。
簡単に言うと和歌山の資産家が殺されてしまった事件。
被害者は愛犬のダックスフンドを溺愛しており、そのダックスフンドも被害者同様犯人に毒殺されてしまうというものだった。

当時20代だった私は友人と世間話からこの事件の話になり、
「犬がかわいそう。どうしてこんな目に遭わなければならなかったんだろう…悲しすぎる」とひたすら犬側の話をした。
そしたら友人に「人も死んでるのにそれ不謹慎だよ」と注意されたことがある。

表面では「ごめん…」と謝ったけど正直意味がわからなかった。
「人と動物では絶対的に"人間が上"という価値観が人間にはあるんだ…」とまるで初めて方程式を学んだかのような新鮮な驚きだった。

その頃くらいから私の中にある「当たり前の価値観」はどうも周りと違うっぽいなということに気付き始めた。

何が言いたいかというと私は人間が好きじゃない。



「夫や親は好き」「友達の⚪︎⚪︎ちゃんは好き」など個人的な感情はあるけど
「人間」という大きなくくりで見たとき、はっきり言ってしまうと嫌い。
傷つけ合ったり、平気で残虐なことをするし、周りの生物や環境を壊すし、何より汚い。
「自分だってそうじゃないか」と反論されればまさしくそうで、だからこそ人間は嫌い。
逆に動物は好きで、猫は特に好き。

普通の人間が人間に抱くであろう感情が
猫になら抱けるのに、人間には抱けないのが自分の中でずっと悩みというか違和感を感じ続けていた。

友達が多くて人と遊ぶのが大好き!という友達が何人かいるけど
「根本的に"人間が好き"なんだろうな」と思う部分が多々あって
自分との違いに驚かされることがある。

正直誰かが怪我していても全く心が動かないけど
猫が怪我していたらすぐに飛んでいって看病したくなる。
まるで自分が怪我したみたいに胸が痛くなってできれば代わってあげたいって本気で思える。
でも、やっぱり、どうしても人間に対してはそう思えない。

薄情な人間だな、とか
人間として何か大事なものが足りてないんだろうな、と思う。
実際優しさも思いやりもない方だし、何より人間に対する興味が薄い。

こんな自分どうしようもないな、と思う反面
人間の「必ず人間を一番に考えるのが"当たり前"」という考えはおそらく一生理解できないと思う。

なんでこうなっちゃったんだろうってふと考えてみた。
多分原因は「イジメ」だ。

小学校高学年〜中学1年までイジメがひどい環境にいた。
今思えばまるで戦争と一緒だった。
ボスによっていじめられる対象がコロコロ変わる環境にいたから毎日毎日「明日は我が身」と思って生きていた。
昨日まで友達だった子が急にいじめてきたり、かと思えば昨日まで友達だった子のいじめに加担したこともあった。
嘘と心理戦の連続で、善悪の感覚なんてほとんどなくなっていた。

あのときの教室全体の空気は幼い子供が特に理由もなく蟻の巣の中に水を入れて大量に蟻を殺す感覚に似ていた。
人を人とも思わない感覚はここで身についた気がする。

家で飼っていた猫だけが救いだった。
嘘も吐かないし、騙さないし、靴を焼却炉に入れないし、
ただただいつも側にいてくれた。可愛い顔で迎えてくれた。

学年が上がるにつれイジメはなくなり、
友達もできて穏やかな学校生活に戻ったけど
根本的に染みついた「人間が嫌い」というシミは30を超えた大人になっても落ちなかった。

正直それはそれでもういいかなとも思ってる。
もちろん自分にも責任があるから今更「あのときのイジメが!」どうのこうの騒ぎ立てるつもりもない。
直す気もなければ直そうとも思ってない。
数ある価値観の中で「これが私の価値観なんだ」で今は落ち着いている

でもどこかにこっそり吐き出したかったこの気持ち。

私はあまり人間が好きじゃない。


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