わたしに見えるもの

次男は、ずっと先にある木になっている柿だとか、家の扉を開けてすぐ聞こえる飛行機の音だとかに敏感でよく気づいて口にします。

木の実や花も、決して目に入らないわけではないのに、そうやって意識していると今まで意識いたよりもずっとたくさんのそれがあることに気づきました。以前米軍基地のそばに住んでいたのもあって、飛行機やヘリコプターなんかはこっちは少ないな、なんて思っていたのに、案外たくさん飛んでいるんだなと驚いています。意識を向けるかどうかで見えてくるものがまるで違う。わたしにとって「障害」がまさにそういう存在になっています。

福祉の送迎車や、障害のある人自身。事業所は気にしていると地域のものは自然に覚えていきましたし、障害者も、なにか特性からくる言動や、親御さんがぴったりくっついていたりだとか、色んな要素からきっとそうだな、と思うことが以前よりグッと増えました。それだけわたし自身がそのことに過敏になっているからだな、といつも思います。

長男には長男の世界があるようでした。電車がとても好きで、家ではわたしの膝を椅子にして、おもちゃのボタンをひたすら押したり。扱いにくいものについては、わたしの手を引いてそれをさせたりだとか。その世界に入る努力をしても、いまひとつ捉えどころがなく、彼の世界を後ろから眺めているようでした。

次男は、そこに在るものを指差し、自分なりの言葉で伝えてきます。長男のときのように、努めて近づこうとせずとも、同じ世界を見ている気がします。

わたしの世界は、いっとき障害でいっぱいになってしまったし、もうそういうフィルター越しでしか世界を眺められません。それはもう仕方ないことなのかなと思っています。次男といると、そういう凝り固まった視野を、少し広げてくれるような気がして、とても楽しいです。次男が自分の境遇をまったく引け目に思わない、なんてことはきっとないと思います。それでも、少しでも彼の人生の負担にならないようにしなければと考える日々です。できれば、色んなものに興味を持って、自由な感性を持ち続けて欲しい。ほんとうに身勝手なのですが、こんな願いを持たずにいられません。

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