思春期


鐘がなった。六時限目の終わりを告げる鐘の音、授業中に自分のことを襲っていた筈の睡魔も、鐘の音が鳴り響くと共に、あっさりと手を引き、消えてしまった。 

 教室全体に、担任の「号令」という言葉が響く。僕は起立とともに身体を伸ばす。身体のあちらこちらで、骨がパキパキと音を立てる。固まっていた身体も一緒にほぐれてゆき、なんとも骨のなる音が心地良い。目も頭も授業を受けている時よりも澄み渡るように冴えていく。僕はその感覚に、先生に対し、形だけの礼をしながら心の内で苦笑した。授業中に頭が冴えてなくてどうするのか、と。

 僕は早々に机の上、机の中にある、教科書などを全部、鞄に詰めていく。忘れものをしないと、全教科を詰め込んだそれは、何度も友達に「ちゃんと用意してこいよ」とか、「よく持てるな、こんなに重いのに」など、最初の頃はからかわれたものだが、今では誰もそんな事言ってこない。

 たかが鞄に物を詰める、簡単なことでも運動に慣れていない所為だろうか、汗が噴き出してくる。吹き出した汗がじっとりとシャツを濡らし、シャツが肌につく。空調の効きにくく、更には窓を開けても風の入る気配すらないこの教室では、その汗が乾く事はなく、肌と服を濡らし気持ち悪くてしょうがない。さっさと家に帰ってしまいたいと切実に思う、が、この蒸し暑い教室から直ぐに出ることは叶わなかった。

 僕は出来るだけ早く掃除を済まし、足早に家に帰った。玄関を抜けた瞬間、うだるような暑さがその身に押し寄せてくる。今は七月半場、次の日にはもう終業式だ。中学最後の夏休みでもある。これから宿題の山を消化していくと思うと、暑くてだるいこの身体がより一層だるく、更に重く感じる。足早に帰っていた筈の足は、どんどんと減速し、家が見える頃には、小さい子供にさえ歩く道を追い抜かされる程になっていた。

 ようやく家についた時には、僕は上から水を被ったかの様に自分の汗でずぶ濡れだった。僕は直ぐに濡れた服を脱ぎ去り、着慣れた服を着る。空調の効く部屋、着慣れた服、それら全てが暑さで疲れた身体を落ち着かせる。去年から姉がいなくなり自分の部屋になった部屋で、片付けるのが面倒でそのままにしていた布団に飛び込むようにして寝転ぶ。疲れは取れていくが、不思議にそこから眠気が現れることはなかった。あれだけ授業中に自分を悩ませたというにいざ眠れる環境になるとそんもの最初からなかったかの様に雲隠れする。解っている、これが逃避だということはずっと前から知っていることだ。嫌なこと、今回は勉強、最初だけできて後になればなるほど眠気は増していく。いざ気合を入れて取り掛かっても癖となっているそれが簡単に直ることなどなく眠気は襲ってくる。それがどうだろうか、読書や映画、自分の好きなこととなると眠気は何時まで待っても自分の事を襲いにくることなく、それらに飽きた瞬間、頃合いを見計らったかのようにどっと眠気が押し寄せてくる。だけどこの癖は誰にだって当てはまる物だとまた逃避する。これも何時ものことだ。直ることなく、いや、直すことをせず、ずるずると引き摺ったままにしている。それを直そうと思うことはなかった。

 今年は受験の年だ。いろいろな高校を周り、勉強に励む年である。考えるだけで頭が壊れそうだ。勉強ができない訳じゃない。人並みにできている自信はある。学校の成績だってまあまあ、平均以下は取っていない。勿論、得意教科もある。だが、考えてみるとどこまでも悲しくなってくる、嫌になってくる、情けなくなってくる。当たり前だ。それらは全部、自分で、自力で頑張ってきたものではないからだ。この成績も何もかもだってお金がかかりすぎている。小さい時からやっていた習い事、今は沢山お金がかかっていることを理解できて前よりも真剣にやっているつもりだ。それでもまだ不真面目だろう。それに受験だからと始めた塾。今までだって家庭教師がいた。今でもその人達に授業をしてもらっている。それに加えて今回の塾。お金に負担がかからないわけがない。何で僕一人でこんなに親に負担をかけているのだろうかと何度も思うことがある。だけどそれも結局上辺だけで、実際に正そうと思うだけで何一つ行動には移していなかった。どうして僕なんだ、何で僕なんだ。もっと真面目な奴は沢山いる。頭のいいやつだっている。それに僕じゃなくて姉さんならどうだ、彼女はとても行動的だ。それにちゃんと自主的に勉強もできる。こんな僕よりもお金をかけてまでやるなら絶対に姉さんのほうがましだ。何倍もましだ、断言できる。

 思うだけ思って何もしない。何時もそうだ。解っている。何で直そうとしない。性格上無理なんだ。そうやってまた諦める。いっそ死んでみたらどうだろう。マンションの三階から落ちれば多分死ねるだろう。いや、まだ買った本を読んでいないじゃないか。それに買ったばかりのキャラバンシューズも一回しか使っていない。どうせ死ぬならそれらを終えた後にしよう。結局、臆病な自分は何もできない、しない。殺されれば楽だ。叫ぶほどに痛いだろうがそのあとはずっと楽でいられる。いきなり事故にあったりしないだろうか。それも骨一本骨折とかそんな物じゃなくて即死級の、生きる余地のないやつ。頭の中で何度も何度も自分の死ぬ姿を思い浮かべる。高い所から落ち、血の池を作る自分もいれば、時たまニュースに流れる事故死の被害者を自分に置き換えたりもする。だがどれも思い浮かべては直ぐに消す。結局思い浮かべるだけ。思い浮かべるだけなら誰だって出来る。上辺だけの言葉だって幾らでも吐ける。本当に自分だけじゃ何も出来ていないなと実感する。だが、その現状に真摯に向き合う自分はいない。

 いつの間にか日は傾き、外は黄昏時となっていた。眠ってはいない。部屋に取り付けられている時計の針の音がチクタクと耳を通り頭に響く。未だ睡魔が自分のことを襲うことはない。疲れも取れた身体を起こし、自分の部屋から出る。空調の効いた部屋から出た瞬間、蒸し熱い空気が身体を包む。冷蔵庫で冷えた水を取り出し、コップに注いだ後、一気に飲み干す。すると頭に鈍い痛みが襲う。コップを台所に置き家族共同のパソコンの前に座る。自分以外の家族は今はいない。頭にはヘッドホンを付け、マウスをクリックするカチカチという音が何度も何度も繰り返される。貯めていたページや興味をもったサイト、それらが消えては増え、色々な画像や文章が目に焼き付けられていく。中にはお気に入りのシリーズ本の情報、周りに誰も居ない時にだけ見るサイト、それらを流し目で見ていく。何時もは、いつの間にか何時間も経っている程に夢中となって見ているそれは、何故かどれだけ見ても今の自分の興味を全くと行っていいほどに引かない。ほんの十数分見ただけで何時も以上に目が疲れる。僕は始めて早々にパソコンの電源を落とした。今の時間、見たいテレビがない。どうすることもなく椅子をギシギシと鳴らしながらまたぼんやりとしている。これでは先程自分の部屋にいた時と何も変わらないと、笑える話でもないのに少しだけ口を歪ませて笑う。つくづく自分が空っぽであると思う。もっと小さい頃はテレビでやっていたヒーロー物の主人公の様になりたい思っていた。子供ならではの可愛らしい夢だと思う。だがそれでも夢は持っていた。けれども今はどうだろうか何にもない。夢もなければ目標も憧れもない。自分の未来を思い描くことができない。

 今更になって今日は両親共に家に帰って来ない事を思い出す。いつの間にか空いていたお腹が小さく音を鳴らした。僕は冷蔵庫から幾つかの調理の必要のない食べ物を取り出す。それを温めなおすことをせず、冷たいまま口に詰め込んでいく。冷たい食べ物が喉を通り胃に入っていく。冷たい物が食道を通る感触はなんとも気持ちが悪い。正直に言って不味い。だが、温めなおす手間でさえ億劫だった。それなりに腹が膨れたからだろうか、それとも日が沈み夜になったからだろうか、昼間、全くといっていいほどなかった眠気が少しずつ大きくなっていく。シャワーを浴びて歯磨きが終わった時には意識はだいぶ沈み、ふらふらと自分の部屋に向かう。電気を消し、布団に寝っ転がって、うつらうつらと天井を見上げる。沈んでいく意識に心地よさを感じながら、真っ暗な部屋の中、意識も真っ暗になっていく。

 真っ暗な中、妙に身体に何かが纏わり付いてくる感触がする。それが酷く気持ち悪く、振り払おうとする。しかし、それはいつまでも身体に纏わり付いたまま離れることはなく、より自分を不快にさせる。この場所から離れたい、そう思い、必死に足を進めようとすると今度は縄で縛り付けられるように強く足が拘束される。そんな中、必死にもがこうとして、より強く腕を振るう。すると今度はより一層、力をまして纏わり付いていく。雁字搦めに纏わりつかれて縛られて、ついには身動きが取れなくなってしまう。

 朝になり目を覚ます。実に寝覚めが悪い。なんであんな夢なんて見たんだろうと不快に思う。夢の中での出来事出会ったはずなのに、身体に何かが纏わり付いたような感触が少しだけ残っている。気持ち悪い。本当に気持ちの悪い朝だ。

 不快な感覚に気を囚われている中、ふと時計を見ると、そろそろ用意をしないといけない時間になっていた。その不快さを無理やり払い、中学最後の一学期を終えるために支度をする。寝覚めの一件のせいで学校へ行くまでがとても陰鬱な気持ちで向かうことになる。登校する道の途中、ふと十字路の先にある桜の木に目が向く。花の咲く時期などとっくに過ぎているそれは、蒸し暑い晴れた日差しの下青々と茂った葉を風に揺らす。中学校、そして高校入りたてが一番心の動きが激しい時期だとどこかの本か何かで読んだ気がする。その所為だろうか、小学校の時は桜の花、舞い散るその姿に、見惚れていたのを覚えているが、今ではそんな感情、一片たりともありはしない。舞い散る花びら一つ一つが鬱陶しく、さっさと全部散ってしまえばいいと思っている自分がいる。桜の花に興味を示さなくなったきっかけを覚えている。今とは違う、桜の舞う季節。この場所を下校の途中に通った時だ。その道は坂道になっていて自然と坂を下る時に目線が下へと向く。その時、舞っている淡紅色の花びらとは違い、人や車のタイヤに踏みつけられて、茶色に傷んみ一面を覆い尽くした花びらを見て、綺麗だなと思っていた筈の感情は心の奥底へと逃げていくように消えていった。その時からだ、桜の花びらが散る姿を見ても何も思うことがなくなったのは。葉桜が美しいという人がいるが、どうも自分にはそうは思えない。葉の形が少し違うだけで遠目から見てもそこに緑があるだけで何の感動もない。それならば、もっと自然に囲まれた山にいった方が断然ましだ。しかし、一つだけ好きな姿がある。冬の桜だ。葉も全て落ちて灰色の姿を露わにして、木枯らしに吹かれ、虎落笛を鳴らす。それこそどの木も同じように見えるかもしれない。だが、どうも冬の桜が、もっとも自分にあっている。どこかしっくりとくるのだ。

 そんな事を考えながらも坂道を上り、学校へと向かう。一度着いたらエアコンの付いた楽園が待っている。自分の席へと着いたら朝読書や何やらは一切せず、涼しい環境の中、大抵は寝ている。と言っても終業式である今日はそんな時間はなく、つまらない終業式が始まる。幾度となく眠りそうになったが、そこは無理やり気力で持ちこたえる。教室に戻った頃には特に何もしていないのに何時もの倍位に疲れていた。そんな中生徒たちは次の時間に配られる通知表にガヤガヤと騒ぎ立てる。自分は通知表を見るのにそこまで興奮はしない。だから毎度のごとくこの空気にはついていけなくなる。決して成績が悪いわけでなく、かと言って良いわけでもない。だからこそ自分の成績に期待などしていない。我ながらに本当に酷い考えだと思う。だけどそれも何時ものことだ。

 自分の通知表が渡される。三の多い通知表。変わった所といえば数学が上がったくらいか。聞かされる、自分の欠点を述べた有難い言葉が耳から耳へと流れていく。適当に相槌を打つ。最後にもっと頑張るようにという言葉で締めくくられ自分の番が終わる。さっさと家に帰りたいものだ。自然と大きなあくびが出てくる。今、瞼を長くつぶってしまえば直ぐにでも眠ってしまいそうだ。次は夏休みの注意事項だ。毎年聞かされるそれを今更、真面目に聞く必要もないだろう。そう思い僕は出来るだけ先生にばれない様な姿勢で瞼を閉じた。

 玄関の鍵を開けて家の中へと入っていく。一学期最後を終え、何時もどおりに早々に家に帰った僕は、昨日と同じくさっさと着替えて自室にこもる。両親は最近共に働くようになってあまり昼間にはいない。姉はまず日本にいない。必然的に一人でいる時間が増える。だからといってすごく寂しいというわけでもないのだが。今日から夏休みが始まる。宿題やら夏期講習やら、何時もの夏休みより多忙な日々を送ることになることは想像に難くない。だけどその先に何を目指しているのか、何の夢があるのか、空っぽな自分には思い描くことができない。自分の中には何もない、そう思っていると不意にあの感触が身体に蘇る。纏わりつくような、締め付けるような。また不快な気持ちが心を満たしていく。だがどうすることもできない自分は、ただ天井を見つめるだけだった。

 今の不快な気持ちを紛らわすためか、何度も心のなかで呟いた空っぽという言葉の連想ゲームが頭の中で開始されていた。空っぽ、空、空虚、虚しい、虚無、似たような言葉をあげていけば結構あるものだなと思った。その中で虚無という言葉は何故か頭の中で消えずに残ったままだった。自分のよく読む小説の中に時たま出ていたからか、ただ印象に強い言葉なのか頭から離れず居座り続ける。何故かと理由を探しているとふと一、二年前のある授業を思い出す。それは殆どの人が無関心だった授業で、教える内容が哲学だった授業だ。僕は比較的、他の授業よりかは、この哲学の授業が好きだったから印象に残っている。思い出した。その時、その授業を受け持っていた先生が虚無に関することを話していた。先生が数人の哲学者の名前を言っていって、その人がどんな事を研究していたか、端的に説明していた。その時の一つに虚無が含まれていたと思う。それは何だったか、直ぐに頭から出てこない。数分後にやっとそれが出てくる。虚無主義だ。なかなか出て来なかったものが出てくるとすっきりした気持ちになれる。気持ち悪い感触も少し和らいだ気がした。だが、虚無主義がどういうものかまでは思い出せなかった。どうせ今の所やることはない。不快な気持ちを紛らわすのも兼ねて、虚無主義の意味を調べることにした。それを行おうとするとき、面倒だとは思わず、すんなりと行動に移した自分がいた。

 パソコンを立ち上げて検索画面に虚無主義を入れる。候補の内、有名所のサイトへ入る。虚無主義とほぼ同義でニヒリズムという言葉が目に入った。虚無主義の概要を読み進めた後、次はニヒリズムを調べる。そこに載っていた二つの言葉が強く自分を惹きつけた。

 『すべてが無価値・偽り・仮象ということを前向きに考える生き方。つまり、自ら積極的に「仮象」を生み出し、一瞬一瞬を一所懸命生きるという態度(強さのニヒリズム、能動的ニヒリズム) 』、そして

 『何も信じられない事態に絶望し、疲れきったため、その時々の状況に身を任せ、流れるように生きるという態度(弱さのニヒリズム、受動的ニヒリズム)』という言葉。そして自分はこの言葉の後者に当てはまっている、確信を持って言える。だがそれを知り、とても悔しく思った自分がいた。強さのニヒリズム、弱さのニヒリズム。その二つの内の弱さに自分がいる、それがどうにも悔しく思えた。そして何より自分は強さのニヒリズムに憧れを抱いていることに気がついた。憧れをなくしていた僕がたった今、強さに憧れを抱く。言い様のない思考の渦が頭を満たす。どうすればいい、どうすれば強くなれる。ただそれだけに、何時もは使わないはずの頭は回っていく。見つからない。どれだけ考えても、思考をめぐらしても、何も答えなんて出やしない。何時も何時も流されてばっかりだった。何かに反抗したことなんかあったか。そんな事一度だってなかった。一度流れ出した思考は止まることを知らない。どこまでだって自分を追い詰める。

  自分はなんだ。周りの意見に口を出したことなんてあったのか。自分は自分だと言える、そんな覚悟なんてあるのか。あるわけなかった。だって、何時も何時だって僕は何者にも流されて逃げてきたんだもの。たったの十数年だ、もっと先には自分で立って歩けるものだと勝手に思っているだけだ。そこに何の根拠も、確証ない。そりゃそうさ。今までそんなものを探そうとさえしなかったんだから。いつもヘラヘラして、むかつくことだって、泣きたくなることだって、嬉しいことだってなんだって、何一つ自分に留めないで全部外に流して待ってるんだ。一度でも、嬉しいことが長く続いたことがあったか、悔しさを胸の内に留めて、次へ活かそうと奮闘したか。自分自身に対する問いは全て否定という弱さで帰ってくる。今の自分に何一つ強さなんてものはなかった。今の自分に打ちひしがれる。弱さで固まっていた自分の事実に。気分は沈み明るいはずのパソコンのディスプレイの光は暗く感じる。色のあったはずの部屋は灰色に錯覚する。虚ろになった目が天井を仰ぐ。

 心のなかに自分がいる。いいじゃないかこのままで、流されたままでいいじゃないか。楽で、簡単で、単純で、何一つ考える必要なんてない。このままずっと流れ続けれまいいんだ。自分の努力なんて面倒なだけだ。周りの努力に流されて、付き合わされて、流されて。自分に何ができんだよ。少し考えてみろよ。いや、答えなんてもう出てんだろ。何も、ないじゃないか。

 自分は語りかけてくる。自分は何もやってきてない。何もない。だから今もこれからも何かをやる必要なんてない。なんて、甘い言葉なんだろうと思う。砂糖菓子よりずっとずっと甘くて魅力的な話だ。でも、何より甘いモノが好きな筈の自分なのに、何よりも飛びつきたいほどのモノなのに、なのにどうしてこんなにも興味が惹かれないのか。世界に色が戻っていく。急速に確実に。沈みきった自分に、何もなかった自分の中に、一つだけ光が灯った気がした。小さくても揺らがない確かな光が。

 なあ、逃げるなよ。流されるなよ。何のための体だよ。何のための口だよ。別にどうだっていいさ。何時だってヘラヘラしたっていいさ。周りの努力に付き合ったっていいさ。だからってそれで逃げる理由にはならないじゃないか。口があるなら吐き出せよ。思ったこと全部、自分の中に貯めこむための栓なのか。違うだろ、自分の中にあるモノ全てを吐き出すために口はあるんだろう。言いたいことがあるなら簡単なことじゃないか。口を開いてぶちまければいい。言いたい事全部吐き出せばいいじゃないか。体が動くなら動かせよ。動きたくても動けないやつだっているんだよ。ならより一層動かせよ。何もできないからって、苦手だからって、だからなんだってんだよ。そんなの何一つ、流されたまま、逃げたままの言い訳になんてなるわけがないじゃないか。いいんだよ別に、目標なんて作らなくたっていいんだ。気の向くままに、気の向いたまま。動く理由なんてそんな物で十分なんだ。もう絶対に逃さない。弱い自分はもう見つけた。後はそいつらを逃さず壊さず受け入れればいい。弱い自分も自分だから。ならその弱さを強さに変えればいい。考えてみれば簡単だった。弱さで固まっている自分がいるならそれを強さに変えるだけだ。自分を変えるのは簡単だったんだ。自分の奥底にいる自分を見つけ出せば良い。自分を見つめ直してそれを受け入れればいいだけだったんだ。本当にたったそれだけの簡単なことだったんだ。

 全てを仮象に捉えるなら。この先の未来だって全て仮象だ。何も名前も何もついてない。なら、何をしたってどうせ無意味なら。無意味なことになったとしたってそれでいい。やることはなんだっていいんだ。気の向くままに。最後には無意味な仮象に、自分なりの名象をつけてやればいい。自分なりの無意味を積み重ねればいい。虚ろだった目はどこにもない。ヘラヘラしているのは変わらない。それが自分だ。変えるつもりなど毛頭ない。結局突き詰めていけばやること全てに本当に意味などない。だけどそれでいい。今は目の前に積み重なっている仮象の山を処理していけばいい。さてどんな名象をつけてやろうかな。僕の目には小さいけど確かに光が宿り、それは今ある仮象、そして未来に起こりえる仮象に名をつけてやることに気が向いている。たった一つの光が弱さだった自分を強さに変えていく。その小さな光は誰だって見つけることが出来るんだ。



ーー後書き

サルベージ作品第二、というわけで、恐らく短編でちょっとしたものを書くということで初めて書いたのが、この作品だったと記憶しているような気がする、と言った風に勝手に感じているが、内容から見るに、自分が書き始めた頃の様な雰囲気を感じ取れないでもないような、そういったフレッシュさを感じたように思えるのだが、そう思うほどにまた一つ老けたような、枯れたような、土に変わっていくような

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