その一杯に幸せとちょっぴりの寂しさを

作られてそう何年も経っていない、木とコンクリートが半々位だろうか、新築の家の中、リビングとキッチンが一緒になっているそこに置かれたテーブルの上に、できたてなのか少しばかり湯気を立てて、一杯のコーヒーが置かれている。少し高い場所にある出窓からは朝日が差し込んで、一人の女性がコーヒーの横に焼いたべーコンとスクランブルエッグが盛られた皿を置いた。ケチャップの甘い匂いが香る。

 早く降りてきて、と、女性の声が響き、そう時間もかからず、男性が男の子の手を引いて二階から降りてきた。どちらもパジャマのままでだ。女性が着替えてからきてよと言うが、寝ぐせだらけの男性とその子供はだらけて後でと言うだけだ。

 子供の目は起きたばかりなのか、しょぼついている。その目を空いている手でこすろうとすると、男性がそれをたしなめた。男性は子供を、子供用の、高い椅子に座らせると、自分は玄関に向かった。戸口を開けて、横にあるポストに目をやるが、目当ての物がない。またリビングへと男性は戻っていった。木で組まれた床が冷たい。戻る途中、なかったことを知っているのに、何処か廊下の脇に落ちてはいないかと、ちらと下を覗いたが、途中にあるわけもなく、いらない本を詰め込んだだけのダンボールやら、何やらが散らかっているだけ、諦めて素直に戻ることにした。

 戻ると同時に、新聞は、という男性の言葉に女性は呆れて、テーブルの上にあるでしょう、とお弁当の具を作りながら答えた。むっとした顔をして、そんな訳と言う男性がテーブルの中ほどに置かれていた新聞を見て、本当だ、と一つ呟いて席につく。心の内で何で見つけられなかったんだろうと独り言ちて不思議に思いながら新聞を広げた。

 男性は一面を冒頭部分だけ読むと、コーヒーが冷めぬうちにと、口の中に流し込んだ。味わい深い、苦味と香りを感じて、ようやく凝り固まっていた頭がするすると回り始めてきた様に感じた。ふぅ、と生温い息を吐き出す。

 ベーコンエッグと一緒にパンが食べたいと思い、テーブルの上に置いてある、食パンの入った袋を手に取る。男性はまず最初、子供に食べるかと聞いた。返事はゆっくりとした頷きで返ってくる。何枚食べたい、そう男性が聞くと、小さな声で一枚、と返ってくる。女性にも聞くと、二枚焼いておいてと返ってきた。

 男性は女性の方を見るが、女性はこちらを向いては居らず、出来上がったお弁当の料理を小皿に分けて盛り、それを一つ一つお弁当箱の中に詰め込んでいた。コーヒーとは違う、朝食の淡白なものとも違う、少し味の濃い香りが男性達のいる方まで漂っていた。男性は袋から食パンを五枚、取り出そうとしたが、生憎、食パンは三枚しかない。仕方なしに自分の分の食パンを諦めて、子供と女性の分の食パンをトースターに入れてスイッチを押した。食器棚から茶碗としゃもじを取り出して、男性は炊飯器から白いご飯をよそおうとする。しかし炊飯器の中には求めるご飯もない。

 女性は男性に、お弁当に使っちゃったからもうご飯ないわ、そう言った。ご飯は二つのお弁当箱に綺麗に詰められている。男性の分と女性の分。子供は小学校の給食があるから必要ない。

 チンのご飯ならあるけど、顔を向けずに女性は言った。男性は少しショボくれた顔をして、いや、いい、とだけ言って、また自分の席についた。何だか失敗続きでなんとも言えない気持ちが胸の中で膨れてきたが、それを押し込めるように、まだカップにすこしばかり残っているコーヒーを口の中に流し込んだ。幾分、気分が晴れたような気がした。

 ふと、男性は窓辺に視線を移す。年季の入ったコーヒーミルが天辺に薄い埃を被りながらそこにはあった。男性の頭のなかに、チカリと昔の記憶がよぎった。

           ◆

ちょうどバブル経済に入る数年前ぐらいだろうか、一つのマンションの一部屋に、大体時間は10時を越えた頃だろうか、子供なら本来、既に寝かされている時間だが、珍しくそこでは起きていて、と言っても好奇心に目が冷めているだけで本当は眠いのだが、まだ小さな目を大きく開いて興味津々に、これは何、と自分の親を揺すって、四角い、だけど角は安全を考えて丸くされているテーブルの上にあるものを指さしている。。椅子に座ったまま揺すられている彼のお父さんは、顔には何処か困ったような驚いたような表情を浮かべて苦笑いをしている。

 一応、夜遅くまで起きている子供を叱りつけるということで、顔を少し怒ったよう変えて、何でこんな時間に起きているんだ、ちゃんと寝るように言っただろう、と言ってみる。すると子供は揺すっていた手を止めて、と言っても椅子に座っているお父さんの服の端を掴んだままだが、しゅんと頭を下げてごめんなさいと呟くような小さな声で言った。

 お父さんが何かを言おうとして、口を開きかけた時、言い訳を思いついたのか、ぱっと子供は頭をあげて口早に言う。ちょっとだけ起きちゃってまた寝ようとしたんだ、そしたらお母さんはいるのにお父さんいないんだもん、だから、えっと、幼い頭で必死になって言葉を探すが、やはり急ごしらえの言い訳は二の句が繋げず口ごもってしまった。

 本当は心配になって部屋の外に出たわけではない。そこまで広い家でなかったから、お父さんとお母さんの話し声がぐぐもりながらも、子供の耳に入り、目がさめたのだ。

 お母さんがお父さんに、あら、また飲むの、貴方もそれ好きねぇ、と呆れがちょっぴり入った声で言う。お父さんは、趣味だからな、とだけ言った。眠れなくなっても知らないわよ、とお母さんは言って、特にそれ以上のことを言わずに、子供の寝ている部屋に入ってきた。お父さんは部屋に行くお母さんの後ろ姿を見ながら、眠れなかったら書類の整理でもしているよ、と聞こえるか聞こえないくらいの声で言った。

 少し頭を上げて、話しを聞いていた子供は、またその頭を布団につけて、寝たふりをした。部屋に入るために引き戸を開ける、ずずずっとした音を聞きながら、まだかまだかと待って、隣でごそごそとお母さんが布団に入る音がすると、よし、あと少し待ってからと思って、体を布団の中で縮こめる。子供は数秒、数十秒、待ってゆっくりと布団中で体をほぐして広げると身体をゆっくりと出した。パサリと落ちる掛け布団の音や足音に、気付かない母親じゃない。どうしたの、と若干眠たそうな雰囲気を滲ませてお母さんは聞いた。子供もまた、眠たげな声で、トイレ、とだけ言って、部屋の外に出た。お母さんは疲れていたのか、そう、とだけしか言わず、そのまま眠ってしまった。

 扉を閉めると、好奇心に、足早でお父さんの所へと向かった。寝ていた部屋の中が暗かっただけに明かりのついたリビングの光が目に痛かった。

 子供は言い訳をした自分はまた怒られると思ったのだろう、言い訳を言う言葉がだんだんと聞き取れないくらいに小さくなるに連れて、頭もだんだんと下がってきた。

 お父さんはその姿にクスリと咲うと、ポンと頭に手を乗せてやった。子供の身体が一瞬ビクリと震えたが、次には不思議そうに顔を上げてきた。怒らないの?と不安そうに子供が言う。お父さんは、たまにはいいさ、それにお父さんを探しに来てくれたんだろう?そう言って子供の頭を撫でてやる。でも最後はお父さんよりこれのほうが気になったみたいだけどね、チラリとテーブルに置いているコーヒーミルに目をやった。子供が照れくさそうにへへへと咲う。

 手動式コーヒーミル、小さな木箱のてっぺんに取っ手がついていてそれを回すことで中のコーヒー豆が細かく砕かれるといったものだ。最初こそ、怒った顔をしていたお父さんだったが、子供の言い訳を聞くと、とたんに顔を緩めた。自分の趣味に興味を持ってくれたことが素直に嬉しかった。お父さんは一言、今日のことは母さんに内緒だぞ、と咲って、また子供の頭を撫でた。くすぐったそうに子供は目を細めたが、お父さんがこれから何をするのかは当然だがわからない。しかし、夜遅くに起きた自分を許してくれたことに随分とほっとした。いつの時代も、親からお叱りを受けるというのはその者を不安にしてオロオロとさせるものだ。と、言うのも筆者は親や先生に怒られたりするととたんに怖くなって体がブルブル震えて、涙は出るわどうしたら良いのかわからなくなる。どうにも臆病でいけない。

 話が逸れた、お父さんは、自分のすぐ近くに置いていた、袋の中に入っているコーヒー豆を、コーヒーミルの中に入れた。そして、取っ手をしっかりと掴み、空いた手でコーヒーミルがブレないように支える。ゆっくりとコーヒーを挽く。ごりごりと、とってから振動が伝わる。その手に注がれてやまない、熱烈な視線が気になって子供のほうを見てみれば、それはもう、やりたそうな顔をしている。あたりまえか、これがなにか知りたくて起きたんだもんな、そうお父さんは心の内で呟いた。

 お父さんは子供を持ち上げ、膝の上に乗せると、ほら、やってみなさい、優しく言った。子供の手は早く取っ手を掴んだ。お父さんはコーヒーミルを支えてやる。子供は嬉しそうに、手に伝わる感触を感じながら、何度も何度も取っ手を回し続けた。

 そろそろ頃合いかと、お父さんは子供の手を止めさせ、自分で一回り取っ手を回してみる。感覚から、ちゃんとひかれていると判断して、粉を木箱から取り出した。子供を膝からおろして、その粉を、予め温めて置いたカップにもう一つ小さいカップも加えて、フィルターを二つのカップに設置して、そこに入れる。今しがた、コーヒー豆を挽いた子供ではあるが、それが何をしているかはよく分かっていない。お父さんに、何作ってるの、と聞いてみる。お父さんは楽しそうに、コーヒーを作っているんだ、そう言った。

 台所にある、沸かし済みのやかんを取りに行こうと、お父さんが立つと、子供も並んでその後ろをついて歩く。コーヒーを知らない子供は首を傾げて、なにそれと呟いた。お父さんがやかんの中の熱湯をフィルターの中に注ぐ。子供はただそれだけでも楽しいのか、目を爛々と輝かせて、注がれる熱湯を眺めていた。粉に熱湯があたった瞬間に発せられる、ふわりとした、コーヒーの独特な香りに、お父さんは楽しむように目を細めた。子供は慣れない香りに鼻をむずむずとさせている。今にもくしゃみをしてしまいそうだ。いや、流石にそれは大げさか。

 大きなカップと小さなカップに注がれた真っ黒なコーヒーを、お父さんはまず子供より先に一口、まだ舌には一寸熱いそれを飲む。大人なのに、好きな物の前では抑えが効かない。香りが口いっぱいに広がった。お父さんは子供に、元より飲ませる気ではいたが、確認のために、飲んでみるかいと一言聞いた。好奇心に胸をふくらませていた子供は、それに対して大きく頷くことで答えた。微笑ましい。

 お父さんは嬉しそうにカップを子供に渡すと、熱いから少しふぅふぅしてから飲みなさいと言った。子供はそろりと口にカップを近づけ、十分に飲めるようになるまで冷ますと、コーヒーを口に満たした。あゝびっくりと、子供は目をぱちくりと見開く。すんでの所で吐き出しそうになった口の中の液体を飲み込んだ。直ぐにコーヒーの入ったカップをテーブルの上に置くと、うげぇと舌を出して小さく呻いた。お父さん、これすごく苦くて不味い、と情けない顔になりながら子供がお父さんに言った。 案の定といったところだ。この子供は小学校に入ったばかり、物心というものが形成し始め、かつ子供特有のあらゆる物への好奇心やいたずら心が損なわれずにいる期間の子である。最も敏感な舌を持つ赤ん坊に比べれば勿論、苦さの度合いは多少薄れてはいるだろうが、かと言って、その苦さが好きになるわけじゃない。この子供にとってコーヒーの苦さは耐えられるものではなかったらしい。吐き出すでもなく飲み込んだ辺は、まあ褒められる点ではないだろうか。

 お父さんは、少しばかり顔に寂しさを滲ませながら、舌をのぞかせる子供の顔を見た。そこにはなんて物を飲ませるんだという、そんな感情が伺える。子供はお父さんの見せる、寂しげな顔の意味がわからなかった。それよりも口の苦さに気をとられてお父さんの顔の変化に気づけなかった。不味いと言って怒られるかもしれない、そんなことを思っていた。。お父さんは再度、子供の頭を撫でてやると、そうだよな、まだ、少し早かったな、お前には、そう言って、冷蔵庫に向かった。ミルクを持ってくるのだ。ついでに砂糖も多少。

 コーヒーはミルクをいれることで、ブラックで感じる苦さの半分くらいは緩和できる、と筆者は感じる。ミルクの量によっては苦さなど感じないほどまでになる、と言うよりミルクの味しかしない。しかもミルクを温めていないとどんどんコーヒーが冷たくなる。砂糖を加えれば、口当たりは更に良くなり、飲みやすくなる。しかし、口の中に広がる、香り、舌をピリリと突くような雑味、そういった、コーヒーを楽しむにあたって必要な物が減少しまう。ミルクを少量ならまだしも、量を多くして、そこに砂糖を加えるのなら、コーヒーと考えるよりかは、コーヒー牛乳と考えるほうが良いかもしれない。

 改めて、コーヒーを子供に与えると、今度はパッと顔をほころばせて、ちびちびと飲み始めた。お父さんの顔は、美味しそうに飲む子供の顔に、自然と温かい顔になった。同じ味を楽しむ中でないことが、ほんの少しばかし残念だ。けれども、自分の子供が美味しそうに飲んでいるのだから良しとしよう。

 子供の飲む姿を眺めながらお父さんも自分のコーヒーを口に含んだ。先程飲んだ一口とはまた違ったなんと言うのだろう、また別の、ぬくぬくとした感じがして、身体全体に染みこんでいくような、そんな心地がした。

 お父さんは、子供と自分の分のコーヒーが飲み終わると、台所でカップを洗って水切棚の上に置いた。後は子供の手を引いて寝室に向かった。

            ◆

 車のエンジンをかける。ようやく眠りから覚めたようにうなり声をあげた。なかなか外にでる機会がなく、ずっとそのままにしていた物だ。都会は車がなくてもどうにでもなってしまう。道具に命が宿るかどうかは分からないが、久しぶりに使われて、冷たくなった身体に熱が灯り、本調子が出てきたようだ。

 隣には妻が、後ろには子供がいる。今日は、久しぶりに休暇を取って実家に帰る日だ。天気は晴れ、休日に車を出すから多少の渋滞は目を瞑らねばなるまい。車の後ろの荷台には、二日分くらいの服、お土産は途中のパーキングエリアで買うつもりだ。それとは別に、かぶっていた埃を全部拭き取ったコーヒーミルが、鞄の中に入っている。

 定年を迎えてから、都心で暮らしていた両親は、田舎にいる、父方の祖父母たちを心配して、そちらに移り住むことにした。母方の祖父母は、彼女の兄妹が見ることとなっている。その時には既に男性は成人となっていて、コーヒーのブラックを苦くて飲めないと言っていた子供の面影は去り、一端の男となって、家族もできていた。その時に、父は子にコーヒーミルを手渡した。近代化が進んで、手動のコーヒーミルを使うより、電動でやってしまえばとても簡単なのは承知の上、まあ思い出に一つ取っておいてくれと、父が頼んで渡したのだ。あれから数年、男性の仕事の都合上、なかなか帰省することが出来ず、やっとのことで暇を作れた、そして今日、家族総出で田舎に帰るのだ。年を越そうとする冬の日である。

 高速に入って、しばらくすると、都会らしいビル群が見えなくなり、ちらほらと、田んぼに畑が見えてくる。時たま山や川も見える。のどかと言える風景にはまだ遠いが、都会に過ごしてきた男性の子供には新鮮な光景だろう。実際に子供は物珍しさに窓の外を眺めている。が、そう長く窓の外を眺めていたわけでもなく、飽きると漫画やらゲームやらに手をつけはじめた。

 途中にパーキングエリアに入る。車は多く、止めるまでに時間がかかる。ちょうど通りかかりに、一つの車が出たのでそこに入った。車が止まると、子供が足早に外に出る。濁った車の中の空気から開放され、都会より幾分綺麗な空気を吸い込む。少し冷たい空気が心地よい。続いて女性、男性と車から降りて、子供と同じことをする。ずっと座っていて固まった身体を伸ばしてほぐす。そんな男性達に構わず子供は、男性の服の端を掴んで、進めた。その先には、屋台と自動販売機が幾つか並んでいて、さらにその隣には定食屋がある。男性は子供にせがまれて、ちいさなペットボトルのりんごジュースを買ってやった。自分も買おうと自動販売機に硬貨を入れて、指をスイッチの上に乗せたが、どうにも気分が乗らず、一つ上にある緑茶を買った。その後、家族全員でお土産を物色して、朝食兼昼食に同じ店内にある食堂で、三人共うどんを頼んだ。肉うどん、月見うどん、カレーうどん。順に、男性、女性、子供である。

 買ったお土産を男性が持って、ついでに女性と子供が欲しがった物を一つづつ買ってやった。ハローキティのアクセサリーに少年漫画だ。お土産にチョコレート系のお菓子と、せんべいを幾つか買い、全てを車の後ろに詰めて、また車を走らせた。女性は片手にスマートフォンを持ち、SNSで何かしらを呟いたり何かしている。子供は買ったばかしの少年漫画に夢中になっていた。しばらくして高速を降りてまた一時間を程かかってようやく家に着いた。

 男性の両親は農家を営んでいた。今でも年をめしているが、それはまだまだ健全である。その手伝いを含め、もしもの時の為に男性の両親は、こうして田舎に移り住んだのだ。田舎になると年寄りばかりで若者がおらず、なにか大変なことが起きてもどうすることができない。

 表面のざらついた、すりガラス張りの引き戸を引くと、ガラガラとうるさく鳴った。今帰った、そう少し声を大きくして男性が言う。奥の方から床を踏みしめる音がゆっくりと聞こえた。父だった。男性が子供の時から比べると、やはり顔は更に老けこんで、皺やしみができていた。

 予定より遅れたな、どうしたんだ、と父は聞く。事故が原因の渋滞にはまった、軽く男性は答えた。父は後ろの二人を見て、顔を少々ほころばせて、さ、早く入りなさい、今茶を淹れてくる。そう言って何の返事も待たずに父は部屋の奥へ行く。

 家は外見から、些か古いと感じる家だ。瓦屋根に少しある庭、築百年は経っているが、リフォームをして、内装を多少新しく変えているから、家の中の古めかしさは薄らいでいる。囲炉裏も昔はあったが、色々と手間が大変で、中の灰を全部出して、上を木板で被せてしまった。

 靴を脱ぎ、中に入ると木で出来た床から、靴下越しにひんやりとした感触がする。玄関から少しの障子を開けば少しばかり広い部屋に畳張りで、部屋の中央に大きめのこたつがある。隅っこには小さめのテレビがあり、この部屋の奥には台所がある。男性は勿論ここに来たことはある。祖父母がここにいるのだから当たり前ではあるが、昔とは少し違っていても、改めてこの家に来て、懐かしさのようなものがこみ上げてきた。

 土の匂いや草木のさざめき、そう言ったら少し大げさに聞こえるかもしれないが、やはり都会とは違う。畳の感触に古い木で建てられた家、それらが発する感触や音、様々なものが体中に響いて心地良い。

 台所の方から父が急須で茶を淹れ、それらを盆に乗せてやってきた。さ、飲みなさい、温まる、茶をこたつの上に置いて、父はこたつの中に入った。それにならって女性も子供もこたつの中に入る。まだ昼とは言え、晴だったのに途中から曇り始めて、気温が上がらず、外は些か寒かった。

 男性はこたつには入らずに一言、荷物を取ってくるよ、と言って、玄関にある、使い古されたサンダルを履いて家を出た。玄関先の砂利が鳴って冷たい風がヒュウと吹き、寒さがチクチクと服越しに男性の肌を突く。車の後ろを開けて、大きめのボストンバッグを三個取り出した。寒いから一度に全部運んでしまいたかったのだ。荷物が重く、手や肩に持ち手が食い込むが、気にしないことにした。家と車との間は短い。気にするよりもさっさと家に入ってしまいたい。

 三人分のボストンバッグを中に持って入る。こたつのある部屋に戻ると直ぐに部屋の脇にドサリと置いた。母さんや爺さん達は、男性が聞く。親父は裏の畑、お袋は近所づきあい、母さんは夕ご飯の買い出しに行ってる、本当ならお前も一緒に買い出しに行かせたかったが少し着くのが遅かったからな、重いだろうから俺が行くってのに、貴方じゃ同じ物でも出来の悪いものしか選ばないからって留守番だ、父はバツの悪そうな顔をして答えた。

 男性はゆっくりと、こたつのあいたスペースに入ると、殆ど熱の抜けた茶をすすった。ぬるい茶が身体を温めることはなく、反ってそのほんの一寸の温さが温度の差を浮き彫りにして身体が更に冷えた気がした。

 足元が暖かく上半身が冷える気持ち悪さにブルリと一度身体を震わせた。直に爺さんが裾や袖に少しばかりの土を付けて帰ってきた。父よりもずっと皺が深く日に焼けた顔をしている。右手の親指人差し指が中程でなくなっている。昔、機械の中に巻き込まれてなくなったそうだ。今では半分になった二本の指や中指を使って器用に文字やら道具やらも使えるようになっている。慣れればどうとでも出来るようだ。

 爺さんは嗄れた声だが、嬉しそうに孫達が来たことを歓迎した。一旦部屋の奥へ行き、服を着替えると、蜜柑の入った大きめのダンボール箱を抱えてやってきた。こたつの横に置いて、小さな竹で編まれた籠に幾つか蜜柑を入れてこたつの上に置く。

 嬉しそうに子供が蜜柑をとって食べ始めた。うまいか、うまいだろ、と爺さんが子供に言う。子供は蜜柑を三つか四つの塊に分けず、まるごと口に入れるものだからリスのように頬を膨らませて、モゴモゴと口を動かしながら、うんと頭を振って爺さんに答えた。

 子供の手は何個もの蜜柑を剥いたおかげで、爪には黄色い繊維がびっしりと詰まっていた。手のひらも心なしか黄ばんでいる。後に母、婆さんの順で家に帰ってきた。婆さんは、場所こそ近くにいたが、話が弾んだのと、歩く早さが遅いせいで、家に帰ってきた時にはもう日の入り時で、辺は大分暗くなっていた。

 母は車から降りると荷物を頼みに家に入った。玄関に何時もとは違う靴があり、既に中に居るのだなと分かった。時間からして、もう来ていることだろうと予想もしていた。母は息子やその嫁に会うことよりも、孫に会えたという方が喜ばしい事だったらしい。息子娘より孫曾孫の方が可愛い。

 皆が揃ったから食事にすることにした。けれども、さすがに七人、こたつに入るのは狭い。父と男性は、こたつから出て、自分たちの近くに石油ストーブを置いて、寒さをしのいだ。カセットコンロの上に、土鍋を置いて、中には定番の白菜から始まり、肉やら何やらが色々と入れられた。

 特に、名のある鍋ではなく、適当な食材を入れる、寄せ鍋だ。和気藹々と皆で鍋をつついた。途中から、何回かに分けて、減っていった鍋にあらたに食材を入れていったが、人数も多く、男性が沢山食べることが出来たので次の日に残すような物は一つも残らなかった。それこそ汁も、しめに入れた米と一緒に雑炊にして一滴も残らず、とは言えないにしても綺麗に平らげた。

 食事が終わり、片付けが終わると、後には特にやることはないから、だらりと寝るまでの時間を各自で費やした。テレビを見たり、本を読んだり、諸々である。年のいった爺さんと婆さんが一番に早く寝てしまい、それから続いて父と母が眠った。男性達は、一つの部屋に布団を三つ並べて川の字になって眠った。

 朝になり、爺さんと婆さんは、日が出るのと同じ頃には起きていて、今度は二人で畑に向かった。母は女性と子供を連れて何処かへ行ってしまった。大方、近くにある有名所にでも連れて行ったのだろう。父も男性も、ここらに在る所にはもう何度も行っている。歴史的な事柄を色々と教えることも出来なくはないが、面倒で一緒に行くのはやめた。

 父としては単純に面倒で行きたくなかったのだが、男性は父と二人で話す時間が欲しかったというのもある。こたつの中に入りながら、新聞紙を広げている父に男性は声をかけた。コーヒー、飲むけどいる?父は新聞紙に顔を向けたまま、ううん、と唸って、じゃあお願いする。粉は台所の上の棚にある。言われた男性は台所に行くと、ポットが在るのにもかかわらずやかんに水を入れて、沸かし始めた。すると次は上にある棚の中のコーヒーの粉には一切手を付けずに、昨日のうちに冷凍庫に入れておいたコーヒー豆を取り出して、自分のバックから取ってきたコーヒーミルの中に豆を入れた。子供の時のように、胸のときめきはないが、昔を思い出しながら挽くその手を通じて、豆を挽く感触を確かめた。何だか自分が老け込んだ様に感じる。子供であった頃から比べると、大分老けてしまった。それだけ自分の中で、柔らかくしなやかな部分が硬く融通のきかなくなっていったように感じる。遊び心の薄れた自分が、昔を思って豆を挽いていると、一瞬だが子供に戻れたような錯覚が起こった。

 やけに時間がかかっているな、粉が見つからないか?後ろからの父の言葉に、いや大丈夫とだけ答えて、後にもう少し待ってくれと付け加える。取っ手を回す抵抗が軽くなって、そろそろ頃合いかと、コーヒーミルを持ち上げて揺すってみる。するとしゃらしゃらと、細かな砂が動く音がした。十分に細かくなったと確認が取れると、まだコーヒーミルから粉を出さずに、フィルターの準備をした。お湯が沸くまで待って、ピーとやかんがなる一歩手前で火を止める。別段、父を驚かせるようなイタズラでもないが、父の反応がどんなものか見たくて、自然と事を運んでいる自分の顔にはニンマリとした笑みが浮かんでいた。

 軽くお湯でカップを温めて、フィルターを設置して、コーヒーミルの中の粉を均等に分けた。ゆっくりとフィルターの中にお湯を入れていく。ふわりとコーヒーの香りが舞った。ようやく淹れ終わると、盆に二つのカップと一つのコーヒーミルを乗せて父の元に向かう。随分時間がかかったな、新聞から視線を外して男性の方を見て言う。懐かしいものを使ったからな、と盆をこたつの上においた盆の上においてあるものを見て父は驚いたような合点がいったような、目を細めて何回か一人頷いた。

 確かに時間が掛かるわけだ。盆から自分の分のカップを取るより先に、コーヒーミルを掴んで寄せる。杢目をなぞるように指を這わせて木の感触を感慨深く感じた。

 冷めたら不味くなるだろう、そう言って男性が父にコーヒーを飲むよう促す。それもそうだと、父はコーヒーを一口啜る。飴玉を口の中で転がすように、香りと苦味を楽しんだ。懐かしいだろ、男性も一口、コーヒーを飲み、数秒してから口を開いた。あゝ、そうだな、懐かしい。随分と懐かしいものでコーヒーを淹れたな。薄く笑みを浮かべて、父は嬉しそうだった。そして、コーヒーを飲むだけ後は、コーヒーを啜る音に新聞紙を捲る音、男性がつけたテレビの音、会話はない。二人共、ややぼぉっとしてコーヒーを飲んでいた。何時の間にかコーヒーは底をついている。

 二人共、同時とは言わないが溜息をついた。テレビのニュースががやがや音をたてている。

 なあ、親父。父は新聞を畳んでこたつの上に置いていた。なんだ、男性と同じくテレビに父は目を向けている。何だか、最近荒れてるな。何がまでは言わない。そうだな。父もただ答えた。なんで繰り返すのかね。男性はテレビを見ながら頬杖をついている。何が。父はこたつの上の蜜柑を手にとって掌で転がしている。ん、例えば、戦争とか、不景気に税を上げるとか、まあ色々あるだろう、そういって、ちらり父の顔を見た。何だってそんな話しをするんだ。怪訝な顔になる。

 男性はテレビにまた目を向けて、いや、ただ何となく、よく言うだろう。……ほらあれだよ、論語とかでならった……。そこまで言って、男性は顎を手でさすりながら言いよどむ。あと一歩までは思い出せても、最後が出ない。何の事はないただ一つの言葉だが、それを口に出せずにいるのは悔しいようなモヤモヤとしたものがつのる。

温故知新か?父は口元をにいとつり上げて言った。そう、それだ、それを言いたかったんだ。頭の中を探して出なかった言葉が出てきてすっとしたが、自分の言おうとした言葉が盗られた様な気分にもなった。なにより、からかうような口元が気に入らない。そう拗ねたような顔をするなよ、いい大人がよ、可愛くないぜ。ケラケラ咲っている。何が楽しいのか。なんだよう、面白そうに咲ってさ、そんなにニヤついたら皺が何本あったって足りなくなるぜ。口を尖らせて言う。男が皺を気にしてどうする、そういうのは母さんで間に合っているよ。またも父はケタケタと咲う。楽しそぉうですねぇ。そう男性が言ってやると、父はこう返した。そりゃ、久しぶりに息子とこうやって喋っているからな。何だか楽しいのさ。男性は少しばかし同じような気持ちがあったから、何だか恥ずかしいような、嬉しいような。まあここに来るのも久しぶりだしな。何処かしらつっけんどん

な言葉男性は返した。照れ隠しのようなものだ。父はふむと息をつく。なあ、正月に休みは取れなかったのか、こんな微妙な日に来られてもなぁ、溜息のような物が混じって言葉と共に出た。仕事がなぁ、後輩の教育に、会社が軌道に乗りそうで、皆躍起になっているからな、どうにもなかなか休めん。正月は皆休みたがるけど、そこで一気に人が抜けるとどうにもね。俺も会社にそれなりにいるからな、結果何年もいい時に休めずにいたってわけですよ。有給もたまってたし、無理矢理休みとってここに来たって訳だ。馬車馬と言ってはなんだが、皆が頑張ってオフィスを駆けまわったりしている光景を、ぼんやりと思い出しながら男性は言う。四十数年務め上げた俺からしたらまだまだだな、誇るように父が言った。そりゃ父さんには負けるさ、勝っているのは若さだけだよ、そう男性は言う。そして、溜息をついた。

 ふと、父が切り出した。ポツポツと探りながらにだす言葉だ。お前が言う、繰り返すってのはさ、何て言うんだろうな、コーヒーに似てるんじゃないかって、思うんだよ。そう言って言葉を区切る。コーヒーと同じ?どういうことだよ。男性が意味を汲み取れず返す。例えば、だ、子供の時、お前が初めてコーヒーを飲んだ時さ、覚えているか?男性は頷く。そう、その時、お前はコーヒーの苦さが駄目で、何でこんな物を飲ませるのかって顔をしててさ、だけど今じゃ違う。今はコーヒーを嗜む事が出来るくらいに、コーヒーを飲めるし、何度も飲むよな?また、男性は頷く。視線はずっとテレビを向いて、こたつに寄りかかった肩に頭を乗せたまま。父も同じような姿勢のまま、続ける。だからさ、こうなんじゃないかって思うんだ。もしかしたら、政治家たちとかの中には、最初は、今のような政策みたいなものが駄目だと思っていたりしてさ、でも、いざ大人になってみると、はじめ感じたような嫌悪感はなくてすんなり喉元を通ったりする。すると、それに味をしめてじゃあもう一度やってみようかってわけさ。な?コーヒーを飲むことと一緒だろ?好きだから何度も飲む。最初は嫌いでも、後から好きになる。勿論好きにならないやつだっているさ。だから意見がすれ違う。じゃあコーヒーが嫌いな奴は何を好きになる?そうさな、紅茶にするか、それとも緑茶?まあどうだっていい、そいつが好きな飲物を、周りのやつにも勧めたくなるよな、勧める相手にも好きな物がある。そこで衝突が起こる。場合によっては和解して、お互いに好きな物になる。勿論、和解できない時もある。つまりはそういうことだ、わかったか?親父が話しを締めくくる。男性はテレビからちらりと親父に目をやって、そんなこと考えてんのな、親父は、と言った。いんや、息子の手前、格好つけたくて今考えた、そう親父は答える。そうかい、と男性。そうさ、と親父。テレビにはつまらないニュースが延々と流れていた。

          ◆

男性の前に二つのカップと中にコーヒーが注がれている。隣には子供がいる。じっと子供が小さな自分のカップを見つめている。さ、飲んでみろ、男性がそう促した。うん、子供が答えてカップを手に取る。ふぅふぅとコーヒーを少し冷まして、口に含んでみた。苦い!子供は顔を渋くして、口に含んだコーヒーをカップに吐き出すと、男性に向けて言った。だろうなぁ、と男性は言って、近くにあるミルクと角砂糖を手元に寄せて、多めに子供のカップの中に入れてやる。さ、もう一回、飲んでみろ。子供が頷いてコクリと一口飲んでみる。美味しい!子供は喜んでカップの中のコーヒーを全て飲み干した。良かったなぁ、男性は子供の頭を撫でてやると、窓辺に置かれたコーヒーミルに目をやった。埃ははらわれている。ぼんやりとした頭で、何時かはこいつも、砂糖なし牛乳なしのコーヒーが好きになるのだろうか、それとも別の飲み物が好きになるのか、そんな事を考えて、自分の分を啜った。少しばかし薄かった。


ーー後書き

サルベージ第三弾、うん、なつい、なついなつい、いいねぇ、しんみりする、これ書いてたときを思い出して。また何か書いてみようかなぁ

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