阿吽

どれ、一つ本を捲って読んでみようか、いや、朗読するのも素晴らしいかもしれない、む、いや待てよ、もしかしたら私はひどく素晴らしいことをしでかすのではないか、言ってみれば、そう、みすぼらしい美しさを見た梶井基次郎が丸善で積み上げた画本の城に紡錘形の檸檬置いたように、さわやかな香り立つ、そして回りとの世界がズレてしまったようなアンバランスかつ構造的にはなんとも言えぬ、ところで電車の中で本を読み上げるのは一昔前の天皇に直訴する様な大事であるのか、もしかしたら電車法第二条、

ーー電車ハ公共的デアリ、マタ、ソレヲ犯ス者ハ、電車公共マナーニ反スル者ト見タシ、コレヲ罰スーー

という文に当てはまってしまうのではないか、だがそれがどうしたっていうんだ、何が公共だ、たとい公共であっても一人ひとりを尊重出来ずに個人とは言えんだう、私は公共に反逆するのだ、そう、反逆するはテロリスト、私こそが公に反するテロリストなのだ、では、まずはひとつ、頁を新たにしなくては、息を吸い込み、体中の無駄な力を抜いて、よし、行くぞ、ん、おや、うん、やはりそうだ、紙で出来た本というのは何と心地良いものか、この指先に吸い付いてしゃぶるような質感というのは、ある意味、絶頂、ということは、本一頁々々に砕いて分けて、紙を捲る度に細かいorgasm(オーガズム)お感ずる事で、それは捲る以外にも、紙と紙とがこすれあう音、紙の裏に透ける文字、あらゆる本を読むという行為の中に散りばめられていて、なるほど、では本を読むというのは自慰行為に等しいのか、ほぉう、これは良い、私は自分を慰めつつ反逆を行うのか、面白い、これは声高らかに読むしかあるまい、大きく息を吸い、肺いっぱいに酸素と二酸化炭素と窒素とその他諸々と他人の吐息を詰め込んで、それ、

「阿・吽。」

どういうことだ、この窮屈な直方体の中で、大きな声に出せたのは阿と吽でしかないとは、私を震源としてウェーブが起こる。ぎょろりと見開かれた目という目が、私に向かって、いきなり何をどうしたというのか、と、詰り叩いてくる視線が、私を萎縮させ、余りに強い視線に、花開く事叶わず散ってしまう夕顔のようにうなだれそうになる、だがここでめげてはいけない、この本に対する裏切りに他ならない、今にも火を吹くかと思えるほど顔は熱くまた動悸も激しいが、ううむと丹田に力を込めて背筋をぐっと伸ばし、私を狭い穴蔵に閉じ込めようとさえするプレッシャーを何とかいなし、そしてまた、口を開く。

「阿・吽。」

あゝ糞、またしてもか、またしても口に出てくるのは阿と吽、どうしてなのか、唯本を声に出すというだけであるのに、私の咽の中にはどうやら悪魔らしきものが住み着いて、あらゆる本の言葉というものを変換し阿と吽に作り替えてしまっているのかもしれない、そういった考えがふと目の前を過ぎ去ろうとした時、私の大声の阿、吽、に耐えかねたのか、白髪交じりの髪、もっさり蓄え口髭、トレンチコートと中折れ帽をかぶり、金縁の丸眼鏡をかけた初老の、何やら教授らしき男が人並みをかき分けてやってきた。

「何をそうやって喚いているのかね若人君、君の声が私や、他の客が電車の音さえ感じられないほどに頭がキンキンと痛むのだよ、まるで金槌で頭をぶっ叩かれたようだ。」

「いや、あの、すいません、でも、あの、朗読したくて、でも、けど、読めなくて、すいません、すいません」

振るえ縮こまってしまっている私に、教授らしき男は鼻を鳴らし、侮蔑の目を投げつけてきた。

「朗読だと、朗読をするにも何が阿吽だ、朗読になっていないじゃあないか、朗読というものはね、もっと穏やかで、かつ滑らかで艶かしく、それでいて絶妙でなくちゃいけないんだ、そこの所君はちゃんとわかっているのかね。」

「え、あ、はい、勿論、でも、読めなくて、これ、読もうとしたんですけど、読めなくて、まるでフィルターがのどの奥にあるみたいなんです、ホント、本当なんです。」

「読みたくても読めないだと、これだからノータリンは困るんだ、どれ、貸してみなさい、私が読んであげよう、君にこうやって教えてやるのも教授である私の役目だからね、ほら貸してご覧。」

そう言って教授だという男は私から本をふんだくってページをふんだくった。教授だという男も私と同じように大きく息を吸い込み、どっしりと構えて、

「阿・吽。」

私は心のなかでガッツポーズをした、そうか、こいつも同じなのだ、読めないのだ、偉ぶっているくせして読めないのだ、本当ならばこうやって他人の出来ないことを笑うのは最低だと罵る私だが、どうやら私は最低までに落ち込んでしまっていたらしい、冷静に、私はどうやってこの底辺から抜けだそうかと考えた。

「なに、何だと、何故この私が読めないんだ。」

教授だという男は半ば狂って叫んだ。自分の知識をひけらかそうとして出来ない事実は彼にとっての何よりの屈辱らしいかった。青筋を額に浮かび上がらせて、私は読めるんだ、読めなくてはいけないと、何度も何度も読もうとして阿、吽と言い続ける。先程は笑ってしまった私であるが、この様子に些か不憫に思えてきた。私は彼の自尊心を突き崩してしまったのかもしれない、いや、悪いことをした、謝らなくては、そう考えていると、この事態に見かねた回りの乗客たちが、ため息をついて教授

だという男を見て、乗客の内誰かが言った。

「なんだっていうのさ、君は本も読めないのかい?じゃあ僕が読んであげるよ、それでスッキリ万々歳と行こうじゃないか。」

乗客の渦をかき分けて、今度はスーツをぴしりと着込んだサラリーマン風の男が現れた。サラリーマン風の男は教授から私の本をひったくって口を開いた。

「阿・吽。」

電車内にどよめきが走る。サラリーマン風の男もまた驚いているらしかった。そしたらどうだろう、サラリーマン風の男を皮切に、電車内の乗客たちが老若男女問わず自分だったら読めるのではと息巻いて口を開いた。

「阿・吽。」

                「阿・吽。」

             「阿・吽。」

                  「阿・吽。」

      「阿・吽。」

  「阿・吽。」

               「阿・吽。」

         「阿・吽。」

                「阿・吽。」 「阿・吽。」

正に阿吽の大合唱とでも言うのか、一人漏らさず阿吽と言うこの光景は壮観である。私はどうやら皆が読めないこの本をどうやって料理してくれようかと考えていた。そしたら教授だという男は声をあげた。

「皆が読めないこの本、口に出すから読めないのではないか、どうだろう、黙読してみるというのは。」

「確かに、その可能性はある、良くやった、良くやったぞ教授。」

乗客の一人がそう返して、私の本を持つ人からふんだくるのではなく本を受け取ると、厳かに私に本を手渡した。ゴクリと唾を飲む。皆が私を見て次に起こる結果に期待する。私は脂汗を一つ流しながら、緊張に震える指先で本を開いた。

「よ、読める、読めるよ。」

ゆっくりとであるが、本に書かれた文字が、言葉が、私の頭のなかに入っていく、すぶすぶとスポンジの中に染み込ませるように、あゝ、入っていく。乗客たちが歓声をあげた、よくやった、どうだ、どんなかんじだ、とお祭り騒ぎに近い。だが、その言葉に答えられるほど、私に力はなかった。ギリギリと頭を、この本の言葉たちが締め付けるのだ。そして頭の中心から腐って溶けるようなどろりとした気持ち悪い何かを感じた。私は耐えられず、なんとか本は手から滑り落とさずに、その場で膝を折った。一番先に教授だという男が私を心配そうに、私の肩に手をやった。

「あ、頭がぎりぎりと痛むんです、まるで、万力で潰そうとするようです、痛い、いたい。」

「あゝあゝ、もう読むのをやめなさい、それ以上はおそらく君の脳が言葉に支配されてしまう、読むことをまずやめるのだ、そして本について考えることもやめるのだ。」

私は言われたとおりにやってみた、すると、すっと、頭のなかがスッキリとする、クリアになる。まだ、痛みの余韻が続くが、私はゆっくりと立上ると、教授だという男はニコリと笑って、私の両肩にぽんと手を置いた。

「君はよく頑張った、よく読んだ、素晴らしい、君はひとつ成長したのだ、今は君の頭をギリギリと痛め付け苛ませるだろうが、何時かその言葉たちが君にとっての力になるだろう。」

乗客たちが皆私に拍手喝采をくれる、なんてことだろうか、皆が、皆が私を祝福してくれるのだ、こんなにも嬉しい事があったろうか、私の心のそこから歓喜が膨れ上がり、目尻に涙が浮かんだ瞬間、ひとつの慌てた声が私を正気に戻した。

「君、君、ここは君が降りなければいけない駅だろう、早く出ないと扉が閉まってしまう、さあ早く。」

それは駅の声だった、何時もこの駅で降りていることを駅は覚えていてくれたのだ、乗客たちが一斉に、さあ早く行きなさい、でないと大変だ、この電車が発車してしまう、さあいくんだ少年、さあ、皆が私の背中を押してくれた。私は電車に残る人達に一つお辞儀をすると、これでもかと走りだした。改札を抜け、階段を駆け上がり、外にでる。新鮮な空気が肺を満たすと、ぐっと体中に力がみなぎるように感じた。指先から足先まで、その区間にある筋肉と骨の動きを意識し、呼吸を必要最低限にまで抑え、陸上選手のように私は走った。坂を下り、信号を渡り、後は一直線に目的地へ走る。気分はさながら、太宰治のメロスの様だ。そこには私を待つセリヌンティウスはいないが、目的地が私を待っていてくれる。目的地が私を視界に捉えると、おうい、早くしないと遅れてしまうぞと大声で言った。私は、すまない、今行くと、大声で返して、また一層足に力を込めた。ようやく目的地に入ると、七階まで階段を駆け上がり、勢い良く部屋に入るためドアを開いた。ガラリ、ピシャンと打ち付けられたドアがうめき声を上げるが、抗議しようと口を開くのをぐっとこらえ、次はもっと静かに開けてくれよ、と、務めて優しい口調で言ってくれた。私は、ごめんなさいと、謝って席についた。

「ふむ、遅刻ぎりぎりですな、君。次遅刻したら単位は没収ですから覚えておくように。」

先生は教授だという男と同じように蓄えた口髭をいじると、黒板に今日やるテーマを書きだした。私は先程まで感じなかった疲れというものをどっと背中に背負い込んで、最早息は絶え絶え、汗は身体から逃げ出すように溢れ、私は髪先に滴る、毒々しい水銀の様な、油を含んだ汗が、光にあたってきらめくのを見て、綺麗だなと思いながら目を瞑った。もう目を開く力すらなかったのだ。すると世界がずっと深く暗く沈み込んだ。

「やあ、こんにちは。」

誰かが私に語りかけてくる。

「誰だい。」

「僕は深遠さ。」

「深淵?なんだて深淵が僕に語りかけるんだい?」

「そりゃあ、君が深淵を覗いたからさ。」

「なんで、なんで覗いたら語りかけてくるんだい?」

「本当は僕だって語りかけるつもりはなかったさ、でも君が本を読んだから、言葉をその頭のなかに入れたから、しょうがなく、僕は現れたのさ。」

「そうか、君はあの本の言葉なんだね、そうなんだね。」

「そうともさ、深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ、君は別に怪物と戦っちゃあいないが、そうだな、本の言葉とすったもんだしたからね、まあのぞき返してやろうかと思い立ったのさ。」

「と、すると、僕は君に覗かれてしまって言葉に支配されてしまうというのかい?」

「いやぁよしてくれ、唯の気まぐれて君を襲う気はないよ。」

「よかった、それはよかった。」

「君はまだ深淵から抜け出せそうにないだろうから、しばしの間、僕といっしょにおしゃべりでもして時間をつぶそうじゃないか。」

「いいね、いいアディアだ。」

私は深淵と語り合えることに感動を覚え、私の目が十分休みが取れた、もう開けられるよと言ってくるまでずっと、他愛もないことを語り合ったのだ。

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