つらつら

              

ゆらゆら揺れる糸の先、釣り針がポチャリと音をたて、水の中に入り込めば、するりと奥へ奥へと餌と共に沈んでいく。水面に波紋が広がって、その中心には赤と黒とで色付けされた浮きが、ぷかりと浮いている。音と餌と水の動きに反応したか、警戒を強めた鮒は、逃げるように逃げていった。その浮きのとなりに、緑と黄色で色付けされた浮きがある。糸と糸が絡まぬように、距離を開けて。

「なあ、父さん。」

黒と赤の浮きが揺れる。

「俺、今度子供が出来るんだ。」

緑と黄色の浮きが大きく揺れた。

「そうですか、それは、それは、とても喜ばしいことですね。」

「……なあ、父さん。」

若い、見た目二十代後半といったところか、男が、少し黙った後、口を開いて聞いてみる。黒いロングコートに白髪交じりに後ろに髪をまとめた初老の男は、ニコリと笑顔を作って答えた。

「なんでしょう。」

男は、初老の男に顔を向ける。

「なんで、俺の誘い、受けてくれたんだ。忙しいだろ、何かと。」

老いた男は何の事はないといった風に言う。

「それは、あなた、貴方が私を誘ったからですよ、良い知らせだ、やはり誘い乗ってよかった。」

「でも、今年もまた、新しい子が入ったんだろう、それだったら、こうまで一日時間を作らなくたってさ、良かったじゃないか。」

初老の男は竿を少し持ち上げてみた。針の先に付けたはずの練りエサは、いつのまにやら突かれていたのか、はたまた水に解けたのか、どこにもなくなっている。釣り糸を掴んで自分のところに手繰り寄せて、また練りエサを釣り針につける。

「知らないのですか、時間というのは配分するものじゃないのです。作る、ものなのです。必要なら、作る、それが時間だ。それに、私には頼もしい息子に娘がいますから、一日くらいどうってことないのですよ。」

ちゃぽん、また、餌と共に釣り針が沈む。

「そうかい、それはまた、苦労をかけちゃったな。」

「いやいや、苦労じゃありませんよ、息子に会うのが苦労といっては、親が務まりませんもの。」

「そういうもんかなぁ、親ってのは。」

「そういうものですよ、親ってものは。」

「ふぅん、そういうものか。」

若い男も同じく糸を手繰り寄せて餌の具合を確かめてみる。餌がはなくなっていた。

「なあ、父さん、餌、付けてくれないか。」

少しこっ恥ずかしそうにはにかんで、若い男は言ってみた。初老の男も一寸ばかし驚いた風に目を見開いて、でもまたにこやかな顔になって、自分の竿を横に倒して置くと、竿の先を此方に向けるようにと、ちょいちょいと手で招いた。向けられた竿の先に垂れる糸を指にひっかけて、自分のところに手繰り寄せて、餌を針につけてやる。できましたよ、と一つ言うと、糸を持っていた手を離して、若い男はそれを水の中に入れた。

「珍しいこともあったものですねぇ。」

「たまには甘えてみようかなって、思ってね。」

「そうですか、そうですねぇ、何時も甘えるのはいけないけど、今日くらいはいいかもしれませんねぇ。」

「いいのか?特例なって作っちゃって、ホームの子どもたちがむくれるぞ?」

「いいじゃないですか、誰も見てませんもの。それに、貴方が甘えるなんて、貴重ですからねぇ。貴方は特に、懐くまでに時間がかかりましたから。」

感慨深そうに、しみじみ呟いて、魚が針に食いつかないことを気にすることなく、ふと、空を見上げ見た。

「それは、まぁ、あれだよ、事が事だったからさ。」

「そうですねぇ、貴方の場合は、少しばかし、遅くにきましたからね。」

「そう、親父も母さんも死んで、身寄りのない俺の前に現れて、私が新しいお父さんですよって言うんだもんなぁ、中学生の頃だったから、そう簡単に受けれられなかったんだよ。」

「無理もないでしょうね、親父って呼ぶ人がいたのに、お父さんですよって、言って近づいて、直ぐにお父さんって呼んでくれる人はどこにもいませんよ。」

カラカラと、初老の男は笑って見せた。つられて若い男も、ふふふと笑う。

「本当は、父さんって呼んでもいいかなって、そう思い始めたのはだいたい、父さんと出会ってから五六年経ったくらいかな。」

「そうなのですか?でも、父さんって、呼んでくれるようになったのは成人してホームを卒業して、後になってからでしたね。」

「ずっと、父さんって呼ぼうとは思ってたんだ、だけど、踏ん切りがつかなくてさ。仕事も始まって、父さんたちに連絡することも忘れるくらい忙しくて、で、それから彼女が出来て、頭の中で、父さんやホームのことが追い出されてさ、なんだかすごい自由になったんだって思ってて、でも、結婚を考えるようになったら、あゝ、父さんに紹介しなきゃって自然と思ってね、ようやく、父さんって呼ぶことが出来た。」

「あの日、貴方が、可愛らしい彼女さんを連れてきて、一言、父さん、俺、結婚するよって、言ってきた時には柄にもなく、泣いてしまいそうでした。」

「そうだったのか、そんな素振りはなかったけどなぁ。」

意外そうに、若い男が初老の男を見る。初老の男はそれに小さく笑って返した。

「だって、初めて父さんって読んでくれたんですもの、格好つけたかったんですよ。」

「なるほどね、見栄を張ろうとしてたんだ。」

「ええ、私、こう見えて見栄っ張りなので。」

そう言うと、少し間、二人は何も喋らず、釣り堀の水の流れる音だけが響いている。

「なあ、父さん。」

「ん?どうしたんですか、改まって。」

「家族ってなんだろうな。」

「本当にどうしたのです?子供が出来て混乱でもしましたか?」

初老の男は怪訝な顔になって、若い男を見るが、若い男は水面を眺めたまま、ぽつりぽつりと言葉を漏らす。

「これから出来る子供、養子でもらってくる子供でさ、俺、種なしだから子供作れないんだ、だから養子、でも、父さんみたいな人じゃないし、少し不安なんだ。」

「なるほど、そう言う事でしたか。」

初老の男はうんうんと納得がいったと頷いて、それからにこやかに水面を眺めて考えた。

「家族とはなんだ、その問に、私は明確に答える事が出来ません、私は、家族というものをひどく曖昧に見ているのです。」

「曖昧に?」

「ええ、儚い、はもかもない、どちらともいえない、なんとも不思議なもの、そう、私には見えます。」

「だが、人によっては家族はそんなにも脆い存在じゃない。」

「そう、では何が、その家族というものを繋いでいるのでしょうか、バラバラに崩れてしまいそうなその関係を、私は、それは愛だと、思うのです。」

「愛、か、それこそ、儚いものじゃないか。」

「そうですね、儚い家族の関係を、儚い愛が繋いでいる、一寸、家族を語るには脆いかもしれない、でも、私にはそれが全てだと思っているし、確信もあります。」

「なんで、そんなに自信があるんだ?」

「ふふふ、だって、私は皆のお父さんですもの、自信を持っていなければ、皆、不安になってしまいますから。」

「まあ、そうかもしれないな、で、理由はあるんだろう?」

「勿論、説明しますよ。」

初老の男は一呼吸置いてから、また喋り始めた。

「私は、家族という者が何なのか、考えさせられる時がたくさんありました。こういう身ですからね、どうにも考えずにはいられないんです。でも、その度に、私は家族というものが靄みたいな、そんなゆらゆらと揺れる不安定なものだと、そいういう考えにたどり着きます。家族の定義なんてものは、法律に任せてしまえばそれまでで、法律から外れてしまえばその境は直ぐに見えなくなってしまう。だけど、見えないつながりは、愛によって繋がれる、だって、そうじゃないですか、私と貴方だって違いない、血のつながりのない、唯の他人が、親子の関係になっている、いや、家族というものはそういった親子とか、兄妹とか、そういうものは全く関係のないものなのかもしれない、それらは、目には見えない曖昧な愛によって繋がれている、皆が、愛を持っているならば、愛は自ずと皆を一つの輪につなげてくれる、どこかでほころびがあれば、そこから輪は崩れていく、最初は淡い恋心に絆されて、甘酸っぱい恋というもので遊んで、何時の間にか愛の欠片が育っている。ただ好きなだけなら結婚なんて必要が無いのに、恋の代わりにすり替わっていた愛を証明するために結婚をしている、家族を作る。」

「何だか、とても、ロマンチックっていうのか?にしても、随分愛に依存した考えだな。」

「そんなものでしょう、人って、血が繋がっていようがいまいが、お互いに愛があればつながることはできるし、家族になれる。でも愛は見えない、これも霧のようなもの、靄を霧が繋ぐなんて、そんなグチャグチャに混ざり合ったようなものを誰が明確に説明できますか?でもそこには確実に靄を繋ぐ霧がある。どうでしょう、霧を繋ぐ靄かもしれない。ただひとつ、言えることは、私は家族として、貴方に愛をもって接しました、形こそわかりやすいように父と子というものですがね。」

「愛があれば繋がることが出来て、家族になれる、か。本当に、確信をもって言ってる割には不明確だなぁ。」

「参考になりませんでしたか?」

「ううん、そういうわけじゃない。父さんの考えは確かに明確じゃないけど、だけどどこか、確かになってのがあるんだ。」

「そうですか?」

「うん、僕も、もう少し自信を持ってさ、これからなる僕の子供に愛を注いでみるよ、もしかしたら普通とはずれた愛かもしれないけどね。」

「愛にずれたも何もないですよ、ただそこに愛という存在が漂ってるだけなんですから。」

「そうなのかもしれないね。……あ。」

ピクリピクリと若い男の竿の先端が揺れる。

「おや、引いていますね、今日はじめての当たりですかね。」

「そうかもしれない。よっと。」

多分針に食いついたであろう瞬間をまって、若い男は竿を上に持ち上げつつ引きつけた。針を伝って魚が暴れるのを感じる、今日はじめての感覚だ。魚が水面を過ぎて外気に触れた時、どういうことか、魚は残る力を振り絞って抵抗して、その口に引っかかっている針を外してまたポチャリと水の中にかえってしまった。

「ふふ、初めての当たりなのに逃しちゃいましたねぇ。」

「まあいいんじゃないか、別に、つり上げてもまた逃すんだから。」

「そうですけど、せっかくの釣り堀なのにつれなきゃ面白く無いでしょう。」

「そうかな、俺はもう十分に楽しんだけど。」

「そうですか、なら、もうここらへんで切り上げますか、今日は冷えますしね。」

雲が太陽を長いこと隠して温めてくれない、少し冷えた、生温いような風がさわりと身体をなでる。

「そうだな、腹も減ったし何処かに食べに行こうか。」

二人共竿に釣り糸と針を巻きつけて、椅子の代わりに使っていた木箱から立ち上がる。練りエサがまだだいぶ残っていた。

「どこかあてがあるんですか?」

「いや、ないよ。」

「ではぶらぶら歩いて探しますか。」

「そうしようか。そうだ、お金は俺が払うよ、今日はためになる授業も聞けたことだからさ。」

初老の男は若い男の言葉にニヤリと笑って言った。

「そうですかそうですか、ならお言葉に甘えましょうかね。」

「なんだ、素直に奢られちゃうんだ。」

「ええ、私はこう見えてもケチでしてね。」

「なんだかなぁ、今日は父さんのマイナス面を多く見ちゃったような気がするなぁ。」

「人ってのはやっぱりそういうものですよ、表があって裏があるのです、それにそれがあるから人間味があるんですから。」

「そうだなぁ、ま、観念してちゃんとおごりますよ、ついでにホームの皆にお土産をかってやろうかな。」

「おや、随分と太っ腹ですねぇ、意外です。」

「知らなかった?俺ってこう見えても見栄っ張りなんだ。」

「そうでしたか、誰に似たんでしょうねぇ。」

「誰だろうなぁ。」

軽口を言い合いながら、釣り堀を抜けて、いい店を探しながら、他愛もない会話で一日を潰していく。今日は魚も釣れず、天気も芳しくないが、ま、いい日だったんだろうと、若い男は思って、はじめて会った時よりずっと皺の深くなった初老の男と一緒ににこやかに笑った。

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