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労いの最適解=ワッショイ?

なんとなく体調が優れないな。
熱を測ってみたものの36.8℃。人によっては高いと感じるかもしれないが、初潮が来てからスタンダードになった平熱のど真ん中。35℃台が平熱だった幼少期は一体なんだったのか。

冷蔵庫に食材がない。今なんとなく動こうと思えば動けるタイミングでスーパーに行っておかないと、後で絶対に苦労する。
惰性で点いてるTVのバラエティーのこのコーナーが終わったら、とかなんとか、何かしらの区切りを探してスーパーに行って、帰宅後手を洗うために洗面所に行くと、鏡に写った自分の顔が笑えるほど真っ白だった。
顔が白過ぎて、元々目立つタイプのくまが一際目立っている。昨晩9時間睡眠を取った人の顔だとは思えない。
生理3日目、多分貧血だろう。

今日はもう家から出ない。

1人で体調がなんとなく優れない時、ただ黙って横になるなり、家から出ないなりしていれば、問題がなければそのうち治るし、過ぎてみればなんでもなかった1日、にしかならない。
でも多分、家族が同じ場所にいたら「調子悪い?」と気にかけてもらえるか、自分で申告して休むなりして、1人でいるよりもなんとなく、何事かがあった日、になるんじゃないかと思う。

連絡を取ってる人の中には、別に言わなければ分からないのに「今日ちょっと調子悪いんだよね」と言ってくる人もいる。家族でももちろんそうだ。
言いたくなる気持ちはなんとなくわかる。心配してほしいとか気にかけてほしいとか、なんかそういうことではなく、つい口に出したくなってしまうのではないかと思う。まあ、心配してほしいとかもあるのかもしれないけど。

でも私は、こういう時激しく思案する。なぜなら、言って何になるんだろうと思うからだ。
ひどく冷たいような感じがするよね。わたしもそう思う。
でも実際、文面でしかやり取りしていない相手に、「ちょっと体調が悪いんだよね」と言ったり言われたりしたところで「え、そうなの?」「大丈夫?」「無理しないでね」「今日は早く休みな」とか、もう何万回も聞いたありきたりなやりとりが交わされるだけで、なんの解決にもならない、と私は思ってしまうのだ。
それが、長らく連絡が続いてる人だとなおそうだ。ありきたりな労いの言葉をかけても何の解決にもならない、今すぐどうにかしてあげられない。ならちょっとウィットに富んだ言葉を探して言ってみるか、と思ったりもするのだが、前提として体調が悪いので、あまりふざけすぎるのも良くない。相手によっておふざけのラインはなんとなくわかっていても、体調不良の強度が毎度同じな訳じゃないから、非常に難しいのだ。

同じ人と遊ぶ時に同じ服を着て行かないようにするのと同じく、同じ人が体調を崩すたびに同じ言葉をかけるのはなんかちょっと…という、こちら側の勝手な満足の問題が発生している。
以前、風邪をひいて寝込んでると連絡をよこしてきた人に、「ご安静に!」と声をかけたが、もはや風邪をひいて寝込んでますよ〜と連絡をしてくる人がご安静にしてないわけがなくて、服を見てる時に「どうぞごゆっくりご覧くださいませ〜」という店員と何が違うのか分からなくなった。このへんで体調不良者にかける言葉のバリエーションの限界を見た気がした。
私のやっていることは意味のある言葉を喋って(書いて)いるのではなく、音を出していることと何ら変わりない、祭りのワッショイと多分同じだ。意味がない、機械的すぎる。

一体、労いの最適解ってなんなんだろう。

でも、よく考えてみると、同じ空間にいて、体調不良者を認識する→労いの言葉をかける→なんらかのアクションを起こす(布団をかけてあげる、抱きしめてあげる、飲食物の要望を聞いて持っていってあげる等?)、をしたところで実際のところなんの解決にも至ってないような気もする。物理的接触が取れるという意味では大きく違うが、解決という点においてはあまり変わりがないような気もする。

最近、アタッチメント理論を目にしたのだが、それで言うところの「安心」を獲得する行動の一つなのかもしれないな。
意味がない、などと言わず、自分の状態を親しい人に表現する、そういうことなのかもしれない。

労いなど祭りの掛け声となんら変わらず、何の解決にもならない、と文章を認める私はやはり何かしら愛着の問題があるのかもしれないなあ。
体調が優れないから着地点が暗くなっちゃった。もっと明るく終わりたかった。ワッショイワッショイ!!

ていうか、ワッショイってなんなんだよ、マジで。


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