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現代人が心地よく生きるために。居場所についての個人的仮説

今の日本人には自分らしく生きるための居場所が不足しているのではないかと思う。

のびのびと自分らしくいられる場所がなく、心に余裕を持てない。

その結果、利他的ではなく利己的な日本人が増えている気がする。

この傾向は都会であるほど顕著であると思っている。

私は京都で育ち、大学進学を期に長野県に移住し、大学4年になる春には神奈川県へ引っ越しをした。

私にとって、長野市で暮らしたことは価値観を変える出来事だった。

高校まで京都に住んでいた間は、住むまちに対して興味はないが、特に何もない印象の地方・田舎には引っ越したくないという気持ちであった。

しかし、京都で住んでいた間に募った閉塞感に耐えられなくなり、何も知らない地域に出てみたいという動機で進学した長野市は、私に住むまちへの興味と希望を与えてくれたのだ。

まず、長野に住む人々は、心にゆとりがあるように感じた。

カフェを訪れても、商店街を歩いても、たまたま起こるコミュニケーションが京都よりも多く、客としてのやり取りにしてもあたたかい印象があった。

目も合わせず、マニュアル的なコミュニケーションばかりだった京都の印象よりよっぽど素敵だった。(高校生のお小遣いでは、サービスレベルの高いところに行けなかったということも事実。)

更に、大学生となり自由が増えたことで、私には属するコミュニティが増えた。

大学内ひとつとっても、ともに授業を受けるクラスメイト、学園祭実行委員会の仲間、サークル仲間、別の学生団体の仲間など複数居場所を持っていた。

大学外に出ても、バイト先、インターン先、更には嫌だった京都も、気づけばいつでも帰れる居場所となっていた。

長野に住んだ期間を通して、長野と京都に複数の居場所を持つことができた。

これは、「気が向いたらいつでも帰ろう/遊びにいこう」と思える、心理的居場所と呼べるかもしれない。

そうして、私が大学4年間を通して確信するようになったことがある。

それは、
帰れる居場所(コミュニティ)が多いほど、人は自分らしく、幸せに生きられるのではないか
ということである。

反対に言えば、帰れる居場所:心理的居場所が少ない人は、自分らしく生きる余裕を持つことが難しいという仮説である。

4年生の春に神奈川に引っ越した理由としても、この仮説を検証する意味合いが強い。

現在は、これまで住んだことのない神奈川に住むことで、更に私の中で帰れる居場所を更に増やすことができ、より充実した生を実感できるのではないかということを、更に検証しているわけだ。

では、なぜ、帰れる居場所が多ければ自分らしく生きられると思ったのか。
理由がいくつかある。

理由1/2

ひとつは、居場所を複数持つことで、表現できる自分の幅が拡がるということだ。

一般的な生活を営むために、今の日本人は2つの場を持っていることが多い。

家庭と職場だ。

主にこの2つを行き来して生活している人がほとんどであろう。

そして多くの場合、同じ人物でも、場面によって、性格や表情の印象が変わるだろう。

言い換えれば、人は場面によって、表現する自分を変えているということになる。

これは、ある場面では表現できているその人の要素はある場面では表現されず、その逆も然りということで、人は常に、1場面ではその人の全てを表現できていないのだ。

これが、家庭と職場の2つだけでは、表現できる自分の幅が狭く、「本当はこうありたい」や「本当はこれがしたい」といった、表現できない領域が多いままになる。

その結果、自分らしく生きにくくなるのではないか。

反対に、自分の属するコミュニティ/居場所が多い人は、自分を表現できるフィールドを複数持っていることになるため、結果的に様々な自分の側面を表現することができ、より自分らしくあれると推測する。

理由2/2

帰れる居場所が多ければ自分らしく生きられると考える理由の2つ目は、安心できる仲間の存在だ。

「心理的居場所=帰れる居場所」とは、私一人のみの場ではなく、私以外の他者が存在する快適な場のことを想定している。

つまり、私が心理的居場所に帰る時、その場には、私を受け止めてくれる誰かがいるという安心感がある。

私がその居場所に帰っても、拒否されることなく、またすぐに馴染み、コミュニケーションをはかれるという安心感だ。

この安心感は、実際にはその場にいない場合にも効力を持つ。

例えば私の場合、神奈川で生活している間も、「いつでも、長野にいけば会える仲間がいる」というあたたかい感覚がある。

この感覚が、私が神奈川で辛い出来事にあたった時でも、いくらかストレスを緩和してくれている。

以上が、私の立てる「帰れる居場所が多い人は、自分らしく生きることができる」という仮説についての説明だ。

私は、この仮説に基づき、人々が帰れる居場所をもっと持てるようになれば、心に余裕を持てる人が社会に増え、利己的ではなく利他的な生き方で共助し合える社会実現に近づけると信じている。

しかし、以上の内容は私の経験則でしかなく、私以外の人にとって言えることかわからない。

そこで私は「居場所」をキーワードにして、居場所を複数持つ感覚が人々にどのような影響を与えるのかを、ゆっくり考察していきたい。

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