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天草騒動 「56. 森宗意軒最期の事」

 さて、豊前国小倉城主の小笠原右近将監殿は、同姓備後守殿、同姓匠頭たくみのかみ殿、その他総勢一万八千人余りで一族を引き連れて出陣したものの、今回は攻め口の割り当ての都合で戦場に向かうことができなかった。

 小笠原家にはまだそれほどの功も無く、また、以前、例の山田右衛門の内応の矢文が小笠原家からもたらされて城攻めを失敗したことがあったので、評判がよくなかった。

 右近将監殿はひどく憤怒し、

「わしの祖父の兵部少輔ひょうぶのしょうと父の信濃守の両人は大坂の合戦で討ち死にして武勇を輝かせ、また、弟の大学助だいがくのすけは軍忠を励まして天下の耳目を驚かせた。これによって小笠原家の武名が日本中に轟き、信州松本を転じて豊前小倉を賜り、一家一族を合わせて三十万石を拝領した。家臣にも武勇の者が多くて人々が賞賛していたのに、今回、功を立てられないのは残念至極。

これまでの戦いを振り返ると、鍋島家が出丸に一番乗りした時は細川、黒田、立花三家の陣にさえぎられて進むことができず、大手では一番乗りが細川家で、二番は黒田と立花の両家だった。また、有馬家はそのあとに続いた。この中に入れなかったのは、軍令があったためとはいえ残念ではないか。」と言って、やがて手勢を進軍させた。

 城を見上げると、本城と二の丸は戦いなかばで、天主でうすの旗が風に翻り、黒田、細川両家の軍勢をはじめとして諸軍勢が押し詰め、立錐の余地も無いほどで、双方の鉄砲や矢の鳴る音が大地を震わせていた。

 ところが、東南の方面は、山伝いの道が細々と続いた先に曲輪があって普段は人がいなかったので攻め口にもならなかったが、今見ると大勢が立ち回っている様子だった。

 「これは攻めるのによい。急襲して踏み破れ。」と、小笠原家の面々一万人余りがときの声をあげて攻めかかった。

 ところが一人として応戦してこない。

「さては城中では弾薬が尽き果てて弱っているのだろう。一斉に攻め落とせ。」と、徐々に進んで半ばまで登ったところ、小屋の中から石や材木を投げ落としてきた。

 しかし、石は小石ばかりで材木も細い丸太だったので、人に怪我をさせることも無く、小笠原勢はやすやすと攻め登っていった。

 それも当然のことである。この曲輪は、女子供や老人足弱しかおらず、それも飢え疲れて海草を摘んで食物にしてようやく今日までしのいできた者ばかりで、中にはもはや歩くこともままならない者もいて、たよりないありさまであった。

 この曲輪の物頭ものがしらもり宗意軒そういけんで、一揆の者をわずか三十人ほどしたがえていただけだったので、鉄砲を撃ち出す様子もなかった。

 そんなこととも知らずに攻め登った小笠原勢は不幸であり、また、気の毒であった。

 そのうち、早くも軍勢が八九分ほど山に登ってきたのを見て、森宗意軒は配下の佐原十兵衛と永山平左衛門という者を招き、

「我々の企てもいまだ時至らず、落城は旦夕たんせきに迫っている。おまえたち両人は何とかこの場を落ち延び、我が一念を継いで再び天下を覆してほしい。

先年、由井正雪という者が武者修行の途中でこの島に立ち寄り、わしの弟子になったことがあった。かれは天下をうかがう志を持っていたので、わしが天主でうすの密法をことごとく伝授しておいた。

この正雪は、現在江戸表に上って牛込のあたりに住み、六芸十能の師範という表札を掲げて繁昌していると聞いている。両人は江戸表に赴き、かれに従って本意を達してくれ。」と、言った。

 そして宗意軒は矢立てを取り出して、由井正雪あての手紙をしたため、両人にこれを渡し、「正雪がこれを見れば、おまえたちを必ず重く用いるであろう。早く出立しろ。」と言った。

 そのとたん、両人とも異口同音に、「我々もこの城を枕に御供しようと思っていたのに、今さら落ち延びろとの仰せは納得できません。それではお先に行かせていただきます。」と言って、太刀に手をかけて今にも自害しそうになった。

 宗意軒はこれを押しとどめて、
「おまえたち、早まらないでくれ。今ここで死ぬべき命をながらえ、時期を見てわしの遺恨を果たすのは、今日寄せ手の大将を討ち取る以上の大功だ。また、わしの死後、何よりも供養になるだろう」と道理にしたがって諭したので、両人もどうしようもなく、泣く泣くその場を立ち去って一方を切り破って落ちて行った。

 その後、苦労の末に江戸表に上って由井正雪のもとを訪ねた。そこで宗意軒の手紙を渡し、遺言の趣きを逐一語ったので、正雪も宗意軒の最期を深く悲しんだ。両人には手厚い待遇をし、そのまま内弟子にした。

 その後、慶安四年の正雪の謀反の折、電撃地雷火の役を十兵衛と平左衛門に申し付けた。江戸市中を焼き払う企てをしたのは、この両人であった。

 その後、宗意軒は女子供を諭して、

「今度の一揆は死を覚悟して始めたものだから、これまで命をながえることができたのは幸せの至りである。むなしく敵の手にかかるよりは、火葬になって上天菩薩のうてなに生まれ変わることこそ、この上ない本望であろう。日頃からこの小屋の中にまきをたくさん貯えておいたのはそのためである。」と言って、やがて焼き草に火をつけた。

 老若男女子供らは、日頃から天主でうすこそ尊いものとただひたすらに思い込んでいたので、全員一斉に立ち上がて天主を拝し、真言を唱えながら天草の妻子が火の中に飛び込んだ。それに続いて、遅れまいと一万人余りが我も我もと燃え上がる火炎の中に飛び込み、焼け爛れて死んでいった。

 悲鳴の声も凄まじく、焦熱の苦しみは修羅道が現前したようで、八大地獄もこのようなものかと思われ、目も当てられないありさまであった。

 ああ、因果応報とはいっても、今日はどんな悪日なのか。わずか五六人の浪士の悪だくみから、ものの道理もわきまえない卑賎な女や、里の幼児でいとけなく乳房で眠っている者までが、一瞬のうちに立ち昇る煙の中で消え果ててしまった。天罰というにもあまりに厳しく、哀れというにも言葉では表しようがない。

 こんなこととも知らず、寄せ手の軍勢は口々に、「それ、賊徒らは勢いが尽きて、全員ここに集まって自滅していくぞ。」と罵った。

 仁木勘解由かげゆが下知して、配下の者千人余りが鬨の声をあげて平押しに攻め込んできたのを見て、宗意軒は、

去年きょねん今年こんねんゆめ一傷いっしょう
威名いめい針馬しんましょ損亡ぞんぼう
諸署しょしょ大裏だいりちょう異体いてい
吹作すいさく梅花ばいか天主でうすにおう

という四句の引導を大きく書き、その下に、

摂陽せつよう豊臣関白公の医師森宗意軒そういけん

と書き付けた紙の旗をさっと差し上げさせた。

 そして、自ら大身おおみ長刀なぎなたを水車のように振り回し、一揆二十人ほどをしたがえてどっと押し出し、寄せ手を追い立てた。死を覚悟した者たちだったので、斬っても突いても事ともせずに寄せ手を谷に追い落とした。

 その時、宗意軒が、
「この場所はわし一人に任せてほしい。本城へは近いように見えて遠いので、たとえここが破られても心配はいらない。おまえたちは一人残らず本丸に行って、蘆塚殿の下知を受けて最期の働きをしてくれ。急げ、急げ」と追いやった。

 そして、自分は一人で踏みとどまって小笠原家の軍勢と血戦し、存分に寄せ手を悩ませた末に討ち死にした。

 その後は、賊城には誰も防戦する者もおらず、ただ火炎の中に飛び込んで死ぬ者ばかりだったので、小笠原家の兵士が押し入って分捕りの手柄を立てようとして火炎の中に飛び込もうとしている者たちを引き出し、生け捕ってみると、全員女子供ばかりで手柄になりそうな者は一人もいなかった。

 討ち取った首の数は二千級あまりで、その他の者は焼け死んだため、この場所の一揆の者は一人残らず討ち取ったことになるが、その中に男の首は一つも無く、すべて女の首であった。

 生け捕った者も全員女子だったので、小笠原家の老臣の仁木勘解由が「どうしたことだ。」と尋ねたところ、「この場所は人質曲輪で女子供しかいませんでした。」という返事だった。

 女子供では首帳くびちょうに記すこともできず、「ひとまず全員麓にひきあげてからすぐに本城に攻め込んでこの鬱憤を晴らそう」と思っても道がよくわからなかった。

 討ち取った首のうちで男の首は宗意軒のものだけだったので、「いまいましいことだ」と仁木はひどく立腹したということである。


57. 仁木勘解由、智弁の事

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