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天草騒動 「40. 板倉内膳正殿御立腹の事」

 島原表では、十一月に有馬家の抜け駆けがきっかけになって大敗北を喫したあとは、厳重に軍令を発して城攻めをせず、早くもその年も十二月三十日になった。

 そうしたところ、次の征討使として松平伊豆守殿と戸田左門殿の両将が江戸表から発向して、正月五日には島原に着陣するという知らせが届いた。

 板倉内膳正殿はおおいに憤り、諸大名を集めて仰せになった。

「来たる正月五日に江戸表から松平伊豆守と戸田左門が到着するということである。これは私の不覚で二回に渡って敗北を喫したため加勢を遣わされたものと思われる。また、おのおの方の働きも鈍いと思われているものと推測されるので、諸将も面目丸潰れであろう。

私は、是非とも討死する覚悟を決めた。前回の城攻めは武器が不足していた上に敵をあなどったので敗北を喫したのである。今度は一同決死の覚悟で攻めよ。」

 諸将は、

「総大将の下知ですから誰一人違背致しません。御軍令が有り次第攻めかかります。しかしながら、我々にとっては城攻めをして敵が強くて討ち死にするのは天下への御奉公で武門のならいと覚悟致しておりますが、無理な戦いを好んですることはないようにしたいものです。」と、一様に申し上げた。

 諸侯方も板倉殿の決心をもっともとお思いになったが、英雄を失うことを惜しんでこのように諷諌ふうかんされたのである。

 板倉殿が、「城攻めの日を考えるに、明日は正月元日で敵もきっと油断しているだろう。この時に乗じて不意に攻め寄せれば落城するであろう。」と仰せになったので、諸将は、元日の総攻撃とはどんなものかとお思いになった。

 しかし、総大将の下知なので背けず、寛永十五年正月元日に原城の三回目の攻撃を行うことに決定した。

 大晦日は城攻めの用意でおおわらわとなった。

 そもそも正月元日には、天子が四方拝をおこなって天下太平、国家安全、五穀豊饒の御祈祷をされ、元日二日三日の間は生死存亡の辛労をやめて祝うべき時で、昔から元日に合戦をした例は無い。それなのに、元日の早朝から戦いを始めたりしてどうして天地神祇がお怒りにならないことがあろうか。

 もちろん武門の習いで、今度江戸から征討使が下向され、本陣を退いて他の人に明け渡し、その指揮に従うのは恥辱なので是非とも討ち死にしようと思い詰められた板倉殿の覚悟ももっともだが、年を越しても一揆を平定できないのは天下の不幸で、板倉殿が面目を失うようなことではない。城が落ちないのは、地の利を得ていることと固く守備していることの二つの理由からで、これも板倉殿の罪ではない。それなのに元日に城攻めと一途に決めてしまわれたのは、板倉殿の大きな失策というべきである。

 さて、鍋島信濃守殿は、次男の甲斐守殿が過去二回の城攻めで先頭に立って戦って抜群の働きをしたものの、可愛がっている子のことなので、あまり血気にはやって失敗でもするのではないかと御心配されて、甲斐守殿を本陣に呼び寄せられ、

「その方はこれまでわしの下知に背いて二回とも先陣を切って戦ったのは、結局のところ父や兄を侮りないがしろにする心があるからと見た。今後は後陣を守り、先陣に進むことは決して許さない。もしこれに背けば、父子の縁を切り、七生までも勘当だ。」と申し聞かせた。

 甲斐守殿は普段は孝心の深い性格であったが、このときばかりは、

「仰せの趣きは承知致しましたが、先陣することはやめられません。もし御立腹になって勘当されましたなら、御本陣には伺いません。たとえ賊徒が強いとはいえ、乗りかかった城ですから、一番に攻め落として名を上げたあとにお目通りをお願い致します。それまでは先陣から引っ込むことはできかねます。」と答えられて、もとの陣所にお帰りになった。

 父の信濃守殿は、明日の総攻撃で、またも先頭に立って手傷を負うのではないか、もしも討ち死にしたらどうしようかと、さまざまに心配された。もっともな親子の情であった。

 さて、明日の総攻撃では大筒を使って一気に打ち破れとの下知があり、鍋島甲斐守殿は出丸の麓に宵のうちから手勢を送り、第一番に攻め寄せようと準備した。

 一揆どもは籠城以来天下の軍勢を引き受けてまったく屈する気配もなく、その年も早くも十二月三十日となった。

 夜になって蘆塚忠右衛門が下知して、諸方の虎口に百人づつ兵卒を増やし、油断するなと申し渡した。

 一揆どもが、「もはや敵も恐れて容易には攻め寄せて来ないでしょう。なぜそんなに用心なさるのか」と不審がったので、蘆塚は、
「天文運気を見たところ、明日の元日、城中が油断しているに違いないと考えて寄せ手が一斉に攻め寄せようとはかっていることが察せられた。これは一大事なので、夜回りを厳しくし、万事ぬかりなく行うように」と指図した。蘆塚のすぐれた知謀といえよう。

 夜が明けて寛永十五年正月元日、城内では新春を迎えて年始の祝いをしたあと、蘆塚の下知によってすべての攻め口を固く守り、敵が寄せてくるのを今や遅しと静まり返って待ち受けた。

 このような備えがあるとは夢にも思わず、寄せ手の大軍が攻め寄せた。

 大手では、黒田右衛門佐殿が諸軍を励まして押し登って鉄砲を撃たせたが、城は遥か上の方なので届きかねた。

 また中の手には、立花左近将監殿父子や小笠原家が攻め寄せ、先陣は寺澤と松倉の両家であった。

 また、今回は板倉殿が、「全員楯を前にかざして攻め寄せ、堀端に着いたら竹束を渡して橋にして乗り込め」と厳しく下知されたので、大手の黒田家の軍勢は、早くも城の堀近くに押し寄せた。

 その時、城内ではときの声をあげて旗を押し立て、一斉に貝、かね、太鼓を鳴らして鉄砲を撃ちかけた。山谷が震動し、下に向かって激しく弾が飛んだ。

 寄せ手の大軍は、寺澤と松倉の両家を先陣としていた。

 それに続く黒田家の先鋒の黒田美作みまさかは老巧の将だったので、子息の民部と藤次郎を先頭に立たせて、配下の者どもが皆楯をかざして、死人や手負いを踏み越えて少しも立ち止まらずに平押しに攻め登った。

 寄せ手が賊城に接近して、今にも攻め込むかと見えた時、駒木根八兵衛が考案した棒火矢が十挺ばかり発射された。

 この駒木根は、種ヶ島西上流さいじょうりゅうの祖であった。

 鉄砲は弘治元年に南蛮国から伝わってから、この頃すでに八十年経過していたが、いまだかつて棒火矢という物はなかった。これの作り方は、樫の木を割り、六七尺の長さにして先を尖らせ、桶のように竹の曲輪たがをかけて、当たれば物に突き刺さるようにした棒を三十本ほど筒に入れ、火薬を詰めて石火矢のように打ち出すものである。当たるとその棒が花火のように八方に飛び散り、多数の人を殺傷することができる。

 この棒火矢を撃ちかけたので、多数の雷が一度に落ちたようにその音が山谷に鳴動し、棒は燃えながら四方に飛び散り、それに触れて一瞬のうちに五人十人と打ち倒され、また、無数の者が焼けただれて半死半生になった。

 この棒火矢に寄せ手はおおいに驚き騒いだが、さらに火が楯や竹束に燃え移ったので先頭に立っていた人々はあわてふためいて度を失い、色めきたった。

 そこに再び鉄砲の一斉射撃が行われたので、寺澤、松倉の両勢はたちまちどっと崩れ、右往左往に逃げ回った。これによって黒田と立花の両家の軍勢はなかなか進むことができなくなった。

 城内では、頃合は良い、この機会を逃してはならないと、谷間の道の無い所に屈強の一揆の者を百人余り配置し、松の陰から筒先を揃えてつるべ打ちに撃ちかけた。

 これを見て黒田家の旗本は、「推参な一揆のふるまいよ」と、鉄砲を撃ちながら前進したが、その時、黒田家の先鋒と小笠原家の軍勢が、味方の鬨の声を敵兵がうしろに回ったものと勘違いして、周章狼狽してわれさきに蜘蛛の子を散らすように麓に向かって敗走し始めた。

 この好機を逃さず打ち破れと、城内から百人余りがいつものように大木や大石を投げ落としたので、寄せ手は一歩も進むことができず、先鋒の者たちは全員敗走して退いて行った。


41. 葭田三平討死の事

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