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天草騒動 「39. 松平伊豆守殿島原表に下向の事」

 さて、寄せ手では、二度目の城攻めの経緯を江戸表に注進したところ、江戸表で御家門方、御老中方、若年寄衆が御相談になって、かくなるうえは再び人を選んで征討使として差し向けるべきだということになった。

 そして、その頃天下の知者と呼ばれた松平伊豆守信綱殿と戸田左門氏鉄うじかね殿の両人を召し出され、今度征討使として島原に下向し、板倉内膳正と万事相談して、早く一揆どもを退治致すべしとの上意を伝えた。両人はかしこまって承諾した。

 伊豆守殿が進み出て、

「これまでの注進を承りますと、一揆とはいえ、なかなか手強いように聞こえます。幕府の御威光で取り鎮めるのは容易でございますが、多数の軍勢を失うことになるでしょう。また、日数をかけてもよければ人を損なわないように攻め落とします。どちらであっても、思し召しにしたがって勝ちいくさの報告をさせていただきます。」と、お尋ねになった。

 将軍家が聞こし召し、しばらくお考えになったが、「ただの百姓一揆のために多数の人々を損なうのはこころよくない。日数がたってもよいから、その方の所存通りに計らうべし。」との上意があった。

 伊豆守殿は、「委細かしこまりました。」と申し上げて次の間に下がられた。

 その時、水戸光国公が、「北条安房守氏長は軍学に通じているので、これを一緒に行かせると良いのではないか。」と仰せになった。

 この安房守殿は北条氏直殿の弟で、美濃守氏親の末葉である。もともと軍学に達し、北条流の軍学で将軍家の御師範を勤めており、優れた人物だったので水戸公がお気付きになったのである。

 将軍家にお伺いになったところ、伊豆守が下向することになったうえは安房守を遣わすにはおよばないとの上意で、水戸殿の御意見は取り上げられなかった。

 水戸殿は名将だったのでひどく心をお痛めになり、「この賊徒の退治が遅れると他の騒動が起こるか、あるいは大阪の残党が外国と連絡を取ることも考えられる。急いで攻め落とさないといけない。」と言上した。

 そこでさらに殿中で御評議があって、当時の諸大名の中から武勇の者を選んだ。

 藤堂大学頭だいがくのかみ殿が武勇随一の人であるという話しだったので、殿中に召され、「今、島原の賊徒が騒動を起こしており、速やかに落城させられない場合は大学頭を差し向けるので、このことを心得ておき、用意しておくように。」と申し渡した。

 大学頭殿は慎んで、「かしこまりました。私が向かえばただちに踏み破ってごらんにいれましょう。なぜなら私の家来に臆病未練の者は一人もいないからでございます。」と承諾した。

 それを聞いて水戸宰相殿が、「貴殿の家来に限って勇士ばかりいるのではあるまい。何となく他家を揶揄するようで納得できない言い方だ。どんなつもりで申されたのだ。」とお尋ねになった。

 大学頭殿は、

「今度の一揆では三万人余りの賊徒がたてこもっているとはいえ、百姓どものことでございますから、城兵が強いのは結局のところ土地が険阻であるためと存じます。私が攻めれば、軍勢を増し、大軍で山を崩し、雑人どもを埋め草にして四五万人が一斉に押し登るので、城では材木や石を投げ落として防戦するでしょう。その時、私の軍兵が微塵になったとしても、私さえ踏みとどまれば逃げる者は一人もいません。どうせ死ぬ命なら敵に向かって討ち死にせよと下知して進軍させ、接近戦になれば武士と百姓の戦いですから撫で切りにできましょう。最近天下太平で武士の道を忘れ、土民の一揆などに大名を出陣させて落城させられないのは、天下の恥辱と存じます。」とお答えになって退出された。

 大学頭殿はすぐに領国に急使を送って、「一万五千余人の軍勢を伊勢国関の地蔵前に集めよ。いよいよ発向の際は江戸から馳せ向かうので、前もって用意するように。」との下知を伝えた。

 大学頭殿は武勇を誇って錯乱したように見えるが、天下太平になって自然に武家の権威が衰え、ただの百姓一揆に諸役人方が驚き騒ぐのは甚だ柔弱なことと考え、このように大言を述べて、臆した人の心を引き立てようとしたのである。大学頭殿の優れた知恵というべきである。

 こうして征討使の松平伊豆守殿と戸田左門殿の両家の軍勢、合わせて一万三千人余りが西国へ発向した。また、動静によっては四国の軍勢も差し向けることに決まった。


40. 板倉内膳正殿御立腹の事

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