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天草騒動 「17. 天草玄察表具を仕立てる事」

 羽毛でもたくさん積めば舟を沈め、軽い荷物でも量が多ければ車軸を折るものである。赤星宗範が本心を打ち明けたのをきっかけとして各々胸中を明らかにし、法事の酒を飲んで皆酔いが回ってきた。

 天草玄察が一同に向かって、

「おのおの方とそれがしは、いずれも父祖代々武勇の誉れをあらわした武門の家に生まれた。我々はその子孫なのにこのようなありさまになってしまって、ついには餓死にも及ぼうかという状態になっている。一日でもいいから武勇の誉れを立てたいものだ。どうしたらよいだろう。

皆の素性を聞いて、無念の思いがますますつのってきた。今このように水魚の交わりを結んだからには、禍福を共にし、まことの友として、これからますます隔意なくいたそう」と言った。

 甚兵衛をはじめとして皆、この言葉を聞いておおいに喜び合った。

 その時、蘆塚が、

「おのおの方の心の内はつねづね承知致しておるゆえ、自分の腹のうちを話しました。しかし、壁に耳が有り、石が物を言う世の中ですから、はかりごとは密かに行った方がよいでしょう。今後は、釣り人のなりをして、小舟で人の住んでいない小島に行って内談しましょう。さいわい、それがしは舟を操ることができるので船頭を頼む必要がありません」と言い出した。

 赤星はおおいに喜び、

「兵書でも、人が窮するときは死を覚悟して乱をなすという。しょせん、いつまでも時節を待っていても命数には限りがあろう。大義を企てて志を天下にあらわそうではないか。ぐずぐずしていないで、明日すぐに相談しよう」と言った。

 いずれもそれに同意し、翌日集まることを約束して連れだって帰って行った。

 さて翌日、皆で小舟に乗って、ある小島に漕ぎ寄せた。そして岩の上から釣竿を下ろし、一か所に集まって相談した。

 まず赤星が、

「それがしが常々考えるに、この島の領主の先代の寺澤志摩守は武勇にすぐれ、政道も正しく、民百姓もよくなついて裕福に暮らしていたのに、今の兵庫頭は政道がことのほか乱れている。年貢のほかにも民に労役を課し、財宝をむさぼり、さまざまな悪政を行っているので、百姓どもははなはだ難渋して領主を恨み役人を憎んでいる。特に、今年はどの国も不作で飢饉になりそうだ。

この機に乗じて百姓どもを煽動して一揆を起こさせ、我々は運を天に任せて先祖の武名をあらわして戦えば、志を遂げることもできよう。もしも武運つたなく討死するとしても、それはもとより覚悟の上」と、言った。

 その言葉を聞いて蘆塚は、

「それはよい思い付き。幸いこのあたりは種ヶ島が最初に伝わった所なので、百姓どもが鉄砲に熟達していて鹿や猿を撃っている。また、そのほかに猟師もたくさんいる。彼らを煽動して徒党を組ませ、一揆を起こさせようではないか」と、談合した。

 浪人等が談合した島なので、この島は、現在、談合島と呼ばれている。

 蘆塚はさらに工夫をめぐらし、

「以前、異国から切支丹という宗門が伝わって諸国に広まり、中でも西国で盛んになり、この島の者どももその宗門を信じている。当時は法度が厳しかったため多くの者は表向き改宗したが、内心ではまだ信仰を続けている。

さいわい、私と以前朋輩だった森宗意軒がこの島にいて切支丹宗を信仰しているので、彼を先導にして切支丹宗の不思議を現出し、愚民どもの心を惑わし、弁舌をもって引き入れようではないか。さすれば早くことがまとまるであろう」と、言った。

 ほかの者たちも、「それはよい。われわれもその宗門を信じていたことがある」と同意した。こうして、相談は数刻におよんだ。

 それより以前、大久保重兵衛という者がいた。

 もともと八官という唐人の子孫であったが、才知に優れた者で、どんどん出世して名を石見守と改め、録高三万石を領して公儀の勘定方の元締として佐渡の金山奉行を兼務していた。ところがそれをよいことに私腹を肥やして金銀財宝を着服していた。病死した後にそれらの悪事が発覚し、事実が糾明されて、その財産が没収されることになった。

 屋敷を取り壊す際、物置の床下から石櫃が掘り出された。その中に黒塗の箱があったのを吟味したところ、唐土や西洋諸国の王に日本の宝物を送って代わりにそれらの国の珍しい宝物を受け取ったり、耶蘇宗門で人をてなずけて最終的には日本を奪い取ろうという企てを記した往復書簡などが露見した。そのため、一族は子供たちまで残らず処刑された。

 その後、耶蘇宗は厳しく御制禁されたが、遠国には行き届かず、しばしばこれを学ぶ者があった。

 耶蘇宗は何よりも人が喜ぶ金銀を与えるので、密かに信仰する者が絶えず、とりわけ肥前国は異国に近かったので信者が多かった。

 中でも、天草大江村の庄屋の治兵衛という者は先祖からの大百姓で家が富んでいて召使いの男女をたくさん使っていたが、先年、伊留満いるまんに勧められて切支丹宗を信仰するようになった。当時は御禁制になっていたのでうわべは改宗したと見せかけていたが、内々では熱心に信仰していた。

 この治兵衛の養子は、もと大久保石見守の小姓で下河辺しもこうべ新八と称していた者である。

 新八は、若年ながら至って賢い者で、石見守の密事に関わっていたが、石見守が病死したあと大望が露見するであろうことを事前に察知し、唐土から渡って来た宝玉と金銀を奪って駆け落ちした。

 新八はその後、事が発覚して石見守の子供はもちろん家来までみな処刑されたことを聞いて、身の置きどころもなく九州まで逃げて天草に到り、旅人のふりをして庄屋の治兵衛の家を訪れて二三日逗留した。

 その際、家の主人が切支丹を信仰している様子を見て、これはうってつけと心の中で喜び、かの唐土の宝玉を出して主人に拝ませ、「死後生天しごしょうてん破羅韋僧はらいそ雲善守麿うんぜんしゅまろ」と、唱えた。

 それを聞いて、主人は新八を人気ひとけの無い部屋に呼び、密かに、「あなた様は人品じんぴん骨柄こつがら凡人とは見えず、名のある方と思いますが、御禁制の経文をお唱えになるのは不審です」と、尋ねた。

 新八は、

「それがしはもと武家に仕えていましたが、主人が切支丹宗を信じていたために御家は没落しました。それがしも主人の申し付けに従ってその宗門を信じていますが、天下の御法度なのでどうしようもなく思っていました。

九州では内々に信仰している人々がいるという噂を聞いていましたが、ある夜不思議にも天帝の霊夢を見、『九州に下れ』との天帝の御言葉に従って、このたびこの地に来たところ、あなたのお世話になりました。その謝礼としてこの舶来の宝玉を拝ませてさしあげたのです」と、語った。

 治兵衛はそれを聞いておおいに驚き、それ以後新八を信用して自分の家にとどめおいてさまざまにもてなした。

 治兵衛には男の子が無く、女子が二人いた。新八はもともと好色で、いつの間にか姉の方と密通したので、治兵衛は幸いと思って新八を婿養子にした。

 浪人らの談合で、新八は小才のある者だから、これも仲間に引き入れたらどうかという話になった。

 天草玄察は甚兵衛、治兵衛の両人と親しかったので、「それはよい、私に任せてくだされ」と言って、それ以後、治兵衛の家にたびたび行って新八と親しくなり、そのうち身の上も話し合うようになった。

 ある時、新八が、「治兵衛の養子になったのはさしあたり幸せではあるが、武門に生まれながら生涯埋もれて死ぬのも残念です。」と洩らしたので、玄察が密かに心の内を語ったところ、すぐに一味に加わり、赤星宗範と相談して、まず耶蘇宗を使って人々を欺いて仲間に引き入れることになった。

 その頃、治兵衛は耶蘇本尊の像を一幅持っていて大事に秘蔵していたが、表具が大破していたのに切支丹が厳しく御制禁になっていたので修復することができず、常々それを嘆いていた。

 そこで、治兵衛の留守を窺って、新八が紙でその掛け軸の寸法をとって玄察に渡した。

 赤星は糊細工に熟達していたので、かねて用意しておいた錦のきれで仮表具を仕立てておいて、玄察の家に治兵衛を招いた。

 その留守に新八はその掛け軸を取り出して赤星の家に持って行き、あらかじめ仕立てておいた仮表具で表装して、その夜のうちに元の場所に掛けておいた。

 家の者はこの密事を、誰も気付かなかった。

 翌朝、治兵衛はいつものとおり仏壇に向かって拝む時に掛け軸を見ると、これは不思議、日頃信仰している本尊の掛け軸がきれいに表具しなおして掛けてあった。

 おおいに驚き、生まれつき律儀な者だったので謀計とは夢にも思わず、もしかすると見間違いではないかと考えてよくよく手に取って調べてみた。

 すると、その掛け軸は錦のきれで拵えてあり、裏に四句の文字が書き付けてあった。これはどうしたことかと不審ではあったが、かねての願いが成就して大いに喜んで、新八を呼んでその掛け軸を見せた。

 新八も一緒に喜ぶふりをして、
「信心が天に通じて、本尊が自然に表具をし直されたのでしょう。これはひとえに宗旨がさかんになるべき時節が到来したしるしと存じますから、この上はもはや隠すにおよびません。家の中の男女や近所の者たちにも拝ませてやりましょう。」と、言った。

 それを聞いて治兵衛がうなずいたところに玄察と甚兵衛が来て、ことの次第を聞いて、これまた驚いたふりをしてまず画像を拝み、玄察が、「このような不思議が起こるからは、凡夫のわざではあるまい」と言いながら、うやうやしくその掛け軸をはずした。

 裏を見るとそこに四句の文があり、「夕日雲輝くもかがやき夏日かじつ波紅なみくれない天帝宗てんていしゅうさかんに藤花とうか開時ひらくとき」と書かれていた。

 おりから夕日が輝いて海の水も紅に見え、また、治兵衛の庭には能仙蔓のぜんかずらの花が咲いていた。天草島でこれまでこの花が咲いたことは無かった。珍しい花が咲いたと人々が見物してあれこれ言っているのに対して、玄察がこの四句の文をいちいち説明して耶蘇が流行する前兆であることを言い聞かせた。

 これを伝え聞いた天草島の人々は、「宗旨が盛んになる前兆だ、このような不思議をあらわし給うのはありがたいことだ」と、次々と治兵衛の家に来て本尊を拝み、御法度も忘れて、皆、切支丹宗を崇敬した。


→  18. 富岡の士不覚の事

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