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天草騒動 「43. 松平伊豆守殿戸田左門殿島原着陣の事」

 さて、松平伊豆守殿と戸田左門殿は二万人余りを率いて道中油断無く下向されたが、大軍だったためなかなか進軍がはかどらず、正月元日になってようやく豊後府内に着き、そこから進んで同月五日に島原の高久城に到着した。

 伊豆守殿は、寺澤・松倉両家の責任は城を落とすまでに糾明すればよいとして、特に問いたださず、「合戦を好むのは労して功の少ない事だ。すべて戦いは百戦百勝の策を用いるべきである。」と仰せになった。

 伊豆守殿は、人々が秀才と賞賛するので、自然と策におぼれて、自分がひとたび攻め寄せればたちまち落城するだろうとお思いになったのであろうか。

 伊豆守殿は諸将を集めて法令を出し、兵糧を点検し、何か考えがありそうな様子で、ことに利口な人であるという評判だったので人々はどんな策があるかと期待していた。

 以前、一揆の首領の四郎大夫の父母が細川の手に生け捕りにされ、長岡監物が尋問したことがあったが、伊豆守殿が何か問いただすことでもあるのではないかと、陣中に召し連れて来た。

 すると伊豆守殿は、「急いで尋問したいことがある」と言って、四郎の父の小左衛門と、老母、妻の三人を白洲に召し出された。伊豆守殿をはじめ諸侯、諸役人が残らず尋問の場に出席した。

 伊豆守殿が小左衛門に、
「汝のせがれの四郎は、今度の逆賊一揆の首領になっていると聞いている。その子細を詳しく知っているであろう。耶蘇宗門の信仰についてはどうか。ほかに気付いたことはあるか。四郎は今年で何歳か。明白に申せ。」とお尋ねになった。

 小左衛門は頭を上げて、
「私は代々浄土宗でございますので、決して切支丹宗は信仰致しておりません。また、特に欲心もございません。一揆の発端は天草から始まり、せがれは伯父の甚兵衛という者に勧められてこのたびの一揆の大将になりました。年齢は十七歳でございます。そのほかには申し上げることはございません。」と言ったきり目を閉じて黙り込んでしまった。

 小左衛門の老母は八十歳にもなっており、自分の子供夫婦が縄に縛られ、自分自身もきつく縛られて、消え入るばかりに嘆いていた。

 このままではとても白状すまいと考えて、老母と妻の縄を解かせてから、伊豆守殿が仰せになった。

「汝のせがれはまだ若いのにこのたび賊の首領になったのは、大胆このうえなく不届き千万である。しかしながら、まだ若輩者で深い考えがあるわけではあるまいから、すぐに降参すれば親子三人の命を助け、元の里に帰して代々の領地を治めさせよう。城中の者どもにかまわず四郎一人で城を出るように書状を一通したためよ。こちらから矢文で城内に送ろう。」

 それを聞いて四郎の母はおおいに喜び、「何とありがたい。さっそく書状をしたためましょう」と、筆と紙を持ってくるように頼んだ。

 伊豆守殿は、「それはよい心がけだ」と仰せになった。

 その時、小左衛門が突然立ち上がって、

「何と未練至極な女だ。おまえは知らないのか。城中の者たちは四郎をはじめとして、全員、死を覚悟して立てこもっているのに、どうしてそのような浅はかなことをしようとするのだ。我が子の手前、恥ずかしい。七人の子をなしても女には心を許すなとはよく言ったものだ。たとえ降参しても命が助かるはずがない。何と心がけの悪い女だ」と、妻を睨めつけて言った。

 しかし妻は少しも恐れず、微笑みながら、
「あなたは男だからどこまでも義を立てなさるがよい。たとえあなたが死んでも、老母とわが子の命さえ助かれば、再び幸せに暮らせることもありましょう」と言って、手紙を書き上げ、厳重に封をして差し出した。そして、
「この手紙をよく読めば、四郎はすぐに城を出て降参するでしょう。早くお送りください。」と言った。

 伊豆殿は、「よくぞ申した。その手紙の中を改めてから送ることにする。読んでみよ」と、仰せになった。

 役人が「はっ」と答えて封を切って読み上げたが、その手紙は文も手跡も見事なものであった。


 日頃は不真面目な息子と思っていましたが、今は逃れる術もなく寄せ手を大勢引き受けられていると聞きました。この上は、伯父の甚兵衛殿とよく話し合い、覚悟を決めて人々を諌めなさい。

 私はまだ生きながらえていますが、最後にはあなたと同じ道におもむいて、冥途めいど黄泉こうせんで対面できるでしょう。親子は一世の縁といいますが、どうしてそのようなことがありましょうか。ただただ一蓮托生を願っています。

 賊の中にあっても大将に立てられたことは、親の身にとってひとしお喜ばしく、ただ潔い最期を遂げることを祈っています。決して死に遅れないように。かしこ。

正月 日



 このように深い心を封じ込めてしたためてあったので、伊豆殿をはじめとして人々は、「何と女には珍しい立派な心がけだろうか。この手紙を読めば都の女も恥じ入るであろう」と、しばらく言葉もなく感嘆した。

 やがて伊豆守殿が、「汝らは耶蘇宗門を嫌いながら、なぜ自分の子に意見せず、一揆を企てさせ、そのうえ首領にさせたのだ。」とお尋ねになった。

 それに答えて妻は、

「これは殿様の仰せとも思われません。私は賎しいものではありますが、田畑や山を受け継いで、代々金銀にも不足はありません。それなのに、どうして一人の愛し子を悪い道に進ませ、天の道に背いて一揆などの大将になれと勧める親がありましょうか。

たとえこもをかぶって寝て、露や霜を避けることができない境遇になったとしても、親と子が同じ場所にいられることを喜ぶのが浮世の人の心というものです。

ところがわが子の四郎はいつの頃からか、天草に住む伯父の甚兵衛の友人の蘆塚、大矢野、千々輪、赤星という人々とつき合って、武芸の修行に明け暮れ、密かに何かたくらんでいるという噂が伝わってきましたので、わが子に色々と意見して、何の不足もないのだから家にいて心のままに遊んでいてほしい、つまらないことをしでかして父母の心を悩ませないでほしいと、常々諌めておりました。

まだ若年なので耶蘇宗などに入るとは思えず、また、つきあっている浪人も元は武士だったそうだから悪事は働かないだろうと思って、わが子と親しい四五人の浪人を厚くもてなしたこともありました。

その後しばらくは浪人達とつき合っている様子もありませんでしたが、思いがけず今度の一揆に加わって、わが子ながら四五万の人々の大将になったということを聞き、たとえ天の道に逆らう事とはいっても、まことにめでたいことです。

そのうえ、あちこちの合戦で勝利をおさめたという噂ですので、今後もしも運が無くて万一討ち死にするとしても思い残すことはないでしょう。このうえは、誓いを交わした人々と一緒に潔く生死を共にするようにと祈っております。

そうは言っても、月や花よりも愛しいたった一人のわが子、特に、生まれつき賢いと人々に讃えられていた息子に、早く死ねと勧める母の心を察してください。皆さん。」と、涙ながらに言って泣きくずれた。

 親子の情はこのようなものだと、それを聞いた人々も涙を流した。

 さすがに勇猛な伊豆殿も哀れに思われ、「つまらない者を引き出して、猛々しい武士の意気を挫いてしまった。われながらつたないことをしてしまった。」と言って、元の牢に帰らせることにした。

 伊豆守殿が、「下郎ではあるが、彼らは重要な囚人めしうどである。粗忽なことはしないようにこころがけよ。」と仰せになったので、細川殿の家臣が連れて行こうとした。

 すると突然、女が、少し待ってほしいと言って、

「伊豆守様の評判は、天下の御老中で、日本無双の知者でいらっしゃると、このような国の端でまで聞こえていましたが、聞くと見るとは大違い。あなた様の領地を四郎に治めさせれば、これ以上の者はいないでしょう。

今、殿様が下郎と仰せになったことがひどく心に引っかかりました。

私の親は、天草の甚大夫といい、その昔、安芸の国の中村の城主だった阿曾沼氏、中務大輔七代の嫡流ながら、時を得ず四代このかた天草島で浪々の身になっています。人々から敬われており、今は天草という苗字を名乗っていますが、姓はもともとはた氏でございます。昔から武門の盛衰は珍しいことではありませんが、私の夫の渡邊氏は、もとは肥前の平戸に住んでいた、姓はみなもと、名は源大夫と申す者です。

四郎の父母はこのように氏も系図も正しいのに、どうして下郎でございましょうか。賎しめないでください。

四郎は今度四万人余りの棟梁となって原城にたてこもり、九州の諸侯はもちろんそのほかの国の大名までもが数万の軍勢で攻めたのに、寄せ手は毎回敗北されていると聞きました。特に、大将の板倉殿はとうとう討死されました。

人の恥より自分の恥をお考えください。城攻めの策が無く、一人の女をなだめすかして四郎を生け捕りにしようなどとは愚かな計略でございます。

『わが子は賎しい下郎です、あなた様がたのような上郎が敗北されて、ああおかしい』とでも言えば女のはしたない悪口と思われることでしょうが、わが子の四郎を下郎匹夫と卑しめたお言葉こそ腹立たしい。」と、大音声で罵った。

 無礼というにも余りある罵りようであった。伊豆守殿はその場を取り繕うために、ただ笑うばかりであった。

 一同、言葉もなく、咎め立てなどしたらさらにどんな悪口を言われるかわからないので、ただ穏便に細川家に預けて全員退散した。


44. 松平伊豆守釣井楼の事

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