見出し画像

【4REAL】浅倉透 (または『海へ出るつもりじゃなかったし』についての怪文書)

2021年元日。
年明け早々に公開された「アイドルマスターシャイニーカラーズ」の新たなイベントストーリー『海へ出るつもりじゃなかったし』を読みました。

言いたいことや思ったことは山ほど、海に棲む微生物の数ほどありますが、やはり浅倉透のモノローグの内容はノクチルを推す者として今イベントストーリーの中でも最も衝撃的な要素だったと言わざるを得ません。

年明けの瞬間、作中の言い方を借りれば「0時0分00000秒」にジャンプをすると「ほんとの世界になる」という結果がもたらされると、浅倉透は考えていた。

「ほんとの世界」とは何か、それは彼女以外に知る者はいませんが(もしかすると彼女自身も具体的には知らないかもしれない)、その言葉からは、浅倉透という少女は自分の実際に生きている世界を現状では「ほんとの世界」だと感じていないということが分かります。

飽くまで推察の域を出ない一個人の意見ですが、おそらくその感覚は、人が10代という季節を生きている間のみ感じ得る「不足感」つまりは「早く大人になりたい」「自分の力だけで生きたい」「今はまだ不可能な色々なことを叶えたい」という欲求に由来するものなのではないでしょうか。

思えば、浅倉透は映画を観るのが好きで、今イベントではどうやら眠ること延いては「夢を見ること」も好んでいるらしいということも明らかになりました。(ノクチル関連のイベントをすべて視聴しているわけでもないことに加えて、記憶力にはまるで自信がないので、眠るのが好きという特性が今回初出かどうかについては確信が持てませんが……)

つまり、浅倉透はフィクションを愛しているわけです。ともすると、現実世界より幾許か余計に。

件の「ほんとの世界になる」というモノローグも、筆者は不勉強なので残念ながら未読ですが、アーサー・ランサムなる作家の作品と絡めているようでした。ここまで考えていくと、結論として、浅倉透はフィクションで描かれる世界を「ほんとの世界」と認識しているのかもしれないという予測が立ちます。

ただし、それは何も彼女が現実から逃避してフィクションこそ真理だと考える夢見がちな少女だということではありません。フィクションの世界そのものを「ほんと」と思うほど厭世的な人間であると断定しようものなら、恐らく彼女のことを推す全ての人が筆者を非難するでしょう。というか私がするわ。透はそんな子じゃない。絶対。

大仰な表現で申し訳ありませんが、言わば、彼女が愛するフィクションの「ほんと」とは、人間の、世界の「美しさ」なのだと思います。古今東西あらゆるフィクションが、どれだけ露悪的な作品だとしても例外なく、力いっぱい描き出そうとしている「美」そのもの。

岡本太郎という芸術家はかつて自著内で「きれいなものだけが美しいのではない。醜悪美という美しさもまた存在する」というような意見を述べています。

もちろん、感動的なハッピーエンドに至る物語が持つ、誰しも幸福な気分になるような、人間や世界が元来持つストレートな美しさも素晴らしい物です。というか、むしろそれこそ他に代え難い最高の「美」であり「ほんと」でしょう。

しかし、それだけでは救われないこともある。まっすぐ正直な美しさが、どうしても取りこぼしてしまう巨大な絶望というのは、絶対に存在する。絶望という言い方が当てはまらないとすれば、孤独や、単純に悲しみと言い換えても良いかもしれない。

そういった物を救い得る種類の美が、きっと「醜悪美」という物なのだと筆者は考えています。一口には言えませんが、カウンターやパンク、アンチテーゼといった概念のような。

何を言いたかったのか自分でもよく分からなくなってきましたが、とにかく、今イベント『海へ出るつもりじゃなかったし』に筆者は救われたということを表明したかったような気がします。浅倉透という少女が、もしかすると自分は「ほんとの世界」にいないと感じているらしいということが、大きな救いになったということを。

また後日追記する可能性は大いにありますが、この辺りで一旦この文章を終わりにしたいと思います。ここまで読んでくれた方がいるか分かりませんが、もしいたとしたら、ありがとうございました。あと、愛してるぞ高山…………ァッッッッッッッ!!!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?