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短編小説『天使回路』

 あんまり遠くに行くなよ、って言ったその時に感じた気持ち。子供が出来たらこんな感じかな、というか、彼女ってものが出来たらこんな感じなのかな、というか、とにかくあの時に僕は生まれ、同時に死んだのだ。
 夕日に染まるゴミ処理場、紛れもなく苦悩に満ちた現世の一部で、僕たちは生きながらにして死んでいた。
「おかえり」
 真っ黒に全身汚して戻ってきた彼女の姿に、僕は救われる。彼女は天使なのだ。あまねく人々の苦痛を全てその身に受け止め、こんなにも汚れてしまう。実際のところはというと、ただ汚い場所ではしゃいだせいで汚くなってしまっているだけなのだが。
「サクちゃん、これあげる」
「ん? なにこれ」
「ええっ! サクちゃん、分かんないの!?」
「いや、え、待って、考えるね」
 な、なんだろうか、これは。彼女が大事そうに手渡してくれたのは、何かの部品のようなものだった。歯車のようだが、よく見ると違う。エッシャーの錯視を思わせる複雑な構造ながら、角砂糖ほどの大きさしかない。
「時間切れー! もう、サクちゃんはやっぱり馬鹿だね」
「いや、分かんないって。何、何なのこれ」
「ゆーびーわー! けっこんゆびわー! サクちゃんと僕のふーふのしょーこなの!」
 あー! これかー! これですか全国の娘をお持ちのお父さんの方々ー! 愛娘に大きくなったらお父さんと結婚するって言われた時の心境ってこれですかー!? とニマニマするばかりで返事が出来ないでいる僕を置いて、彼女はぷりぷりしながらまたどこかへ消えていきそうになった。途端にハッとして腕をつかんだ。
「あっ……その、大丈夫?」
「なーにがぁ? もう、サクちゃん馬鹿だからいいよ! サクちゃんこそ大丈夫? お勉強とか。一杯勉強しないとホームレスになるんだよ」
「う……うるさいよ! なんだよう、知らないぞ、せっかく人が心配してやったのに」
「いいもーん、ヒロは何にも大丈夫だもーん」
 何にも大丈夫、という絶妙に不安を煽る言い回しが、そのあとに続いて「じゃない」と、「何にも大丈夫じゃない」という気持ちがどこかにあるのではと勘繰ってしまい、とても不吉なものに思えた。だが、そんな風に考えてしまうのも仕方が無いのだ。だって、彼女は両親に虐待されているのだから。
 初めて彼女と会ったのは、まさにこの場所だった。僕だけの秘密の場所だと思っていたが、彼女もまたここを自分だけの特別な空間としてなかなか長い期間使ってきていたらしかった。最初のうちは露骨に敵視されていて、殴りかからんばかりの威嚇っぷりだった。だが僕とて他に行くアテもないのでさりげなく居座り続けていると、自然に僕たちはぽつぽつと話すようになり、仲良くなっていった。一度そうなってからは加速度をつけて何足か飛びで疑似親子のような現在の関係に至った。ただ一ついびつな点を挙げるとするなら、彼女は僕より年上であるということだ。現在十四歳の僕からすれば彼女はもうすでにおばさんと言っても差し支えない年齢に達しているように見えた。たぶん二十代も後半に差し掛かっているだろう。喋らなければ、そして小さな子供のようにはしゃいだりせず、じっと大人しくしていたなら彼女は普通の美人なお姉さんにしか見えないはずだ。だからこそ、そうでない彼女はとびきり変わっていて、誰よりも特別だった。大人ではないが、子供でもない。彼女は彼女以外の何物でもない。
「今何時!?」
 彼女は焦って僕に訊く。僕は腕時計を見て四時四十五分だと答える。「またね!?」と言いながら去る彼女を僕は笑顔で見送る。夕方五時。まるで小学校低学年のようなその時間が門限なのだった。彼女の両親があの人、いや、あの子をどう思っているのかがよくわかる。その人たちにとって、彼女は永遠に幼い子供なのだ。いつまでも成長しない、年を取らない、大人になることが無い永遠の子供。彼女の、子供の言葉でしか語られないので全体を把握するのには時間がかかったが、彼女が受けている虐待は嘘だと信じたいものばかりだった。法に訴える、信頼できる誰かに話す、それも考えた。ただそうしたとき僕たちはどうなるのだろう。今のように会っていられるのだろうか。僕にはとてもそうは思えなかった。学校をサボってここに来る。会えるのはその時だけ。だから、保護されるか何かしたら、彼女に会うことはもう二度と出来なくなってしまうように思った。それは絶対に嫌だった。僕はそんな自分本位な理由で、彼女を守らないことを誓ったのだ。両親にされるがままでいてもらえば、僕は彼女と会っていられる。だがそんな脆い逃亡生活のような日々がずっと続くわけはなかった。

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6,157字

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