短編小説『余花迷宮』

 灯篭がトンネルの中をぼんやりと照らしている。まるで大水の後のように地面はうっすら湿り、両端には小さな流れさえ出来ていた。壁は苔生し、蔦が全体を覆うように走っている。そして白い花。永遠に続いているかのような道の途中、ところどころに白い花が咲いている。近づいてよく見てみると、花弁だけでなく芯の部分や茎まで真っ白なのが分かる。だが決して枯れてしまっているのではなく、みずみずしい生命がそこに確かに宿っているのだろうことは明らかだった。
 自分の名を呼ぶ声が後ろから微かに聞こえた。なかなか戻ってこないことに痺れを切らして追いかけてきたのだろう。でも今は彼女には会いたくない。僕は少し歩く速度を早めた。その時、カーブの向こうに人影が消えていくのが見えた。ぱしゃ、ぱしゃ、という水気の多い足音も続けて届いてくる。こっちにおいで、と誘っているかのようだった。
 どれだけ歩いても足音に追いつくことが出来ないのが不思議だった。そもそもこのトンネルはそんなに長くは無かったはず。もうとっくに外へ出ていてもいい頃なのに、灯篭はいつまでも薄暗い通路の案内役を担ったままだ。さすがに疲れてきた。次のカーブでまだあの人影に追いつけなかったら潔く入り口まで戻ろう、そして謝ろう、そう決めて僕はきっとかんかんに怒っているであろう愛すべき追跡者の顔を思い浮かべながら進んだ。
 ちょうど最後のカーブを曲がりきったところで、ぱしゃん、と音がしたかと思うと顔に水がかけられた。手で拭って、思わず閉じてしまった目を開いた時、目の前には少女の姿があった。
 間違えようがない。そこにいたのは、今日僕が億劫がる恋人を連れてこんな山奥まで来る理由を作ったまさにその人だった。会うのは六年ぶりだというのに、印象はあの頃と全く変わっていない。目にかかる長い前髪の奥から優しい目で僕を見る。制服のスカートは膝より下まで伸ばされていて、行儀が良いはずなのに却って不良のように見えてしまう。
 僕たちは確かにこの人に会うためにここまで来た。ただ、その目的は本来ならついさっき果たされたはずだった。冷たい石の造形物。「小高家之墓」と刻まれたそれを水で洗って花を挿し、線香を立てて手を合わせてきたところなのだ。恋人は道中ずっと不満気だったが、車を降りてから大量の蚊に刺されたことでいよいよ本格的にヒステリーを起こした。僕もお世話になった先輩の前でそんな態度を取られたことでついカッとなってしまい、墓地からかなり距離のあるこんなところまで来てしまったのである。
「よう」
 先輩はそう言って少し頭を振り、髪を横へ流す。よく見えるようになった顔はやはり昔のまま、あの頃の先輩そのものだった。
「小高先輩……ですよね?」
「そうですね、私は小高先輩ですね。みんな大好き小高ひよりさんです」
「うわ、やっぱり先輩だ」
「うわってなんだよ、幽霊じゃあるまいし」
「え、違うんすか!?」
「……傷つくなー。有坂ってそんな失礼なやつだったっけ」
 先輩は六年前、高校三年生の秋に自宅で大量の薬を飲んで自殺した。受験目前ということもあり、その事実はしばらく演劇部の外へは伏せられていた。僕にとっては自分の演技を生まれて初めて褒めてくれた人、部にとってはそのあっけらかんとしたキャラクターで周囲を楽しませてくれるムードメーカーのような存在だった。そんな彼女の死がその後どういう風に受け取られていったのかを僕はあまりよく知らない。少しの活動停止期間を終えて、演劇部の三年生は最後の大会を前に全員が引退し、後輩たちも時折何人かが顔を見せることはあったが、先導してくれていた先輩たちが何の音沙汰もなく消えてしまったことでごく自然に空中分解してしまったからだ。どうして小高先輩は死を選んだのか、僕はずっと知らないまま、常に心のどこかにそのことが引っかかったままだった。
「みんなもうとっくに集まってるよ。有坂がダントツでビリ」
「みんな……というと?」
「演劇部のみんな。なにしてたんだよお前。すぐ来るって言ったくせに」
 先輩は眉間に皺を寄せながら笑った。困った後輩だ、とでも言いたげに。そして少し先を歩きはじめる。先輩を追うようにして足を動かすと、永遠とも思えたトンネルは呆気なく終わった。
 そこに広がっていたのは夏祭りの宵だった。雨上がりのようで道路は柔らかく濡れている。ガードレールにもたれる男女はどちらも浴衣姿。手に金魚の入った袋を持った子供が走って僕を追い越していく。奥には懐かしいオレンジ色の灯りが見え、屋台が連なっているのが分かった。その手前には鳥居があり、そちらの方へ進んでいけば地元にいた頃よく訪れた神社があるのであろうことは疑う余地がない。呆然としている僕を見て先輩は踵を返す。顔の前で手を叩き「大丈夫か?」と訊いてきた。返事をすると同時に花火が上がったせいで僕の声はかき消されてしまった。紫陽花のような赤と青の丸い光と、蒲公英にも似た黄色い光が次々に夜空に打ちあがる。
「やっば、もう花火始まっちゃったじゃん。ほら、急ごう!」
 走り出した先輩を見失わないように僕も走った。そうだ、小高先輩はとても足が速かった。体力づくりのための走り込みでいつも先頭を部長である川島先輩と争っていた。夜店の人波を器用に縫っていく先輩に追随するのは至難の業だった。集合場所だという河原へ着くころにはすっかり息が上がっていて、先輩はそんな僕を見て笑った。
「まだまだだなー有坂ー。ちゃんと毎日筋トレしてるー?」
「……して、ますよ……」
「ははは、死にかけじゃん、なっさけねー。こないだの大会でも最後の方めっちゃバテてたし、有坂の当面の課題は体力づくりだな」
「精進……します……」
「おーう、がんばれー。……それで、あー、あれ?」
「いないっすね……誰も……」
「うん……」
 とっくに集まっているという部の面々の姿はどこにも無かった。先輩が買ってきてくれたラムネで一息つき、祭りの会場中を一時間ほど探し回ってもとうとう誰の姿も見つけることは出来なかった。
「ちょっと電話してみてくんない?」
「先輩がすればいいのでは」
「私、なんか……ほら、つながらない」
 先輩が見せてきた携帯は確かに圏外になっている。しかし驚いたのはそれがガラケーだったことだ。確かにあの頃はまだスマホとガラケーは学校内でも半々の割合で存在していた。そして先輩はガラケー派だった。二つ折りの携帯が閉じられるパコン、という音は思いがけず懐かしさを呼び起こしてきて危うく僕は泣きそうになってしまった。気づかれるのが恥ずかしくて僕はもう長いことかけていなかった部長の番号へコールした。「おかけになった番号は現在使われておりません」との音声がすぐに流れた。
「あーほんとだつながらないっすねー山奥だもんなここー!」
 やけくそまじりに言い放つと先輩はビクッと震えてあとずさった。すかさず謝罪したら「とりあえず花火見るか」と言って川べりの斜面に座り、自分の隣をぽんぽんと手で叩く。
 小高先輩と並んで花火を見上げる。あるはずの無かった未来に今、僕はいる。じろじろと見てしまっていると、先輩は「花火を見ろ」とそこそこ真面目な雰囲気で怒ってきた。こういう純粋な感動が役者には大切なんだ、とお小言を喰らってしまう。
「恋バナでもするか」
「……へぇっ!?」
 何尺か分からないけどまあまあデカい尺の玉が上がり、プログラムもそろそろ佳境にさしかかったらしいところで急に先輩があらぬことを口走ったので声が盛大に裏返った。そしてそのままむせるのが止まらなくなる。
「今日の有坂、すっげえ失礼」
「いや……だって卑怯っすもん、こいばっ……あははははは」
「殺そっかなー」
「……すいません、でも、あははっ……あー、すいませんほんとに、ごめんなさい。……恋、してるんですか」
「おかしいかな」
 先輩は頭を掻いてそう言うと、笑い転げる僕を見て恥ずかしくなってきたようで顔を背けた。それきり黙ってしまったのでちょっと調子に乗り過ぎたと反省して僕は隣に座り直す。そっぽを向いたままの小高先輩の頬に、いよいよラストとなったスターマインが反射して色とりどりに光る。
「花火ー。見なくていいんすかー。こういう純粋な感動が大事なのではー?」
「はー! はーうるっさー! こいつうっさー! 黙ってほしー!」
 そのままあっけなく花火は終わり、空は静かになった。しかし東京とは違って星が無数に光っているのであまり暗い感じはしない。そのうち川の上流からはたくさんの灯篭が流れてきた。すっかり真っ暗になってしまうことはしばらく無さそうだ。灯篭は小さな木の船に乗ってとてもゆっくりな速度で水の上を進んでいく。よく見ると花のような柄が描かれている。ここへ来るときに見たあの白い花を思い出させる柄だった。今こうして隣にいる人は本当はもう既にこの世にはいないのだということを思い知らされるようで、じっと見ていることは出来なかった。
「有坂はどうなのさ」
 先輩もいつの間にか灯篭の方に目を向けていた。立てた両ひざに頭を乗せるようにして、いつになくしおらしい雰囲気を出している。
「彼女とは上手くいってんの?」
「僕ですか? ええー……」
 茶化すことを許さない目を先輩はしていた。そこに短絡的な真意を見出すほど僕はもう子供ではない。残念なことに。
「今まさに喧嘩中です」
「はー、ばっかでー。あんな良い子他にいないのに」
「そうですか?」
「そうだよ。愚か愚か。有坂は愚か者だ」
「目の前にいますけどね。他の良い子」
「ぶっ殺されたい?」
「されたくないですごめんなさい」
 先輩は立ち上がって川のすぐそばまで行く。もしや水の中に入ってばしゃばしゃやる流れか。青春しちゃうのかしらん、とわずかにだるさを覚えつつも沸き立つ気持ちを感じていると、先輩は普通に川の一歩手前でしゃがみこんだ。とめどなくやってくる灯篭たちを真剣な表情で見つめている。これが途切れたら、きっとここは真っ暗になってしまって、この顔を眺めることも出来なくなってしまう。そうなったら明るい場所まで歩いて行けばいいだけなのに、そんなことではこの人を留めておくことは出来ない、そんな気が無性にした。
「ぶっ殺したいなー」
 唐突に先輩はまたそんなことを言う。そんなにシャクでしたかと訊くと、そうだねーと気のない声が返ってきた。
「愚かすぎてぶっ殺したいよ、ずっとそんなことばっか考えてるんだ、最近」
 気づけば僕は灯篭の内の一つを川から揚げて河原の上に置いていた。まだ、もう少しの間だけでいい、ここで先輩と話していたい。そう思ったら自然と身体が動いたのだった。
「何があったんですか」
「有坂には関係ねえなー」
「恋、ですか」
「たぁはは、わはは、はは、そう、そうだよ、ばーか。恋。恋恋恋恋恋! あーもう、やんなる……」
 またも先輩は頭を掻く。さっきより激しくやって髪はくしゃくしゃになってしまう。しかしすぐにばっ! と顔を上げ、両手で後ろに髪を梳いた。一旦大きく広がってからゆっくりと綺麗にまとまった髪は、なんとなく花火のようにも見えた。
「有坂―? 世の中にはなー? 一生成就しないことが約束された想いってのもあるんだー?」
 なぜかすべての語尾を上げて先輩は言った。開き直り、諦め、色濃く滲むそうした物を隠そうとしない言い方だった。酔うとダル絡みしてくる大学の友達そっくりである。先輩がもし十八歳で死んだりしないで成人してからも付き合いがあったら、居酒屋かなんかで、それもとびっきり汚い、けど料理はやたらうまくておまけに安いところで、こんな風に駄弁ったり出来たんだろうか。
「一生『親友』でいてほしいってさぁ、マジのマジにお願いされたらさぁ、どうすりゃいいのよ……」
 ゆらゆら左右に力なく身体を揺らしながら語る先輩の後方に、突然出現したかのように手持ち花火の袋があるのが見えた。真面目な返答をすべき場面なのは分かり切っていたのに僕が「花火!」と言ってしまったのはそのせいだ。
「花火ありますよ先輩! あんま見てなかったですよね! やりましょう!」
 ずっと座っていたので急に立ち上がって走ると足がもつれて転びそうになった。無様に体勢を崩しながらも花火の袋を持って戻ってくると、先輩は少し笑ったようだった。
 灯篭の流れはすっかりやみ、陸へ引き揚げた一隻の上の灯もほとんど消えかかっている。花火をやろうとは言ったものの火が無かったので、それがまだ生き残っていてくれたのには助かった。僕がろうそくを囲う紙を取ろうとすると、馬鹿! と言って先輩は紙をずらして燃やした。みるみるうちに火は広がり、船が丸ごと燃え上がる。
「ろうそくなんかすぐ消えるだろうが。こうした方が長持ちする」
「……ヤンキーの悪知恵?」
 先輩は鋭く舌打ちし、袋から大量の吹き出し花火を取り出して火を点けた。
「せーんぱい! もったいない! もっとゆっくり楽しまないと!」
「うるせー!!!」
 ごちゃ混ぜになった雑な虹色の火花に僕は襲われる。たまらず逃げ出すが、先輩は両手に花火を持ったまま腕をぐるぐる回しながら追いかけてきた。やられたままでなるものかと僕も隙を見て数本の花火に着火し応戦する。めちゃくちゃ熱くて痛いし、眩しいし、久々に全力で走ってるせいでだいぶ辛い。でもすごく楽しい。こんな気分になったのは一体いつぶりだろう。
 大火力での虹色の戦争はあっという間に両軍へ甚大な被害をもたらして終結した。数えるほどしかない線香花火も一瞬で消費され、とうとうお互いが持っているぶんが最後の一本になってしまう。
「たっはは、有坂顔真っ黒」
「先輩こそ炭鉱夫みたいですよ」
「いいだろうが炭鉱夫。炭鉱夫の何が悪い」
「なんでこのヒト炭鉱夫のプライド持ってんの……」
 そんなくだらないやりとりをしている間に僕の方の花火は落ちてしまった。
「はーっ、ダッセェー。まるで有坂のような早さ」
「はやさ……? 先輩!? それはどういう意味でしょうか!? アンタ僕の何を知ってるんだ!」
「あははははは!」
 祭りは終わってしまったのか、遠くに見えていた屋台の光がいつの間にかどこにも見えなくなっている。轟々と燃え盛っていた小舟も既に消し炭だ。ついにもう先輩の手にする花火のか細い灯り以外、僕たちがここにいることを確かめられる物は消えてしまった。
「有坂」
 今にも落ちてしまいそうな火の玉をじっと見つめながら先輩は言う。
「お前はすげぇよ」
 激しく散っていた火花の勢いがどんどん小さくなっていく。時折ぱっと盛り返したかと思うと、また急激に弱まるのを繰り返す。
「彼女に気持ちを伝えて、それに応えてもらえたんだ。すげぇことだよ。私には死ぬまで……いや、死んでも出来てないか」
「先輩?」
「はいはい、先輩。私は小高先輩。みんな大好き、でも一番好きな人には好いてもらえなかった小高ひより先輩ですよ。……全然消えねえなこれ」
 先輩はそう言い様、自分で花火を吹き消してしまった。完全に真っ暗になった世界で、先輩の声が聞こえる。
「有坂ー?」
「はい! 先輩、まだいますか!?」
「ばーか。あのなー、最後にひとつだけ言っとくわ」
 ひゅう、という風の音がした。まるで大きな空洞の中のように音は反響する。
「……やっぱやめた」
「なんすかそれ!」
 ぱしゃぱしゃぱしゃ、と後ろから誰かが駆けてきているような足音が聞こえた。圭太ー! という必死な叫びも間に挟まっている。
「うらめしや」
 それは顔を見なくても全開の笑顔であることが分かる先輩の声だった。その後はいくら呼んでも返事は無かった。僕は予想通りひどい怒りようの恋人と共に東京へ帰った。だが数週間後、ちょっとしたことで喧嘩になり、別れてしまった。その日の夜は皿が宙を舞い、時計が壁から落ち、窓が勝手に開き、一晩中すさまじいラップ音に悩まされた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?