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「死」なせたらだめなのか?

こんにちは。
白川悦子です。


看護師をする傍で、生きる事、死ぬ事について考えるための『いっぺん死んでみる〜今を生きるためのワークショップ〜』
を開催しています。
これはわたしのライフワーク。

このワークショップとの出会いについては
こちら

死を迎える最期の時間を大切にしたい。

昨日の透析センターでの仕事のこと。

基礎疾患が色々あって、急変して基幹病院に入院して、DNARを決めて退院してきた72歳の透析患者さんがいる。

週3回の透析を2回にして、24時間対応の訪問診療にもつないだ。

前回の透析から4日経って状況がかなり変化していた。

もう食べられないし、痰も自分では出せなくて喉がゼロゼロ鳴っている。呼吸も開口呼吸。こんな状況で介護タクシーを使って透析に来た。
来院した時点で血圧60台/ で脈拍140越え。

正直なところ、よく来たな…と思った。
ご本人だって身体を動かされるのはしんどいだろうし、送り出すご家族はどんな気持ちだったのだろう。
もちろん、DNARを決めたということは、残された時間が少ないことも理解しているはず。

だけど何年も透析に通っているから「透析をやめていい」ということが選択肢にないのね。誰かが教えてあげないと、家族はこの状況でも病院に送り出す。

確かに腎不全の患者さんは透析をやめたら死んでしまうわけで、だからこそどんな時も透析に通ってきた人生だったけれど、生きるための透析なのであって透析をするために生きているわけじゃない。

人間だって動物なのだ。
自分の身体のことは本当は自分が一番わかるはずだし、治療法も自分が決めていいはず。

生きている中で、「誰かがこう言ったから」とか「世間が」とか「ふつうは」とかじゃなくて、どんな事も自分が考えて自分が決めることが大事なんだと思うけれど、こと病気の事になるとそれが難しいんだろうね。




もちろん医師にもいろんな人がいる。どの人もその人の正義の上で仕事をしている。


もう残り少ない時間を大切に使って欲しいし、当然今日は透析やらないでおうちに帰すのかと思ったのに、医師の指示は『輸液して血圧上げて透析を回す』でした。

何のための透析?
食べられないのに?
DNAR決めてるのに?
無駄な水分を身体に入れてまでなんで?

そもそもこの状態で透析する意味ってナニ?



わたしの頭の中がぐるぐるモヤモヤしたのは、最期の大切な時間を透析室なんかじゃなくて、ご家族のそばで過ごさせてあげたいというわたしの価値観がそうさせたからです。

自分が死ぬ時は家族のそばにいたいと思うし、自分の家族にもそうしたいと思うから。

医師の判断が良いとか悪いとか批判するつもりはないけれど、
病院の勤務医はどんなふうに最期を迎えるかなんてことは頭にない。
目の前の患者さんの治療がお仕事だから。

働いてる看護師もそんな事考える人はいない。医師の指示通りにするのが仕事だから。


だけどわたしは、とてもとても悲しい気持ちになりました。


考えること。選ぶこと。全部自由なのに。


こういうことって大多数の看護師も考えないのだから、ましてや患者さんは『治療はしなくてもいいし、どんな時間を過ごしたいのか選んでいい』ということを知らない。
そんなこと考えていいということさえ知らない。

透析の中止を決めない医師もその医師の正義。

そして、ある種の患者さんにとっては病院やお医者様の意見は絶対なのです。
いくら説明してもちっとも聞いてくれない患者さんもたくさんいるけれど、何も考えずに医師の言うことを鵜呑みにする人もいる。


医師は神様じゃないよ。


身体が代謝できない状況での輸液は浮腫になるし痰が増える。
終末期医療を知らない医師はその輸液で苦しくなることを知らない。

食べられなくなってからは枯れるように死ぬのが自然な死に方。
苦しまないのは治療しない自然な死に方の方なのに。

ありとあらゆる治療で最善を尽くし、手を尽くして病院で死ぬ方法もあるし、
治療せずに自分の過ごし慣れた自宅で死ぬ方法もある。


訪問診療をしている先生やスタッフたちは、それをされているけれど、そういう場所があることさえ知らない人が多い。
わたしも数年前まで知らなかった。


自分の生き方は全部自分で考えて選んでいい。





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