観覧車に回れと命令するということ

 玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることのよわりもぞする/式子内親王

 観覧車回れよ回れ想ひ出は君には一日我には一生/栗木京子

最近、何の拍子だったか、掲出歌の初二句「玉の緒よ絶えなば絶えね」と「観覧車回れよ回れ」の韻律は似ているなと思った。そしてそのあと、意味も似ているんじゃないかと思った。つまり、「わが命よ、(長生きなんかできなくていいから)ここで終わるなら終わってしまえ」という歌意から連想して、「観覧車よ、(降りるまでの時間を引き延ばしたりなんかしなくていいから)回れ、さあ回れ」と言っているんじゃないかと思った。

これまでは「回れよ回れ」を「ああ、私と君を乗せて観覧車が回っているよ」ぐらいに捉えていた。そして、観覧車に乗っている時間が一生の思い出だと思えるとき、人は、その時間がいつまでも終わらないで欲しいと願うものだと思う。観覧車が回るほどその時間は終わりに近づくので、もっと遅く回ってくれればいいのにと思うかもしれない。

でも「回れよ回れ」の意味を命令形の通りに取ると、「想ひ出は君には一日我には一生」のある読み方に思いあたる。君にとっては何ということはない時間だとしても、私は今この時間を心に焼きつける。観覧車に乗っている時間が長かろうが短かろうがそんなことは関係なく、今この時間を超えて、死ぬまで忘れないほどに心に焼きつける。私は今、それぐらいの覚悟を持って観覧車に乗っている。だから、好きに回ってくれて一向に構わない。

と、一首単位で突き合わせて考えてみました。

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