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2016/5


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 学習塾の最前列の席で、糸川誠一は冷や汗をぬぐっている。
 連休の初日の今日、午前中に組み分けの学力テストがあることは、前もって知らされていた。難関の高校を目指すコースと、チャレンジ進学コースとに分けるのだ。
 誠一の目指す高校は県内屈指の難関校だ。もちろん、塾では精鋭たちを集めたクラスで勉強したい。
 誠一には、その実力は十分にある。通信教育の課題も、問題集も、合格点以上を取ることができる。
 しかし、
「深呼吸、深呼吸……」
 誠一は心の中で繰り返す。誠一は極度のあがり症なのだ。学校や塾の試験だと、自分の実力をなかなか発揮できない。周りの筆記道具の音、残り時間、歩き回る試験官の気配が気になって、問題に集中することができない。
 腕時計に視線をやる。残り時間十五分。数学の問題を解くペースが遅れている。
 ラストの文章問題は配点が大きい。シャープペンシルを握る手に力が入る。試験問題に目を通す。家で同じような例題を解いたことがある。落ち着いて解いたら十分もかからないはずだ。
 誠一は問題用紙の余白に図を描き出した。
「底辺をこのくらいにして、あれっ、歪んだ……」
 緊張のせいで、誠一の心の声は外にもれていたみたいだ。
 試験管が靴音を鳴らして、誠一の机に近くにやって来た。机の端を指先で、コツコツと叩かれて注意される。
「す、すみません」
 再び声を出して、誠一は口元を押さえた。頭の中が真っ白になる。なんとか曲がった底辺に二本の線を書き足したものの、この三角形をどう利用するのか思い出せない。とりあえず角度を書き足してみる。指先が震える。
 試験官の残り五分の声に、誠一は目を閉じた。
 もうダメだ。


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 その日の午後、組み分け表が、塾の一階の掲示板に張り出された。
 誠一の名前は、チャレンジ進学コースにあった。
 思わず、顔をふせる。両親に何て話そうか。両親からは、別段、どこの高校へ行けとは言われていないが、しばしば兄と比べられる。
 二つ年上の兄は公立の中くらいのレベルの高校へ進学した。
 誠一は、何かにつけて兄と比較されるのは好きじゃない。兄よりレベルの高い高校へ行けば、両親からうるさく言われることはないだろう。
 それなのに……、
「あっ、同じコースじゃん、よろしくね!」
 落ち込んでいる誠一の背中を、三石桃子がぺしーんと叩いた。
 緑ヶ丘中学校で、桃子を知らない人はいないだろう。絵を描くのがとても上手くて漫画家を目指している。二年生の時、プロを目指す人たちが応募する雑誌に最年少で入賞した。
 誠一は三年生に進級して初めて、桃子と同じC組になった。
 誠一が一年生の時から通う学習塾に、桃子はこの連休に入ってきた。
 誠一は小さな声で
「オハヨウ」と返した。
 どうして、漫画家の卵の桃子が、進学塾に通うのかな?
「あたし、生まれて初めて学習塾に入ったの。みんな、真剣な顔をしてすごいね。今朝の誠一君の顔もすごかったよ。ほらっ」
 桃子は鞄から紙を取り出すと、誠一に手渡した。
 問題用紙の裏の白紙に、誠一の顔が描かれている。汗ばんだ額に眉間の縦じわ、血走った眼球に半開きの口、でかい鼻の穴に髪の毛をかきむしる両手。
 誠一は耳の端まで赤くなった。あまりにもリアルによく描けている。
 そして、試験を受けている自分の姿の恰好悪さに愕然とした。誠一は絵を折りたたむと、鞄の奥に突っ込んだ。
 結局、一日中、塾の授業に集中できなかった。


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 翌朝、塾のロビーの掲示板の前で、誠一は桃子に話しかけられた。
「今日の英語の授業はヒアリングで、二階の教室に変わるんだよね? あたし、方向音痴なんだ。ついて行ってもいい?」
 返事を待たずに、桃子は誠一のリュックにくっ付いた。
「汽車、汽車、しゅぽしゅぽ!」
 桃子が楽しそうに口ずさむ。誠一は直立不動で硬直した。一体、どうゆう感覚をしているんだ? 塾に遊びに来ているようだ。二階の教室へ向かう階段は一カ所しかないので迷うわけがない。誠一は一秒でも早く教室へ行って、英単語を覚えたい。
 学校の成績はもちろん、塾での成績も上げて、精鋭グループの仲間入りをしたい。グループ分けの試験は定期的に行われる。桃子に付き合っている時間はないのだ。誠一はドキドキしながら、迷惑だと、意志表示することにした。
「どこの高校を目指しているのか知らないけど、もう少し真面目に……」
 誠一の言葉を遮るように、
「行かないよ、高校」
 桃子は言い放った。はっ? 誠一は言葉を失った。
「たぶん、行かないと思う。でも、お母さんに高校くらい行きなさいって言われてね、とりあえず塾に来てあげたの。あたし、人間を観察するのが趣味だから。ここは、漫画を描く為に勉強になるね」


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 連休三日目。シャープペンシルを動かしながら、誠一は身体を屈めた。お腹が痛い。
 今朝、ご飯を食べてからずっと、下腹部がチクチクと痛かった。トイレに行っても解決せずに、無理して塾に来たところ、本格的に痛くなってきた。
 しかも、抜き打ちの社会のテストの最中だ。歴史的事項と、その横に空欄。年号を書くだけの暗記力が試されるテストだが、全部で百問と数が多い。
 誠一は暗記は得意だが、問題数が多いのは気持ちが焦る。
「ウグイスが鳴くのは平安京で……、いてててて……」
 四十三問目の空欄に年号を書き込む。あっ! 腹痛のせいで力が入りすぎた。欄から数字がはみ出てしまった。これでは、採点する先生が数字を見間違えるかもしれない。不安が込み上げて、慌てて消しゴムでこする。
 わっ、しまった! 
 今度は、書いたばかりの四十二問目の数字まで消してしまった。落ち着け、落ち着け……。年表は語呂合わせでちゃんと覚えている。落ち着けば満点だって難しくない。
 けれども、
「うっ……」
 予期せぬ激痛が、誠一を襲った。ズキーンという痛みの直後、チクチクは便意を伴うズキズキに変わった。今、トイレに行かないと間に合わなくなる。それでも、トイレに行っていたら、解答も間に合わなくなる。どうしよう……。
 と、いきなり、
「糸川君が吐きそうなので、トイレに行ってきます!」
 斜め後ろの桃子が立ち上がった。
 戸惑う誠一の腕をつかんで立たせると、ぐいぐいと引っ張って教室の前のドアから出た。
「おーい、大丈夫か?」
 心配そうな試験官の声に、
「大丈夫じゃないからトイレに行くんですよ」
 桃子は平然と答えた。
 くすくすと、教室で笑い声が起こった。
 一瞬、誠一は驚いて振り返った。緊張感の漂う塾の教室で、笑い声を聞くのは初めてだった。

 腹痛の原因は一分足らずで解決した。なんだか、誠一は洋式便器に腰掛けたまま立ち上がる気持ちにならなかった。
 以前の誠一なら、トイレでロスした時間を取り戻そうと走って教室に戻っていただろう。
「あたし、堂々と、男子トイレを探検するのは初めて!」
 さっきから、男子トイレの中を、スリッパをパタパタと鳴らして、桃子は歩き回っている。
 ガラガラっと小窓を開ける音、隣りの個室のドアを開け閉めして、沈黙……、何をしているんだろう。
「オーイ」
 誠一が声をかけると、
「あー、大変! よくこんな恰好でおしっこするわね。太ももが筋肉痛になりそうだわ」
 桃子は心底実感したように言った。
 尋ねなくても、桃子がどんな格好をしているのかわかった。
 誠一はズボンを上げながら、
「女子は大変じゃないの?」
 とフツーに聞いていた。聞いてから少し恥ずかしくなったが、
「和式でも男子よりましね」
 桃子は即答した。
「ドアを開けてもいいの?」
 許可を取りつつ、誠一は笑えてきた。トイレの個室に入っている自分が、外にいる桃子に開けてもいいか? だなんて。
「イイヨー」
「戻って、試験の続きをやらないとね」
 トイレの個室を出て、誠一はつぶやいた。
 すると、
「あたし、開始五分であきらめたわよ」
 得意げに、桃子は言い放った。
「はぁ? あきらめるの早くないか?」
「だって、裏にも問題があったじゃん」
 なるほど、今日は、お絵描きもできない訳だ。
 誠一は、先日、桃子が裏紙に描いた自分の顔を思い出した。ふーっと、息を吐き出すと、すーっと、肩の力が抜けた。
 今日は、体調が悪かったんだから仕方ない。でも、
「出来るところまでやるよ」
 誠一が言うと、キミはそうしなさい、と、桃子は先生のように肩を叩いた。

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〜創作日記〜
いつの時代の受験も大変だと思います。それぞれ、置かれた環境で、勉強をしなくてはいけない、本当に大変だと思います。でもね、言われたことをそのまままやっておくのは楽ちんです。少なくとも損はしないです。気楽に生きましょう。なんて(笑

©️白川美古都

新人さんからベテランさんまで年齢問わず、また、イラストから写真、動画、ジャンルを問わずいろいろと「コラボ」して作品を創ってみたいです。私は主に「言葉」でしか対価を頂いたことしかありませんが、私のスキルとあなたのスキルをかけ合わせて生まれた作品が、誰かの生きる力になりますように。