YA【その船をこいでいけ】(9月号)
夏休みが終わってから、もう二週間が過ぎた。
九月も半ばだというのに、ばかみたいに暑い。月ノ島中学校の三年生、折田ノブは、照り付ける太陽光線から逃れられない。校庭のハンドボールコートのゴールの中にいる。同じく三年の近藤タツヒコの練習に突き合わされて、キーパーをしているのだ。
三年生は夏休み前に部を引退した。
今、二年生を中心としたハンドボール部は体育館のコートで練習をしている。ノブとタツヒコは引退した手前、大っぴらに練習をできないので、運動場の隅を拝借して練習している。
しかし、充分に目立っている。タツヒコはスポーツ推薦で進学が約束されている。
「それにしても、暑いな……」
ノブが空を見上げると、ぶわっと空中に人影が飛び込んできた。
耳元で風を切る音がして、背後でゴールネットが揺れた。
「おまえなぁ、キーパーをやってくれるのなら少しくらい反応しろよ」
タツヒコは音も無く、空中から地面に着地する。
右の踵からつま先、そして、すぐに左の踵とつま先が地面について、膝、腰がやや曲がり衝撃を吸収している。そのまま、二、三歩前に走り止まる。
意図も簡単にやってみせるシュートは、何もかも中学生のレベルを超えている。そんなこと、スカウトが騒がなくてもノブにも解る。
トントントン
ボールの転がる音。
「わりぃ、でも、おまえのシュートに反応できるキーパーなんているのか?」
ノブは足元のボールを拾い上げて、タツヒコにパスする。
タツヒコはボールを片手で受け取りながら照れくさそうに笑った。
「サンキュー」
タツヒコはドリブルしながら反対側のコートに戻って行く。
「まだやるのかよ」
「んっ? なんかいった?」
「なんでもないよ」
ノブはゴール隅のスポーツドリンクに手を伸ばす。喉を鳴らして飲む。すぐに空っぽになる。
でも、心配ない。タツヒコをお目当ての女子たちが、手作りのお菓子やレモネードを差し入れしてくれる。とても一人で飲み食いできない量なので、ノブはいつも遠慮なく頂戴している。今日も、自主練だというのに女子たちの姿がある。
タツヒコが向こう側のコートで空に向かって指を一本突き上げる。行くぞ、という合図だ。
女子たちが黄色い声を上げる。もはやわざとやっているとしか思えない。身長百七十センチ、長い手足、柔らかな筋肉を身にまとい、おまけに、男のノブから見ても、タツヒコはイケメンだ。切れ長の奥二重の目に高い鼻、薄い唇。
「神様は不公平だ……」
ノブはつぶやいた。
タツヒコはゴールに向かって加速してくる。
(俺がアイツに勝てるのは唯一成績くらいだ)
それでも、タツヒコに勉強を教えてくれと頼まれるのは悪い気がしない。タツヒコが空中に舞い上がる。
次の瞬間、ノブの体は反射的に動いていた。地面をけって手足を大きく広げて、タツヒコのシュートを阻止する。
「阻止……、あれっ?」
白いボールはノブの足下からゴールに吸い込まれた。
タツヒコがノブのがら空きの股下にボールを放り入れたのだ。こういうシュートを決められると、どっと疲れがくる。
「ハイ、オシマイ」
ノブはボールを拾い片手の上で回した。パスしたら、タツヒコはまた走り出すに違いないから。本当に化け物並みのスタミナだ。
「ただいま」
と同時に、遅かったわねと母が玄関までやって来た。
これはお出迎えではない。小言が言いたくて我慢できないのだ。やれやれ。内容は聞かなくても解る。もうハンドボール部を引退したのでしょう? 受験を控えている三年生なのだから、早く帰って来て勉強しなさいよ。そんなところだろう。
ところが、
「ノブ、第一志望の高校を変えたの?」
母が早口で尋ねた。
「えっ、なんで知ってるの? また、俺の部屋に勝手に入ったの?」
母にも誰にも伝えていないことがある。
「ちょっと掃除機をかけただけよ……」
気まずそうに、母がうつむく。
「勝手にプリントを見たんでしょう?」
ノブは進路志望届を机の上に出しっぱなしにしていた。
昨日の夜、鉛筆で書きつけた第一志望校は、海北高等学校だ。そして、第二志望欄に、東和高等学校と記した。
今までと順番が反対。
この順番だと、第一志望の方の偏差値がずいぶんと低くなるので、普通ではありえない。
普通、第二志望は第一志望の滑り止めだ。
ボールペンではなく鉛筆で書いたのは、まだ迷っているからだ。
海北高校には全国でも強豪として有名なハンドボール部がある。タツヒコがスポーツ推薦で進むのは、この海北高校だ。
ノブの成績なら一般入試で間違いなく入学できるレベルだ。一方、東和高校は文武両道をモットーとする有名な進学校だ。
「この間の模試の結果も良かったじゃないの。合格率八十パーセントだって。百パーセントじゃないから心配なの?」
母は洗面所に付いてくる。
「そんなんじゃないよ……」
「降水確率八十パーセントっていったら、小さな折り畳み傘じゃなくて、大きな傘を持っていくわよ」
「ぶっ……」
ノブはうがいをしている水を吹き出しそうになった。
母はこの例えで励ましてくれているのだろうか?
確かに、模試の結果は少しショックだった。それでも、原因は解っていた。最近、苦手な国語をあまり勉強していなかった。それで、一科目だけ平均点以下になったのだ。
(苦手から逃げたらダメだな……)
「大丈夫。まだ九月だし、国語も勉強するから。それより、晩御飯は、何?」
わざと、ノブは話題を変えた。
「唐揚げよ、大好物でしょ」
母は安心したようで、明るい声でキッチンに戻っていく。
ノブは母の背中を眺めた。
母の希望は、ノブが東和高校へ進学すること。もう一つ、重大な願いが母にはある。ノブにハンドボールをやめてほしいと思っている。ノブが腰椎を剥離骨折した時に、ノブは母に泣きつかれた。そして、三年生でやめるよと約束したのだ。
土曜日の午後、図書館へ行くといって、ノブは家を出た。わざとらしく玄関先で、リュックを開けて参考書があるかどうか確認した。これから、公園で、タツヒコのハンドボールの練習に付き合うとは言えない。罪悪感なのか、いってきますと言う時、母の目を直視できなかった。
でも、胸がわくわくしていた。
午前中、先日の模試の復習と、国語を集中して勉強した。
(あぁ、もう限界)
という時、タイミングよくスマホが震えた。
タツヒコからの誘いだった。スマホの画面は後輩が撮った二人のツーショットの写真だ。泣きはらした顏のノブと、笑顔のタツヒコ。
引退試合、ノブは腰の痛みで、最後までコートに立っていられなかった。
まだ数ヶ月しか経ってないのに懐かしい。
その瞬間、ノブの目頭が熱くなった。自分の夢は誰にも言ってない。正確には言えないでいる。俺はハンドボールがやりたい。タツヒコとハンドボールがやりたい。
「おぉーい、待ったぞ!」
児童公園の緑色のフェンスの前で、タツヒコが手を振る。
「練習、ここでやるの?」
隣町の薄暗い公園だ。
この寂れようでは子どもが遊びに来るとは思えない。
「遠投、百本、付き合ってくれよ」
とんでもないことを、タツヒコはさらりと言ってのけた。
苦笑いを浮かべて、ノブはリュックを木陰においた。二人は水飲み場をはさんで公園の隅と隅に立った。
なんとか四十メートルを確保できた。
「いくぞ」
というタツヒコの掛け声と同時に、きれいな回転のかかったボールが飛んできて、ノブの胸の中にすとんと落ちた。
「ナイスコントロール!」
ノブは右肩をぐるぐる回す。遠投には自信がある。同じく、いくぞと声をかけて投げたボールは、力み過ぎて低い弾道となった。真ん中の水飲み場にぶちあたり、ボールは空高く跳ねた。
慌てるノブに、タツヒコは腹を抱えて笑っている。
それから、遠投は何本か続いた。すぐさま、ノブの額を汗が流れ出した。息も上がって投球フォームなんて意識していられない。
それなのに、向こう側のタツヒコは涼しそうな顔をしている。
しかし、海北高校に進学したら、タツヒコもうかうかしていられないだろう。全国からツワモノたちが集まるのだ。
俺は控えのキーパーでもやらせてもらえれば、恩の字だ。
だけど、タツヒコには試練を乗り越えていって欲しい。珍しくタツヒコの投げたボールが大きく逸れた。
ノブはボールを拾いに行く。
空には船のようなでっかい入道雲が現れた。二人してずぶぬれになるかもな。そうしたら図書館の嘘が母にばれる。
それでいい。
ノブは入道雲を見つめた。あの船をこいでいくのは自分だ。後悔しない道を進む。
ノブは空に向かって指を一本突き立てた。
新人さんからベテランさんまで年齢問わず、また、イラストから写真、動画、ジャンルを問わずいろいろと「コラボ」して作品を創ってみたいです。私は主に「言葉」でしか対価を頂いたことしかありませんが、私のスキルとあなたのスキルをかけ合わせて生まれた作品が、誰かの生きる力になりますように。