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©️白川美古都


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 月ノ島中学校の一年生、島村耕一は下駄箱で運動靴に履き替えると、まぶしそうに空を見上げた。
 降り続いた雨は上がり太陽が照り付けている。今夜あたり、東海地方は梅雨が明けたと思われるでしょうと、テレビのお天気ニュースで発表されるに違いない。
 そして来週からテスト週間に入る。
「それよりも早めに勉強しておこう」
 耕一はつぶやいた。
 
 中学校に入ってあっという間に三ヶ月が経過した。学校生活には慣れてきたけど、やはり勉強は大変だ。
 耕一を悩ませている科目は数学だ。解き方が解らなくても、授業中に質問できずにいる。さっきの授業でも手を挙げて質問する勇気がなかった。解けない例題が少しずつ増えていく。
「チェッ、塾に入りたかったな……」
 耕一は母の言葉を思い出して、ため息をついた。

 先日、塾に行きたいと頼んだら、
「うちには、高い月謝を払うような経済的な余裕はありません。コーイチは帰宅部で、勉強する時間はたっぷりあるでしょう」
 母は聞く耳すら持ってくれなかった。
 時間をかければ、数学が解るのなら苦労しない。耕一は暗記が得意だが、公式の応用や自分で考えることが苦手だ。
 机に向かっていると、時間だけが過ぎていく。
(試験、どうしよう……)
 考えるだけで泣きたくなる。
 耕一が足早に運動場を歩いていくと、東門のわきの花壇に生徒の姿があった。
「あれっ? アイツ、隣りのクラスの園芸委員だ。確か、名字は神崎、名前はなんていったかな……。あ、思い出した、優だ」
 耕一は東門の前で立ち止まった。花壇の横に置かれた体操着袋に名札が付いている。


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 一年二組、神崎優、当たりだ。
 先月、園芸委員で一緒に仕事をした。偶然、二人は東門よこの花壇を任されて、雑草を抜いた。
 ほとんど会話をしなかったし、作業自体も三十分ほどで終わった。今日は作業はないはずだけど……。
 耕一の姿に気が付いて、優はニコッと笑った。
「キミは……、えーっと、ごめんね」
 耕一の名前を思い出せずに、優は頭をかいた。
 指先の泥が頬についた。
「人の名前を覚えるのが苦手なんだ」
 律儀に謝る優に、耕一は苦笑いする。
「そんなことよりも、何してるの?」
 委員会の予定表に、本日、園芸委員の仕事は入ってない。
「何って草むしりだよ」
「もしかして自主的にやってるの?」
「そんなに大袈裟じゃないけどねぇ」
 優は微笑む。田舎のお婆ちゃんみたいにのどかな笑顔だ。

 花壇の背の低いヒマワリの花が咲いている。コスモスのように見えるその花はヒマワリだと、優が教えてくれた。
 花壇には、品種改良された何種類かのヒマワリが植えられているそうだ。一株から幾つもの蕾を付けているヒマワリもある。原種に近い背の高いヒマワリはまだ黄緑色の蕾のままだ。
「オレは、このヒマワリが一番好き」
 耕一は黄緑色の茎に触れた。トゲトゲした感触。懐かしい。最近遊びに行ってないけれど、お婆ちゃんちの庭で咲いていた。
「ボクも。ヒマワリの種も美味しい」
「えっ、食べるの?」
 思わず耕一が聞き返すと、優は恥ずかしそうに頭をかいた。
「うん、菓子を買うお金がない時に」
 二人の間に気まずい空気が流れた。
 耕一は、ヒマワリの種はリスやオカメインコの餌だと思っていた。小遣い少ないのかな。もちろん声に出さない。
「じゃあね」
 と、耕一は立ち去ろうとして、優の腰にぶら下がる単語帳に気づいた。
 優は草を何本か抜くと、単語帳に視線を落とす。それを繰り返していた。
「勉強しながら、草を抜いてるの?」
「ん? うん」
 優はまた土のついた指で鼻に触る。
「ボクは暗記に、時間が必要なんだ。暗記したことを思い出すのも遅い。でも、シナプスを何度も結合させると、早く思い出せるようになるって本で読んだから」
「ハイッ? シナプスのケツゴウ?」
「記憶に関する脳のシステムだよ!」
 耕一は、ぜひとも、その話を聞きたくなった。もしかしたら、数学の勉強のヒントになるかもしれない。


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 優の話によると、シナプスの間を神経伝達物質が行き来して、記憶を作るという。そして、この物質の行き来がスムーズになると、暗記したことを楽に思い出せるそうだ。
 スムーズにするには、繰り返し繰り返し覚えるしかない。
 優は本に書かれていたことを、忠実に実行していた。
「へぇー、カンザキ君、努力家だね」
 耕一が心の底から感心すると、照れくさそうに、優は笑った。
 二人はしゃがんで雑草を引き抜いている。あらかた花壇の草は抜き終えた。優は単語帳についた土をはらった。
 よく見ると、牛乳パックを細く切って穴をあけて糸でつないだ手作りの単語帳だ。黒い油性のマジックで英単語が書きつけてある。
 と、突然、
「ボクは絶対に公立高校に合格しないといけない。万に一つでも失敗はできない。中卒で生きていく勇気は、ボクにないから」
 優は少しさみしそうにズボンのポケットに単語帳をしまった。

(もう受験のことを考えているの? まだ一年生だ。いくらなんでも早すぎやしない?)
 全ての質問を、耕一は飲み込んだ。
 優の声には静かな覚悟があった。
 それに中卒で生きていくとは……、つまり公立高校に合格しなかったら、私立高校には進学できないということだ。理由は、聞くまでもなく、家庭の経済的な理由だろう。
 優は花壇のすみに腰をおろした。それから、耕一に尋ねた。
「どうして、当番でもないのに草抜きに付き合ってくれたの? コーイチ君、部活に入ってないの? 学習塾とか習い事は?」
「部活はやってない。塾も習い事もしてないよ。草抜きを手伝ったのは、オレ、勉強に行き詰っていて、脳のシステムとやらを教えて欲しくてさ。そういうオマエは、なんで当番でもない日に、花壇にいるんだよ?」
 耕一はすんなり優に悩みを話せた。
「一石三鳥さ! 勉強もできて、ヒマワリの世話もできて、ここに居てもいい理由になるからね。まだ家に帰りたくないんだ」
 優は棒を拾うと、土に絵を描いた。
「上手く説明できるといいんだけど」
 画鋲を横にしたような図形を二個。その間を丸い小さな粒が飛んでいる。画鋲が脳にあるシナプスで丸い粒が神経伝達物質。粒が行ったり来たりすると電気の信号が流れて画鋲同士が結びつく。つまり記憶になる。
 暗記は記憶の形成のことで、早く思い出すには早くシナプスを結合しなくてはいけない。
「こんなに難しいことを理解できるのに、英単語の暗記に悪戦苦闘しているの? オレは数学という難敵の戦い方が解らない」
「ハハハ。戦い方ねぇ」


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 優は説明を終えると、水筒を取り出してお茶を飲んだ。コップのふちをハンカチで丁寧にふいて、耕一の分もお茶を入れてくれた。差し出されたお茶を、耕一は受け取り飲み干した。
 次の瞬間、吹き出しそうになったのを何とかこらえた。麦茶でもウーロン茶でも緑茶でもない。口の中が苦くてしぶい。
「なんじゃこりゃあ!」
 優は予想していたのか、その様子を楽しそうに眺めている。
「ドクダミ茶だよ。去年、たくさん作った茶葉を使っている。近所の神社の裏にドクダミが生えている場所を知っているんだ」
 耕一はお茶を見つめた。赤茶色の不味いお茶。
 優は、体にいいよと付け加える。

「数学は、まず公式を暗記すること。それから、解らなくても、例題の解答の導き方を書き写すといいよ。その内、ヒントが見つかることもあるし、見つからなくても、解き方の一定のパターンを見つけられるから」
 優のアドバイスに耕一はこくんとうなずいた。
「やってみる」
 耕一は不思議な気持ちがしていた。
 シナプスの結合に数学の勉強方法、ドクダミ茶の作り方まで知っている優が、中卒……。可能性はゼロではない。
 勇気がないと優はいったけど、耕一には優は勇気の塊に見える。だって現実を受け止めてやれることを一生懸命やって、今、こうして笑顔で居られるのだから。
「もし良かったら、うちにこない?」
 夕飯まで腹の足しにするくらいの菓子ならある。冷えてないかもしれないけど、ジュースもある。
 居てもいい場所、居たいと思える場所、優が工夫しないと得られないモノを耕一は持っている。
 比べるわけではないけど、優よりはるかに恵まれている。
 耕一の申し出に、屈託のない笑顔を優は見せた。
 耕一と優は二人並んで帰り道を歩き出した。
 見慣れた風景が違って見える。この美しい風景を記憶したいと耕一は願った。

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〜創作日記〜
なんとかなるさ、なんてお気楽な中学生は恵まれているのだ。
なんともならない、中学生はたくさんいる。
そして、残念ながら自分のことでいっぱいいっぱいなのに、
無責任に子育てごっこしてしまっている大人もね。

イラスト:asaoniro_様

新人さんからベテランさんまで年齢問わず、また、イラストから写真、動画、ジャンルを問わずいろいろと「コラボ」して作品を創ってみたいです。私は主に「言葉」でしか対価を頂いたことしかありませんが、私のスキルとあなたのスキルをかけ合わせて生まれた作品が、誰かの生きる力になりますように。