YA【夢をかなえて】(6月号)
吉原結衣がテニスを始めたのは、三歳の時だ。
偶然、庭に転がっていたテニスボールで遊ぶのに夢中になった。
硬式テニスボールはよくはねた。
地面に叩きつけてポーンとはねる黄色のボールを見上げると、青い空があった。
気持ちがよくて楽しくて、結衣もぴょんぴょん跳びはねた。
小学校にテニス部はなかったので、民間のテニススクールに通って、月ノ島中学校で硬式テニス部に入部した。
しかし、テニスがそれなりに上達するにつれて、結衣のテニスへの想いは薄れていった。
プロのテニスプレイヤーになる訳でもあるまいし、なんで、がんばっちゃっているんだろう?
今、結衣ががんばらないといけないのは勉強だ。
「この間の英語の試験、やばかったな……」
結衣は部室へ向かいながらため息をつく。
実際、結衣がテニスをしている間に、英会話スクールに通った子は、英語の授業の成績が良い。パソコン教室に通った子は、大人みたいにプログラミングの話をしている。
どうせ努力するなら、将来に具体的に役立つ方がいい。両親も、もっと役に立つ習い事をさせてくれたらよかったのに……。
あんなに楽しいと感じたテニスは、中学三年生になった今はどこにもない。結衣は中学校でテニスを止めるつもりだ。
高校では進学に有利なクラブに入りたい。
ところが、六月のテニスの地区大会で、結衣は久しぶりに団体戦レギュラーに選ばれた。
顧問に名前を呼ばれたときに、
「えーっ、わたしですか?」
と聞き返したくらいだ。
レギュラーは練習量が増える。試合形式の練習が加わるからだ。
勝ったところで成績は上がらないというのに。この地区大会で、月ノ島中学校は勝ち進んでも、せいぜい二、三勝だろう。
三年生にとっては公式試合の引退になる。それから、それぞれ受験という、将来の夢にむけた大切な準備が始まる。
プロにならない以上は、テニスは趣味でしかない。
進路を考えるようになってから、結衣はテニスの練習に集中できなくなっていた。ミスをしても悔しくもない。
だからといって、テニスは嫌いじゃない。ラリーが続くのは好きだ。ラケットでボールを打ち返す音。
風を切る音。右に左に走ること。しかし、それはテニスでなくてもいいような気もする。
「あぁ、モヤモヤするなぁ……」
結衣の気持ちを知らずに、顧問は続ける。
「吉原、中学生の最後の地区大会で奇跡を起こそうじゃないか」
「奇跡?」
「そうだ、初めての優勝とかな」
結衣は口ごもった。
部員は盛り上がる。奇跡なんていらない。一瞬で弾けて終わる奇跡なんて今後の人生で役に立たない。
「吉原はダブルス」
この指示には部員もざわついた。ダブルスは二人一組のペアで試合する。 結衣も練習したことはあるが、たいていダブルスは決まった相手と組む。
「えっ、誰と?」
動揺を隠せない結衣に、小山朝陽が抱きついた。
小柄な朝陽の顎の先が、結衣の脇に食い込む。下から結衣の顏をのぞきこみながら、
「改めてよろしく」
朝陽は満面の笑みで言った。
小山朝陽はテニススクールでも一緒だった。
小学校は違ったが、同じ中学校になって部室で顏を合わせたとき、二人は手を取り合って喜んだ。
朝陽は一年生の夏からずっと、ダブルスのレギュラーだ。
結衣よりも朝陽は小柄だけど、跳躍力があって、めちゃくちゃ足が速い。ダブルスでは後衛だ。
今まで朝陽のダブルスの相方は、先輩だった。先輩の後ろで走り回る朝陽に、結衣は声をからして応援した。
決して強くはない月ノ島中学校の硬式テニス部で、今は卒業した先輩と組んで大会で入賞した経験もある。
今回の地区大会だって別の部員と組めば、それなりにいい試合ができるはずだ。
「ダブルスは、練習でもあまりやったことないんだけど……」
結衣の声は、部員たちのざわつく声でかき消された。
顧問はダブルス二組とシングルス三組、補欠のメンバーを発表した。
「全体練習のあと、レギュラーは試合形式で練習するように」
顧問が開始の合図の手を打った。
まずは、ランニングだ。グラウンドの周囲を十周走る。
一年生を先頭に、二年生、三年生と続く。
「ユイ、さっそく、調整しようね!」
朝陽は一番後ろの結衣の隣りにずれてきた。息を切らさずリズムよく走る。
結衣も長距離は得意だ。恵まれた体格でスタミナもある。スポーツ選手として、結衣に欠けているのは精神力だ。生まれもった性格かもしれない。
いつでも今よりも少し先を見てしまう。未来の自分の心配ばかりをしてしまう。
「アサヒ、わたしが前衛でいいの?」
結衣の問いに、朝陽はうなずいた。
テニスのダブルスの前衛は、ネットに近い前方に立つ。主にダイレクトボレーやスマッシュで相手のコートに強い球を打ちこんで、得点を狙うのが役割だ。
背の高い結衣には向いているポジションだ。それに、結衣は動体視力に優れているので、相手のネット際のフェイントにも対応できる。
しかし、技術の問題ではない。前衛は対戦相手と近い分、より強い心が試される。
空はどんよりと曇っている。気が重くなる。足が重くなる。ランニングの列の最後尾で、結衣は少しずつ遅れ出した。
朝陽はすかさず結衣に寄り添うと、一生に一度のお願いよと前置きしてから言った。
「あたしの夢を叶えて」
「アサヒの夢?」
「うん、あたし、結衣がマジで勝つところが見たい」
「なんじゃそりゃ」
それを聞いて、結衣の長い足がもつれた。
第一グラウンドの第一コートに、結衣は立っている。反対コートから、後輩がサーブを打った。バシッと音がして、結衣の目の前でボールがネットに引っかかった。
「すみません、もう一本、いきます!」
二本目、三本目と連続してサーブはネットにかかる。
「ユイが前衛で立っているだけで、相手にプレッシャーになるっていうこと」
「そうかな?」
結衣は照れくさくて頭をかいた。
「おーい、らくにいこー」
朝陽は大きな声で後輩をはげました。
今度はきれいなサーブがコートに入った。すかさず、後衛の朝陽がまわりこみ、深いリターンを返す。相手の後衛が右にふられた。
「チャンス!」
あの体勢から真っ直ぐに打ち込むことはできないだろう。
「左だ!」
結衣はとっさに動いた。そこにボールが飛んできて、結衣はラケットを出した。
「ポン」
っと軽い音がして、ボールが相手コートに刺さった。ポイント、とっちゃった。
後ろで、朝陽が喜んでいる。あの笑顔を見ると、結衣も嬉しくなる。
小学生のとき、朝陽は怪我をしたことがあった。テニスを続けるかどうか考えさせられるような怪我だ。
「ユイ、もう一本とるよ」
朝陽の声に、結衣は構える。
風が吹いて雲が流れていく。
一生に一度のお願い……、あの日、結衣も朝陽に、そう言ったのだ。
テニスを止めないで。
一緒にテニスをしたい。
今思うと、無責任なお願いをしたものだ。朝陽と結婚する訳でもないのに。朝陽の人生を背負っていく覚悟もなく。
それでも、朝陽は足のケガを克服した。その朝陽が瞳をかがやかせて、結衣にマジで試合に勝って欲しいという。
というか、テニスにマジになれていないのがバレていたし……。
「サーブ、いきまーす!」
パーンとさっきより乾いた音がして、結衣の体のそばをボールが抜けた。
朝陽はみごとなリターンを返す。
結衣は左右どちらにも動けるように構える。
後衛同士のラリーが続く。ボールを目で追いながら、結衣はチャンスをうかがっていた。
ふと、勝とうとしている自分に気づいた。
頭をふる。
余計なことを考えるな。
朝陽が返したボールを、後輩が中途半端に浮かした。
「チャンスボール!」
次の瞬間、結衣は地面を力いっぱいけってジャンプした。背の高い結衣のラケットによゆうでボールがとどいた。
空中でラケットを降りぬく。
ビュン!
風を切る音、ボールの感触、相手のコートに突き刺さる球。
「ユイ、ナイス!」
朝陽が笑顔でかけよる。
ハイタッチをする。
ヤバイ、気持ちいい。
中学校のラストゲーム。
もしかしたら人生最後のテニスの試合になるかもしれない。昔のように無邪気に楽しめないけど……。
結衣はネットに向きなおる。体を揺らし球を待つ。
テニスの真剣勝負。
そんな思い出が一つくらいあってもいいかもしれない。
新人さんからベテランさんまで年齢問わず、また、イラストから写真、動画、ジャンルを問わずいろいろと「コラボ」して作品を創ってみたいです。私は主に「言葉」でしか対価を頂いたことしかありませんが、私のスキルとあなたのスキルをかけ合わせて生まれた作品が、誰かの生きる力になりますように。