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「コロナの時代の僕ら」パオロ・ジョルダーノ著 飯田亮介訳(早川書房)を読んで


洪水のような情報に溺れそうになりながら、掴んだものがこの本だった。

日々、いろいろな人がいろいろなことを言い、そして、私ごときが、何を考えたところで何の役にも立たないと感じていた時に、私の目に触れた本だ。
どんなキャッチコピーがついていたのか、何で目にしたのかも忘れた。とにかく読みたいと思い、お気に入りに追加し、お買い得日に忘れずネットで注文した。予約販売だったので、途中、発売日が少し遅れますと連絡をもらい、ほどなく2020.4.25初版発行の本を手にした。

読み始めて正解だったと思った。私の野生の感は、まだ大丈夫かもしれない。私が求めていたものがここにあった。私が欲しかったのは、落ち着きと冷静さ、そして思いやり、俯瞰した視点、人に向かう攻撃でなく自分を戒める反省。

満足しながら、読んでいる間に眠くなった。おそらく私は、非常事態のアドレナリンが放出されていて、ここのところ眠りも浅かったのかもしれない。この本は私のアドレナリンの分泌を抑え、興奮を鎮める作用があった。

私はゆっくり眠り、そして、また読み進めた。

著者のパオロ・ジョルダーノ氏は、イタリアを代表する小説家だ。彼の2020.2.25付で発表された「混乱の中で僕らを助けてくれる感染症の数学」という記事が400万シェアされ、数学を得意とする著者のわかりやすい説明は大きな反響を呼んだという。
2020.2.29うるう年のこの日、それ以降の予定がすべて空白になったことから、この時間を使って書くことにしたのがこの本だ。書くことは地に足を付けているためにも有効だと言う。そうやって3月20日までに書かれた文章が翻訳されて、4月後半には私のポストに届いている不思議。この速さと便利さは、今回の新型コロナウイルスの世界的流行と無縁ではない。私は、今の時代に生きる幸いと不幸を同時に受け取っている。けれど、幸いを最大限に、不幸を最小限にする手立てがあるはずだ。だからその方法を知りたい。

私は、日々刻刻と変わっていく変化を追うことだけで、精一杯になって、落ち着いて考えることも本を読むことも、無意味に感じ始めていた。それがいったい何の役にたつのだ?と。
医療崩壊しつつある現状を前に、何をのんきなことを言っているのだ?と。失職で生きられなくなっている人がいるのに、なんの役にも立たなく感じ、気持ちは乱れるばかりだ。
そう、今も、これを書いて何の役にたつのだという思いは込み上げてくる。

けれど、そんな気持ちを落ち着けてくれる言葉が、この本には、ちりばめられている。「いったん恐怖が過ぎれば、揮発性の意識などみんなあっという間に消えてしまうだろうー(P9地に足をつけたままで)より」だから、消えてしまわないように、書き残すのだ。

そして、著者はこの事態を冷静に説明をしてくれる。今起こっていることは、予測不能のことではなかったと。

たとえば「仮に僕たちが75億個のビリヤードの球だったとしよう。僕らは感受性保持者で、今は静止している。ところがそこへいきなり、感染した球がひとつ猛スピードで突っ込んでくる。この感染した球こそ、いわゆるゼロ患者だ。(P17アールノート)より」というような書き出しなら、その説明を読み進めていくことが出来るだろう。どんな専門家の説明よりもわかりやすい。

と、ここまで、5/4の日中に書いた。一旦中断して、5/5再び書こうとしている。

この間、SNSなどで、新型コロナウェイルスは結局のところ、インフルエンザと同じなのだという文章を、見かけるようになった。5/4から5/5の間に起こったことは、首相の「緊急事態宣言の延長」の発表だ。もう、首相の会見はストレスでしかなく、隣で専門家と言われる人が言い訳をするのを聞くのも苦痛だ。

だからなのだが、今起こっていることは、大したことではないのだということを言う人は出てくる。そして、このタイミングでそれをシェアする人が増える。

けれど、息苦しいのは、人権や、生存権や、自由が制約されている状況だ。そして混乱の原因は、政府の無策なのだ。すべきことをしないまま、今現在に至っていることの無能を責めるべきであって、そもそも大したことではなかったのだという風説に、流されてはいけない。

私の心臓はバクバクする。今、この時、病院で、そして、そこここで、苦しんでいる人が居る。その苦しみをどうにかしたいと思い、見聞きしたことをつなぎ合わせて考える。その中に、また最初に言われたことと同じ、大したことはない風邪のようなものなのだという説が混ざり込む。そもそも、そんなことを言っていたから、対処が遅れたのではなかったか?最大の注意を払い、出来る限りの感染症対策を行っていれば、今ごろ、お隣の国のように、再び私たちは、人と会い、人と集い、人と笑うことが出来たのではないか?

何時まで続くかわからないこの事態に、振出しに戻る人も現れ始めたようだった。

ぐるぐるする頭を整理するためにも、また、「コロナの時代の僕ら」に目を落とす。
「駄目だ。僕たちはリスクを冒すべきではない。(P43運命論への反論)より」ときっぱり否定し、その理由は、確実に入院を必要とする患者数が上がること、そして、人道的に健康弱者に危険が及ぶことをあげている。
そして、こう書いている「要するにこうした感染症の流行に関しては、僕らのすること・しないことが、もはや自分だけの話ではなくなるのだ。このことはずっと覚えていたいものだ。今回の騒ぎが終わったあとも。(P44運命論への反論)より」

いくら、首相会見を見ても、隣に座る専門家の話を聞いても、ちっともわからないけれど、感染症の流行が広がっているのか、収まってきているのかを知るには、『基本再生産数』というものを見る必要がある。ひとりの感染者が何人に感染させているか?という数字だ。たとえば、この数字が2なら、1人から2人に感染させているから、大変な勢いで流行しているということだし、この数字が1なら、1人から1人へと横ばい。そして0.9以下になると、収束を始めるということだ。


4/7の最初の緊急事態宣言の時に、ある専門家は、この基本再生産数を2.5として、80%の接触機会を減らすことで、1か月後には感染者数を100人以下に出来ると説明し、65%しか達成できなければ105日かかると言った。ところが、政府はこの2.5の数字を2と改竄した上に「接触機会を出来れば8割、少なくとも7割ひかえてほしい」と言い変えた。そして、この言いかえに反論するこの専門家の発言は「厚労省の見解ではない」と、官房長官は言った。

この専門家の説明は、私には納得できる最もわかりやすいものだったけれど、そもそもこの『基本再生産数』を出すためのデータに信憑性があるのか、そもそも検査件数が少なすぎるではないか?という批判はずっと付きまとっている。データがないのだ。

この国の首相や、その首相をサポートする人々は、市民を馬鹿にしすぎなのだ。私たちも舐められたものだ。どうせ説明してもわからないし、数字など理解しないとでも思っているのか?

けれど、それは日本だけでないことを、イタリアで著者も嘆いている「行政は~中略~僕ら市民を信じようとはしない。市民はすぐに興奮するとして、不信感を持っているからだ。(P92 パン神)より」

著者は言う。これを「戦争のようだ」などと言うのはやめよう、と。今公衆衛生上の緊急事態の中に居るのであって、基本的人権の停止や暴力を思わせる「戦争」という言葉を使うべきでない。それは、「まさかの事態」を受け入れず、見慣れたカテゴリーに押し込める過ちを犯す、と。「たとえば緊急呼吸器疾患の原因にもなりうる今回のウイルスを季節性インフルエンザと勘違いして語る者も多かった。感染症流行時はもっと慎重で厳しいくらいの言葉選びが必要不可欠だ。(P103コロナウイルスが過ぎたあとも、僕が忘れたくないこと)より」

今、日本は緊急事態宣言の延長が発表されたばかりだ。

医療現場で、介護現場で、教育現場で、貧困の現場で、必死に被害を食い止めようとしてくださっている皆さんに、心より感謝します。

そして、首相が感染の収束が出来ないことを市民の所為にしたことを覚えておこう。市民に自粛を求めるならば補償をすべきだ。補償をせずに生業を休めということは、死ねと言っているの等しい。

国会を見よう。首相が、大臣が、何を言っているのかを見よう。厚生労働大臣は、「37.5℃の熱で4日間家に居ろなどと言っていない。間違った受け取り方をされた」と言った。熱があっても自宅待機して検査してもらえず、悪化したことにより亡くなられた方が浮かばれないではないか!亡くなってなお「勘違いしたお前が悪い」そう言ったのだ。そして、答弁の中で何回「地方」と言ったかわからないくらいに、地方に責任転嫁をした。しかも、この事態にあっても病院のベッド数を粛々と減らすそうだ。


最後に、著者があとがきに書いている言葉を引用したい。

「僕は忘れたくない。今回のパンデミックのそもそもの原因が秘密の軍事実験などではなく、自然と環境に対する人間の危うい接し方、森林破壊、僕らの軽率な消費行動にこそあることを。~中略~家にいよう。そうすることが必要な限り、ずっと、家にいよう。患者を助けよう。死者を悼み、弔おう。でも、今のうちから、あとのことを想像しておこう。『まさかの事態』に、もう二度と、不意を突かれないために。(P113~116コロナウイルスが過ぎさったあとも、僕が忘れたくないこと)より」


日本で新型コロナウイルスがが収束するのは、いつになるのだろう?私は、首相会見を見るたびにストレスを感じ、専門家の言い訳を聞くたびに、無力感に襲われるだろう。そして、SNSで見聞きする言い合いに心拍数を上げるだろう。その度に、私はこの本を開いて、冷静であることを思いだそうと思う。

子どもの声が響き、時折子どもの泣き声も増えた気がする子どもの日に。

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