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イカ墨スパゲティを啜る女

 静謐の鱗粉が店内に満ちている。その粒子を鼻からふんだんに吸い込んでみると、安息感と倦怠感で肺臓がめのうのようになった。静謐なんて店からしたら決して有り難くないのだろうが、瘴気みたいな粒子が客の来店を阻んでいるようにも感じる。思いがけず魔法びんと化している店内に、午の陽がぬるぬると流入してきている。窓際の席には、女が座っていた。あまりの存在感のなさに入店してから今の今まで気づかなかった。テーブルの下まで伸びる長い黒髪は少しだけちぢれている。まだ注文は運ばれてきていないのに右手でフォークを握りしめながら、左手の文庫本を読み耽っている。黒皮のブックカバーには金色の文字が一つ刻印されているが、何の文字なのかは判然としない。
 告げるべきか否か。私はその結論を出せずにいる。はやく知ることのほうが良いのか、このまま知らずにいることのほうが良いのか。不意に何かの機会に知らされることなくそのまま一生を過ごすことができれば、それはそのほうが幸せなのかもしれない。知ってしまっている身からすると、そもそも知らないでいること自体があまりに不憫に思えるし、知らないでいた時間が長ければ長いほど、知らされた時、なぜ今まで知らされなかったのかという悔やみが大きいかもしれない。なぜ私がこんなことを抱えなければならないのか。
 女のもとに料理が運ばれてきた。イカ墨スパゲティだ。大盛りで注文したのか、皿からはみ出すほどの量だ。女は本から目を逸らし、スパゲティをじっと見つめる。麺の表面が火照るようにぬらぬらとしている。具材は、ほとんど乗っていない。女は握りしめていたフォークをぬらぬらの山に突き込み、口の高さまで持ち上げる。陶磁器のような顔色で、唇は白みがかっている。覚悟を決めたように、女は麺を啜り上げる。ぞば、ぞば、ぞば。麺は抵抗するかのようにソースを撥ね飛ばし、グレージュのブラウスに小さなシミを2、3つくった。ぞばぞばぞば。女は構うことなく二口目を啜る。麺はさっきよりも直線的な動きで唇に吸い込まれていく。麺は女の頬を肥大しすぎたできもののようにぱんぱんにさせている。咀嚼のたびに咽喉全体が蠕動して、顎がその手綱を引いている。
 なぜ私がこんなことを抱えなければならないのか。ずっとこの煩悶が続いていくのであれば、私としてはいっそ単簡に告げてしまったほうが楽になるのもしれない。私も私自身の衛生を考える権利はあるだろう。告げるという決断が過ちだったとしたら、告げたあと私は悔やみを抱えながら一生を過ごさなければならない。告げるという能動的な行為の過ちのほうが、告げぬという罪悪よりも大きな悔恨を生むような気もする。そのリスクを考えると、私は知らぬ存ぜぬとしていたほうが安全である。知らぬが花。知らぬが、花。その花は醜く罪の根を張って、辺りに劣悪な種子を飛ばすだろう。女の啜りは徐々に激しさを増して、イカ墨を四方八方に飛ばし続けている。山のような麺は一向に減る気配がない。女の髪はぬらぬらといろめき立ち、頬は紅潮して腫れ上がり、目元はかすかに笑みを浮かべているようにも見える。告げた時、どんな貌をするだろう。ショックを受けながらも告げるという勇気ある行いに感謝の念を浮かべるだろうか、それとも、告白を自らの苦しみから逃れるための偽善と捉えて眉間を歪ませるだろうか。髪が重力に従ってゆっくりと床に向かって垂れ下がっていっているように見える。もしかしたら、垂れ下がったあと、テーブルの脚をつたってテーブルの底、皿の底を通過し、スパゲティと絡まり合って融合して、そのまま口の中に啜り込まれているのかもしれない。私としては知らなかったほうがこの苦しみを抱えずに済んだわけだから、そのほうが楽だっただろう。ということは、知らせないほうが良いのか。立場が異なるから、それは言い訳に過ぎない。こうして私が煩悶していることを知らずにのうのうと生きているのを腹立たしく思う。告げる時には、私がどんなに苦しんだのかじっくりと教えてやる。苦しみを理解してもらうことで私は救われるのだろうか。きっとただお互いの苦しみが増幅するだけだろう。滑稽な憶測は確信に変わった。髪は分け目からゆるやかな滝のように床に流れてゆき、皿の上に湧き出てスパゲティの山となり、女の入り口に吸い込まれていく。この懊悩は誰のためのものだろうか。お互いのためだとしながら、畢竟、私はこの懊悩を弄んでいるだけなのではないか。そうだとすると、こんなにも卑しい行為はない。卑しい。なにが煩悶だ。単なる自慰行為だ。穢れた賤しい右手を切り落とせ。分け目の滝は落下速度を増して、怒濤の勢いで巻き上がりながら皿の上に噴出して火山となり、唇はばろろろろろと振動しながら黒い飛沫を上げて、それが静謐の鱗粉を撃墜して轟々と店の中の空間全体が小刻みに震え出している。はやいことこの懊悩を手放さなければならない。告げなければならない。告げることが過ちであったならば、お互いの手首を切り落としてしまえばいい。それで失った手を取り合って滝壺に身を投げてしまえばいい。私は席を立った。いつの間にか床じゅうをぬらぬらが這い尽くしているが、構わず踏みしだいて出口に進む。漆黒の紐はしつこく足首に絡みついてこようとするが、鋭く空を蹴り上げてそれを阻止する。私の注文は来なかった。ふわとろオムライスは昔ながらのトマトケチャップスタイルだ。スプーンを入れると半熟のたまごがバターの匂いを発散させながら悔い改めろと責め立ててくるだろう。私はそいつをチキンライスとトマトケチャップとをぐちゃぐちゃに混ぜ合わせてパンツの中にしまう。あとで食ってやるからな。切り落とした手首を匙にして口の中に掻き込んでやる。出口のドアノブに手を掛けると、足元に文庫本が流れてきた。ブックカバーには「瓜」と刻まれていた。くだらない。女に本を投げ返してやると額におもいきり直撃、女はそのまま床に崩れ落ちて、分け目の滝は逆流して女の身体を飲み込んでしまい、そして店の中のあらゆるものを啜り込んでいく。外に出てしずかに扉を閉めると、外はいつの間にか夕刻になっていた。血だまりのような、陽。

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