執着するほどの今を。

日常生活がただただ流れていき
生きてるのか死んでるのかもよくわからなくなったりする。
ただ実際のところ、退屈と引き換えにメンタルは安定していて
概ね楽しく暮らしている。

しかしだな、
やはりヒリヒリしていたい。
その時、私は生を感じる。
皆もそうだろう、と
投げつけるつもりはさらさらなく、
私がそうである以上、
そうあり続ける道を模索し続けるしかないのだ。

自分の時間が終われば
黙って透明人間になれる。

大きい小さいに関わらず
スポットライトに照らされている時だけは
生き恥晒している時だけは
その瞬間に執着していられる。
私にとっての生とはそういうものなのだ。

それ以外の時間はリビングデッドよろしくとばかりに
街中を彷徨っている。

幾度となく
目的を持とうとしてみたけれど
なかなかうまく行かない。
そう考えると、
どこか悲しい気持ちにもなるけれど

裏を返せば、
それだけ魅力的なものと出会えたのだから、
私はツキがあるのだろう。

安定した自分になれば
もしかしたら考えも変わるかもな
なんて思っていたのだけれど
全然そんなことはなくて。
仮にもし年収1000万もらえたとして
一等地に立派な戸建てを建てれたとしても
心の奥底に潜む本心は
何も満足してくれないだろうな。

でもステージの上にいるあの時間だけは
どんなに冷ややかな目で見られようと
仮に生卵を投げつけられても
生き続けられるんだろうな。

命は短いけれど
芸術は長く続いてくれる。

こんな私にも
次のライブを待っていてくれる人がいるだなんてのは
奇跡だ。
でもそれをなんとか14歳の厨二病が
手繰り寄せてきた人生なのであれば
それはそれで私の人生の軌跡だ。


SNSの向こう側に人はいるけれど
SNSそのものには温度も何にもないな。
顔も知らないやつに何言われたって本当にどうでもいいんだな。
興味ない人間に割いている時間なんてこれっぽっちも残されてない。
命は短い。
作品を作って、しっかりと資金を作って
歌う。歌いに行く。原始的なことの積み重ね。
知覚することで理想を近くしていく道中。


南鳩ヶ谷という曲は
埼玉に越してきて
内藤さんと朝方まで飲んだ帰りの電車で作った曲。
上野駅で見た東雲色の空。
埼玉から銀座へ向かう通勤電車とは対照的に
自分しかいない車両。
東京でもこんな光景があるんだなーと思いながら
小さな幸せを抱きしめていたいと思った日のこと。
そんな瞬間に執着していたい。
その終着駅の歌。

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