テミスの瞳(1)
これは、今よりもちょっとだけ未来の話。
季節は初夏で、青い空には、蒸しパンみたいな形の雲が呑気そうに浮かんでいた。その下で、涼しげな夏服姿の中学生たちが、ゆっくりと校門へ続くゆるやかな坂道を登っていた。友達と何気ない会話をしながら歩く者や、のんびりとした足取りで歩く者もいれば、その間をさっそうと自転車で駆け抜けていく者など、おのおのが自分のペースで学校へ向かっていた。
青柳翠は、坂道の途中で空を見上げていた。柔らかな風が、翠の肩口まで伸びた黒い髪を優しく揺らす。眩しいほどの光に、彼女は目を細めた。
きょうも暑くなりそうだ。
翠は、そう心の中で呟きながら歩き出した。
坂道をしばらく行くと、石造りの立派な校門が現れた。その前では、赤いジャージに身を包んだ四十代ほどの男性教師が、声を張り上げていた。
「早くしないと、遅刻するぞー!」
ホームルームの時間にはまだ三十分ほど時間があるので、もちろん、これはただのおどしだ。翠は赤ジャージにおはようございます、というと、そのまま中に入った。
翠たちが通う亀の井中学校は小高い丘の上にあった。田んぼが広がるのどかな田舎の光景にしては不釣り合いな、ガラス張りの校舎以外はなんの特徴もない、小さな学校だ。
十年前に生徒数が減った二つの中学校が統廃合することでできたこの学校は、現在は生徒数が一学年につき一クラスまで減っており、おまけに教師の数も少なく、校長を含む十人くらいの先生方でなんとか回していた。
翠が昇降口から下駄箱に入ると、下の学年らしき女子生徒達が「おはようございます」と声をかけてきた。あいさつを手短に返しつつ、彼女は教室に向かった。翠が所属する三年生の教室は、校舎の二階にあった。
一歩教室に入ると、けたたましい笑い声がこだました。窓際で、三人の女子生徒たちが大声で会話していた。左側では、短めの髪で、前髪を赤いヘアゴムで縛っており、机の上に頬杖をついていた。真ん中では、肩ぐらいまでの長髪で、中心で分けた前髪の両側を青い花の飾りがついたヘアピンで止めていて、なよやかな体を大きな窓枠にもたれさせていた。右側では、黄色いシュシュで髪をポニーテールにした女子生徒が赤いヘアゴムの前の席の机の上に座り、足をぶらぶらさせている。
赤いヘアゴムが何か口走ると、ヘアピンの娘が太ももを叩きながら大笑いした。それにつられて、ポニーテールも大笑いする。この三人は、一年の頃からの仲良しで、こうやって窓枠で取り止めのないおしゃべりを三年間ずっとやっていた。
前の入り口から入った翠は白い黒板の前を通った。朧げに輝いている黒板に彼女の影が大きく映る。その前を通るとあの三人娘の前に出た。
「おはよう」
翠が三人に向かって挨拶すると、彼女たちは、口々におはよー、と挨拶した後、またおしゃべりに戻って行った。
「よっしゃー、これで内申点ゲットー!」
「やったね」
そんな声を耳にしながら、翠は席についた。
最近みんなずっとこうなんだよなあ。
翠は、かばんを机の上に置きながら苦笑した。
クラスのみんなが異様に内申点というものを気にし出したのは、三年生になってからだった。内申点というのは、中学に入ってからの成績を示したものなのだが、そういうのをわかっていないのか、彼らはそれをいい行いをするともらえる点だと勘違いしていた。どうしてそんなものに固執するのかというと、彼らは都会の高校、しかも県の中心部にある高校を狙っているからだった。しかし、そういうところに行くには、立派な成績を治めるか、何か部活で活躍するなどして、推薦で行かなければならなかった。勉強もだめで、部活でも––部活は総合運動部と総合文化部の二つしかなく、いずれも形骸的なものだった––活躍したこともなかった多くの生徒たちは、なんとか先生にいい評価をもらおうと躍起になっているのだった。だから、翠に挨拶しただけでも、一つ徳を詰んだような気持ちでいるわけだ。
何はともあれ、これが翠にとってお決まりの朝の光景だった。翠は、このクラスの代表委員を務めていた。文字通りクラスの代表を務める彼女にとって、挨拶とそれの啓蒙は、代表委員としての務めの一つだった。
別に、みんなが言っているような内申点目的でなったわけではない。ただ、人の役に立つ仕事がしたい、それだけであった。
そんな彼女には、座右の銘にしている言葉があった。
人のために動ける人間になりなさい。
これは、翠の小学校の時の校長先生の言葉だ。校長先生は、とても優しい人で、クラスの男子にちょっかいをかけられがちだった翠を、励ましてくれた。翠にとっては、今でも尊敬している人だ。その人の言葉を信じて、翠は生きてきた。
(続く)
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