首相官邸HPの三権分立の図について、過去に遡るとともに、間違った図を掲載した意図について考えてみる

※本稿では「国民」という言葉を多用しています。本来、「各機関への監視」をするのは日本国籍保有者に限らず、日本に在住するすべての人であると考えられます。何故ならば、日本国籍保有者以外も、日本における政治的による影響を受けるため、権力の濫用を防ぎ、意思を表明する権利があると考えられるからです。そのため「国民」という表現を使うことは、適切ではないと考えています。しかし、今回は「国民」と記載のある図の話ですので、そのまま「国民」を使用します。予めご了承ください。

さて、下記ページが思いのほか閲覧されました。ありがとうございました。

ツイッターの方で、過去も同じ図が使われていたと情報提供がありましたので、確認してみました。


首相官邸HP

下記図が掲載されていた「首相官邸 内閣制度の概要」は、2019年3月1日時点まで確認できました。

2019年3月1日時点の「首相官邸 内閣制度の概要

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また、下記図が掲載されていた「首相官邸 II 現行憲法下の内閣制度は、1998年まで遡って確認できました。

1998年1月28日の「首相官邸 II 現行憲法下の内閣制度」

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2つの図を見ればわかるように、首相官邸HPの図は、1998年1月28日から一貫して「内閣→国民」となっていることがわかりました。

首相官邸キッズ

一方、正しい図だった、首相官邸キッズについては、複数時点の図を確認しましたが、いずれも正しい図でした。途中で何回もリニューアルされているようで、いくつかのバージョンがあるようです。しかし、「国民→内閣」と正しい矢印の向きになっています。
何点か掲載します。

下図は、2008年1月10日時点の「首相官邸キッズルーム 三権分立

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下図は、2009年6月19日時点の「首相官邸キッズルーム 三権分立

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下図は、2013年9月2日時点の「ミミズク博士と一緒に社会科を学ぼう > 三権分立って何?> 5.バランスをとるしくみ」

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下図は、現在の図です。
こちらは2019年12月24日までしか遡れませんでした。
2019年12月24日の「首相官邸キッズHP 三権分立って何?

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いくつかの図を見てきたように、首相官邸キッズHPの図は、2008年1月10日時点から一貫して「国民→内閣」になっていることがわかりました。


首相官邸と首相官邸キッズの図の違いのまとめ

今まで見てきたように
・首相官邸HPは、1998年1月28日から、一貫して「内閣→国民」
・首相官邸キッズは、2008年1月10日から、一貫して「国民→内閣」
ということが確認できました。

まず、ここからわかることは、特定の内閣によって、図が変えられたのではないということです。

首相官邸キッズHPの図はどうして正しいのか

今までは事実関係の確認でした
ここから先は、私の個人的な意見です。

首相官邸キッズHPの図が、一貫して正しい図だった点についてです。
これは、子供たちは学校で正しい図を習うということが大きいと思います。
首相官邸キッズHPを閲覧しようとする子どもは、ある程度興味があって閲覧していると考えられます。
また、先生も確認のために閲覧するかもしれません。
すると、間違った図が掲載されていればすぐにわかってしまいます。
だから、HPの作成者は正しい図を掲載せざるをなかったと考えられるのです。

首相官邸HPの図が正しいという意見について

前回のnoteやTwitterでレスがあり、『「行政サービスの提供」を表しているだけであり、問題ない』『国民には内閣を監督する制度がないからかけなかった』など、今回の図は正しい、と主張される方がいました。それに対する私の意見を最初に述べて、あえて首相官邸HPが間違った図を掲載した意味を考えていきたいと思います。

まず考えていただきたいのは、素人が意味も分からず、適当に矢印をつけるのであれば別ですが、特定の目的のために図を作る場合は、何らかの規則が見いだされるのが普通だということです。

図の内容によっては、「内閣→国民」が正しいことは、もちろんあります。
例えば、「各機関から受けるサービス」を表す図であれば、矢印が内閣から国民に向かうのは当然でしょう。
しかし、そうであれば、国会、裁判所についても、「法律」「裁判」などと矢印が入るはずです。
ところが、そうはなっていません。

そして、今回は「三権分立」の図についてです。
三権分立は、「三つの独立した機関が相互に抑制し合い、バランスを保つことにより、権力の濫用を防ぎ、国民の権利と自由を保障する」ことを目的としています。
すなわち、「如何にして権力の濫用を防ぐか」がこの図の主題です。

憲法12条に「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない」とあります。国民には各機関を監視する権能とともに責務があるのです。従って、矢印は「国民による監視」というが意図だと読み取ることが自然です。

具体的な制度として、国会に対しては選挙、裁判所に対しては最高裁判所国民審査があります。それぞれ、これが矢印の名称として記載されます。
内閣に対しては、直接的な制度はありません。
しかし、世論によって、政策を変えさせたり、支持率の低下により総理の交代をさせるなど、一定の力を持ちます。これが行政への監視機能として働きますので、「世論」と記載されるのです。

しかし、首相官邸HPの図は、「世論」の記載はなく、「内閣→国民」の矢印ととに「行政」と記載されています。先に述べたように、意図して作成した図には何らかの規則が見いだされます。逆に言えば、通常認められる規則性がない場合には、そこに何らかの意図があるはずです。

単なる勘違いとは思えません。
首相官邸HPともなれば、幾重にもチェックが入り、明らかな間違いの図はどこかで訂正されるからです。

間違った図を掲載した意図について

それでは、「内閣→国民」をした、その意図は何でしょうか。

まず、「国民からの監視を否定する」という意図があると考えられます。
何故ならば、行政から何らかの作用を表現するだけならば、もともとの「国民からの監視」という矢印はなくなりません。敢えて、「国民からの監視」という矢印を消したのですから、「国民からの監視を否定する」意図があったとみるのが自然です。

さらに、矢印の方向を考えれば、「内閣(行政)が国民を監視する」という意思の表現と読み取るべきだと思います。

ここで思い出されるのが、「集団暴徒化論」です。

集団暴徒化論とは、東京都公安条例事件(昭和35年7月20日最高裁大法廷判決)で示されました。少し長いですが、最高裁の判決文の一部を転載します。なお、判決文の直後にものすごくざくっとした判決文のまとめをしてありますので、判決文は読み飛ばしても大丈夫です。

およそ集団行動は、学生、生徒等の遠足、修学旅行等および、冠婚葬祭等の行事をのぞいては、通常一般大衆に訴えんする、政治、経済、労働、世界観等に関する何等かの思想、主張、感情等の表現を内包するものである。この点において集団行動には、表現の自由として憲法によつて保障さるべき要素が存在することはもちろんである。ところでかような集団行動による思想等の表現は、単なる言論、出版等によるものとはことなつて、現在する多数人の集合体自体の力、つまり潜在する一種の物理的力によつて支持されていることを特徴とする。かような潜在的な力は、あるいは予定された計画に従い、あるいは突発的に内外からの刺激、せん動等によつてきわめて容易に動員され得る性質のものである。この場合に平穏静粛な集団であつても、時に昂奮、激昂の渦中に巻きこまれ、甚だしい場合には一瞬にして暴徒と化し、勢いの赴くところ実力によつて法と秩序を蹂躙し、集団行動の指揮者はもちろん警察力を以てしても如何ともし得ないような事態に発展する危険が存在すること、群集心理の法則と現実の経験に徴して明らかである。従つて地方公共団体が、純粋な意味における表現といえる出版等についての事前規制である検閲が憲法21条2項によつて禁止されているにかかわらず、集団行動による表現の自由に関するかぎり、いわゆる「公安条例」を以て、地方的情況その他諸般の事情を十分考慮に入れ、不測の事態に備え、法と秩序を維持するに必要かつ最小限度の措置を事前に講ずることは、けだし止むを得ない次第である。

簡単に言えば、「国民のデモや集会は、一瞬にして暴徒と化す可能性があり危険であるから、公安条例によって制限をしても問題ない」ということを、最高裁が言っています。

また、2013年の特定秘密保護法の審議の時に国会前で行われたデモについて、「テロ行為とその本質においてあまり変わらない」と語った石破茂氏の言葉も思い出されます。

デモや集会は、意思を表明する手段として民主主義に欠かせない行為の一つです。従って、その行為は当然尊重されなければなりません。
しかし、日本では、デモや集会は、暴徒化する危険な行為だと一方的に決めつけて、封じ込めを図っているのです。
このような意図が、先の図にあった「行政による国民の監視」に現れていると考えられます。

ほかにも民主主義を実現する手段として、チラシ配り、街頭演説などの手法があります。実はこれらについても、「行政による国民の監視」が行われています。
例えばチラシ配りについては、2002年に、たった一人の公務員によるチラシ配りを逮捕するために、一ヶ月近くも、延べ人数100人以上の警察官により、尾行や盗撮によるが行われていました(堀越事件)。堀越事件は、無罪判決となりましたが、無罪を勝ち取るまでに10年近い年月を費やしました。また一方で、「管理職員」の地位を理由に有罪判断されたのが、世田谷事件です。

堀越事件などの、勤務時間外のチラシ配りが問題となるのは、日本では、勤務外であっても政治的中立性が要求されるとして、刑罰により、公務員への政治的行為の禁止されているからです。

一方で、公務員が、職務時間中に明らかな選挙応援をしても、政治的中立性が問われない場合もあります。
例えば、昨年の参議院選挙においては、「秋田市山王の県庁前で10日に参院選候補者が街頭演説した際、県職員数十人が勤務時間中に県庁敷地内で候補者陣営と共に、勝利を期した掛け声を上げた」ため、政治的中立性が害されたのですが、何ら問題とされませんでした。

政治的中立性という概念は、政権与党への応援については問題とされず、野党、特に共産党の場合は厳格に適用されるという、非常に偏りのある適用がされています。政治的中立という隠れ蓑をまとった、政治的弾圧に近いと感じています。

他にも、行政による国民の監視は、様々なところで行われています。
共謀罪の時にまとめられた資料がありますので、お時間のある方はご参照ください。

共謀罪法案に反対する法律家団体連絡会 今も行われている市民監視の実態事例集

この事例集に記載されている「大垣警察市民監視事件」は、風力発電施設建設に反対する単なる環境保護運動なのに、警察が個人情報を調査し、企業に情報提供をしています。

こういう事例を見ると、市民運動など怖くてやれないと考えてしまうかもしれません。警察や行政にとっては、それが狙いの一つでもあると考えられます。
常に監視をされているかもしれないと意識することで、行動を抑制し、自ら従順になっていきます。弾圧するまでもなく、市民が政府に反抗する力を失っていくのです。

本来は、国民が、権力の濫用がされないよう、常に行政を監視するのです。
ところが、日本では、行政が国民を監視し続けているのです。
私たちは、どうしてこんな不自由を強いられるのでしょうか。
市民活動はもっと自由に行われるべきなのです。

今私たちが考えることは・・・

さて、田中正造が天皇に直訴したことで有名な足尾銅山鉱毒事件は、農民の反対運動は弾圧されました。当時とは違い、今は人権保障に守られています。行政は、国民を監視するのでなく、国民の生活に奉仕する存在です。ところが、未だに行政は、国に逆らう市民を敵視するという傾向が残っているように感じます。

そのため、何をするかわからない市民を常に監視しておきたい。
そういう意思の表れや、実際に監視を行っている実態が反映されたのが、「内閣→国民」という矢印なのではないかと思います。

私たちが住んでいる日本は、自由に意見が言える社会だと、多くの人が思っていると思います。
しかし、実際には、政権批判や行われている政策に対する批判を言ってはいけないという雰囲気が作られています。また、少しでも政権批判や政治的な意見を言うだけで、圧力をかけられ、口を封じられてしまうことがあります。

つい最近、検察庁法改正案に抗議する意思を表明したことで、バッシングを受け、きゃりーぱみゅぱみゅさんは、ツイートを削除せざるを得ませんでした。

私たち市民がものを言えないと、どうなってしまうのか。
単純化すれば、市民の意見が政治に反映されないために、私たちの暮らしがどんどん悪くなっていくということです。

今、新型コロナウイルス感染症対策が大きな問題になっています。

2月27日に、安倍総理は突然、学校の一斉休校を要請しました。ところが、児童を見るために仕事を休む保護者がおり、収入が減ると言うことが想定されていませんでした。このため、SNSを中心に大きな抗議の声が起こり、使い勝手があまりよくありませんが、助成金や支援金の制度が作られました。

その後、自治体による自粛要請が相次ぎ、収入減少や売上減少を補うための、生活保障、事業者保護政策の必要性が叫ばれました。その声に押されて、擦った揉んだはありましたが、特別定額給付金、持続化給付金の制度が作られました。

しかし、これらの政策だけでは足りないところが多く、二回目の支給を求めたり、事業者の家賃補助、大学生の生活費・学費支援などが求められています。

私たちの意見を無視する政治をしているのであれば、声を上げて変える必要があります。それが、国民による内閣の監視、「世論」になります。

コロナ対策のための経済援助などは、野党が先に当事者の声を聞き、支援するための提案をしたり、法案にまとめて国会に提出した後に、与党がそれを追いかけるという展開が多くなっています。
例えば、10万円の一律給付については、公明党が補正予算提出のギリギリになって要求した4月19日より、一ヶ月前の3月18日に、国民民主党が政策を提案しています。

また、先に挙げた、家賃補助、学生支援についても、野党はすでに法案にまとめて国会に提出しています。ところが、与党は、これを書いている5月14日時点で、まだ与党案の大筋が決まったのみで、法案提出に至っていません。

三権分立の図にあった「世論」という矢印は、難しいことを要求してるのではありません。「コロナが大変だから、生活の支援をしてほしい」と考えて、SNSで意見を述べたり、政府のやっている政策が足りなければ、批判することなども、国民による内閣の監視の意義を持つのです。

そして、私たちの声をに耳を傾けて、支援を真剣に考えている政治家が誰なのか。しっかりを覚えておく必要があります。
それが「選挙」です。各議員に、市民の声を届けることも必要です。国民による国会の監視は、各議員に声を届けることで、いつでも行うことができるのです。

コロナのために自宅にいて、初めて国会中継を見られた方もいると思います。
与野党について、今までの印象と違うことを感じられた方もいると思います。
国会が、内閣の暴走を止められるのか。また国民による内閣の監視、国会への監視はしっかりとできているのか。

三権分立の図を見ながら、そういう点についても、考える機会になればと思います。













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