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許されること ガールズバンドクライ#9

ついに残すところは最終回13話のみになった。#8-#12各話ごとの感想を連続してあげる。6月28日の13話オンエアには間に合わせるつもり。
タイトルは手島nari先生のツイッター(@_17meisai23)から

桃香の瞳に映るのは ガルクラ#1-#3

歩むべき道を示すもの ガルクラ#4-#7

弱さと向き合う ガルクラ#8

9話

あるグループに、後から遅れてはいるというのはしばしば勇気がいる。ルパと智は、桃香、仁菜、スバルで結成した”新川崎”に、後から遅れて合流したメンバーである。すでにあるコミュニティーにどのように居場所を見つけるかというのは、内気な人にとっては難しいことであろうことは、身につまされる。居場所はどのようにして、成立するのだろうか。
居場所と感じられるようになるのは、どのような場合だろう。

まず必要なことは、その場にとどまるということである。同語反復的だが、居場所になる前は、アウェイである。とどまったからと言って、居場所になるわけではない。人として認められるということ、存在を許されるということ。どのようにして人と認められるのか。

まずは、人はナラティブな存在になることであり、その人の個人史がつむがれる必要がある。その人とはどんな人かが、相手に定義されるのではあるが、この時重要なのは、固有名として定義されることであろう。固有名は、確定記述の束に還元されない。確定記述として還元されず、開放された状態として認知されるための方法の一つが、ナラティブとして、因果ではなく理由関係の連続として、前後即因果の誤謬を濫用して個人史を語ることではある。あるいは、体験として共有していくことになる。ともに何かを作り上げる体験は、相互の関係をより強固にするだろう。この意味で、後から入ったメンバーは、共有されている体験が相対的に少ないために、人としての物語の解像度が低いのである。しかし解像度が低いことは、お互い様でもある。互いの個人史を少しづつ開示していくことが、コミュニティ形成には需要である。その意味で、9話はルパと智の個人史を開示する回でもあった。

仕事と労働を区別し、世界に対して新しい事物を作り上げていくことを仕事とし、生まれてから死ぬまで後戻りできない直線的なモデルを想定する、ハンナ・アーレントの人生観では、他者から許されるということは、人生の不可逆性に対する唯一の解法でもある。他者の許しを私たちは常に必要としている。居場所を求めることは存在を許されることを求めることでもある。
智の音楽的な才能は、メンバーの中では、桃香に次ぐか同等となものとして描かれている。当然批判的な意見もあるはずだが、智は口にすることができない。過去の失敗は、ストレートな批判がバンドを分解してきたことによる。その記憶が、智を臆病にさせている。
仁菜はギターの技量について智に評価を求めた。智は辛辣な批評を加える。臆病になっていた、智にとっては破滅を招きかねない言動であった。しかし、率直な、”ダメ出し”を経てもなお、ひたむきさを失わない仁菜の在り方は、智にとっては許しなのである。臆病さを乗り越えた智は、バンドの音楽性について意見を求める桃香に対しても、率直な意見を言う勇気を持つ。「面白くない」という智の批判を、「だよな」と受ける桃香にとって、面白くないことは面白いことなのだった。
「この人達本気だ、うまさとか内容とか関係ない、本気でステージに立ってるって」
音楽に本気で取り組む体験を共有していくことが、バンドを文字通り結束させていく。臆病さを乗り越えた少しの自己開示の先に、智は居場所をみつけるのであった。

最終話はどうなるのか。個人的には、横浜の1000Clubでの1stワンマンライブはまだ劇中に登場していない。対バンライブはクラブチッタで行われ、収容人数1300人。収容数から見れば、クラブチッタの方が格上かもしれない。劇中に1000Clubが登場するのであれば、2期になるのか?などと期待している。


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