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歩むべき道を示すもの ガールズバンドクライ#4-#7

登場人物が増え、群像劇としての各キャラクターが掘り下げられていった。彼女たちが出会い、共に進もうとする中で、何を目指すのかが問われていたように思う。それぞれの背景が明らかになり、理解が進むにつれ、関係性も変化し、物語は重層的になっていく。

4話


4話の冒頭、録音の取り直しのシーン。#1-#3と比べて、桃香と仁菜の関係性が逆転していた。#1-#3では桃香が仁菜をバンドに誘っていたが、仁菜が桃香に前に進むように促す形に変わっているのである。仁菜がバンドにはまっていくにつれて、ダイヤモンドダストに勝ちたいという気持ちが、関係性を変えていく。
女優の卵の時のすばるは、天童の孫としての”仮面”を脱ぐことができない。それが、すばるの女優としての限界になっている。演じることは、決して別の自分になるものではない。自分の心の中にないものは、演じることはできない。すばるから俳優仲間と紹介されたため、桃香と仁菜は、テーマだけが決まっている即興の芝居”エチュード”をするように、天童から指示される。エチュードの中での、仁菜は、演技にかけこつけて、すばるにバンドをやめてほしくないという、自分の心情を表現する。セリフは恋人の心変わりを責める内容になっているが、その場の素の心情であって、演技と呼べる技術ではないかもしれない。それでもなお最終的にはこのエチュードの仁菜の演技が、むしろ、天童のこころを動かし、今後のすばるのバンド活動への理解・許可につながるのではないか、と思った。

”私のことは私が決める”

ここにすばるのロックがあるのだろう。怒りも喜びも悲しも、全部ぶちこめる。それは俳優の道にも通じている。

5話


5話では初めてのライブに向けて、ストーリー進行する。お金を取って、お客さんの前に立つ。仁菜はバンド活動にのめりこんでいく。
4話では、仁菜とすばるのけんかを仲裁するのは桃香だった。5話では、桃香と仁菜の間をスバルが取り持とうとする。仁菜は常に誰かにかみついて、変化を求めている。

何か困難な問題にぶつかったとき、私たちの取りうる方法は二つある。一つは変化である。自分たちのスキルや、考えを研ぎ澄まして、変化させ、問題を解決する。変化に基づいて、困難を乗り越えることを、成長と呼ぶ。仁菜は常に、成長を求めているともいえる。自分にもメンバーにも。
ただし、成長を続けることは、苦痛を伴う。うまう行くことばかりではないからだ。
方法の二つ目は、受容である。自分たちのしてきたことを振り返って、これはこれでよかったよね、と受け容れる。問題は解決しないが、困難ではなくなるかもしれない。受容に基づいて問題を取り扱うようになることを、成熟というかもしれない。変化と受容は決して対立するものではない。受容することによって、新たな視点を得て変化の兆しを得るのかもしれない。受け入れ難きを受け容れることそのものに変化の要素を含んでいるかもしれない。
若者は、変化を選択しがちである。達成が難しく、無謀ともいえる場合でも、妥協することができない。苦痛をいとわない突進の果ての成長は、しばしばまぶしい。

対バンライブでのTシャツには新川崎(仮)メンバーの隠したい過去をプリントされた。仁菜の選択である。
嘘つき、不登校、脱退は、それぞれが隠したいことを示している。
大女優の孫としてふさわしいふるまいを続けること、やりたいことやりたいと言えないこと。すばるは嘘をついている。
桃香は仁菜に、「どうしてこっちに来たか聞かれたくないだろ」問いかけるシーンがある。上京の理由は仁菜が最も隠したいことである。それは言うまでもなく、いじめと不登校だ。教員の家庭で育ち、学校という環境への過剰適応を迫られて育った仁菜にとって、学校教育の”普通”から外れる決断は、「布団かぶって叫びたくなる過去」であり「思い出すだけで全身から汗が噴き出す後悔」が潜んでいる。
桃香にとっては、ダイヤモンドダストからの脱退は過ぎたこととして忘れたいことなのかもしれない。脱退にかかわる感情は複雑でまだ明らかにされていない。
隠したいことをさらけ出すこと。ファーストライブでのロックである。さらけ出すことは一見受け容れることに見えるかもしれない。ここでの暴露は、受容ではない。隠したいこととして、抑圧し見ないようにしてきた苦しさを直視して、抗うために立ち上がる、という意味がある。苦痛を恐れず、弱さを直視すること。これもロックといえるだろう。

6話

6話では残り二人のメンバーが加入に向けて、関わってくる。ダイヤモンドダストへの対抗心から、売れるための道を模索する仁菜と、商業的な音楽の売り方を忌避する桃香との対立は深まる。二人の道は、分岐点に差し掛かっている。
私たちが人生という旅路において、一歩踏み出す時、その方向を決める方法はやはり二つある。
一つは、目標として到達地点のを定めること、旗を立てることである。将来のなりたい自分を想像して、それに向けて歩みだす。具体的でわかりやすく、成功すれば達成感も得られやすいかもしれない。一方でその遠さに圧倒されてしまったり、たどり着いて周りを見回したときに思っていたのと違うということも起こりうる。
もう一つは今いる地点から向かう方向を示すコンパスを見ることである。コンパスを見ていると前は見えない。その先に何があるか、わからないかもしれない。それでも日々の歩みを確認することができるかもしれない。コンパスは、その人が大事にしたいこと、ポリシーと言える。
多くの場合、目標地点としての旗は意識しやすいが、コンパスは見えにくい。例えば医師になるという旗を立てたとして、その人のコンパスは何だろうか。コンパスが何であるか調べるためには、それがなぜなのかを問えばいい。なぜ医師にになりたいのか。医師になって難病の治療をしたい。なぜ難病の治療をしたいのか。繰り返し得行くうちに、本当に大事にしたいことが見える来る。たとえばそれは、誰かの役に立ちたいということかもしれあい。もし自分のコンパスが誰かの役に立ちたいということなのであれば、必ずしも医師になれなかったとしても納得できるかもしれない。結婚したいという旗があったとしたら、誰かに愛されることであり、誰かを愛することであり、誰かを信頼することかもしれない。

6話では、武道館が登場する。武道館に立つという、桃香以外のメンバーの旗が建てられる。それぞれのコンパスは別のものかもしれない。別であっても、同じ場所を示すことが起こりうる。
仁菜のコンパスは、明確に示された。「武道館に立ったら、間違ってないって言えるよね」である。自分が信じたものの負けを認めたくない。自分を信じたい、ということだ。コンパスを持つ人は強い。日々の自分のやることが明らかになるからだ。

目標としての武道館で思い出されるのは、地上波TBSの深夜番組プレイリストにトゲナシトゲアリが出演したとき、武道館を目標と語っていたことである。インタビュアーからなぜですかと問われる一幕があったのだ。この時はアニメ放送前だったこともあり、アニメのバンドが目指しているからですとは答えられなかったのだろう。海老塚役の凪都が、「かっこいいからです」とごまかしていたことが思い出される。ここでまた、アニメとバンドとリアルのバンドがオーバーラップしてくる。

前回の記事では、ダイヤモンドダストが大人の都合で売り出されることに対して桃香が反発して脱退した問いう状況に対し、同じように大々的に売り出されようとしている演者としてリアルなバンドメンバーはどのように感じるのか、そこに葛藤は生じないのか、という危惧を書いた。

桃香の脱退の理由は、4話で部分的に明かされている。高齢になってもバンドを続けることがバンドの目標であり、脱退について他のメンバーからは慰留されたが、桃香が断ったというのである。そこには怒りや恨み、復讐心ではなく、道を共にできなかった、申し訳なさがあったようだ。
言いたいことが言えなくなるのはロックとは言えない、というような、音楽性の違いだけなのだろうか。恨んでないのに脱退しなければならないのは。むしろ、桃花を個人的に優遇するような売り方があったからではないか。例えばソロアーティストとして売るなど。自分の音楽を突き進むことで、かえって、ダイヤモンドダストを壊してしまう。それが桃香が身を引いた理由なのではないか。この辺りはまだ明かされていないが、メンバーのコメンタリーを聴くと、うまく処理がされているのだろう。

先日公開されたライブの裏側のドキュメンタリーをみた。

メンバーの売られ方に関する危惧は杞憂に過ぎないようだ。確かにオーディションで集められ、演奏の課題やパフォーマンスの演出といった点で、”大人に売りだされている”という面はあるかもしれない。しかし彼女たちは、(勿論)単なる人形ではなくて、音楽にかける情熱をもって挑んでいる。そして、周りの大人たちは、方向や経験を語り、より良いものを作るために導き、支えているが、型にはめ支配しようとしているのでない。売り手と売られる商品ではなく、音楽とそれにまつわるパッションを届ける、一つのチームのメンバーであることが感じられた。


7話

7話では地方に対バンライブにむかう。バンを借りて泊りがけで地方を回る。エンディングのアニメーションにあるような、駆け出しバンドらしいエピソードである。5人そろってのライブであり、トゲナシトゲアリというバンド名も決定される、節目であろう。仁菜と桃香の方向性も違いも明確になり、桃香は脱退を明言する。(桃香と仁菜は同性ではあるが、物語の作法として、出会いと喪失、再び出会うというボーイミーツガール型の構造なのかもしれない)。桃香をどのようにとり戻すのか、が気になるところではある。

6話までで感想を書こうと思ったが、7話の放送が先に来てしまった。キャラクターそれぞれの背景を丁寧に描き出す群像劇に、リアルとフィクションを意図的にオーバーラップされたメタ構造が加わって、ますます先が気になっている。

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