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普通の人になる ガールズバンドクライ#10

ついに残すところは最終回13話のみになった。#8-#12各話ごとの感想を連続してあげる。6月28日の13話オンエアには間に合わせるつもり。
タイトルは手島nari先生のツイッター(@_17meisai23)から

桃香の瞳に映るのは ガルクラ#1-#3

歩むべき道を示すもの ガルクラ#4-#7

弱さと向き合う ガルクラ#8

許されること ガルクラ#9

10話

個人的な好みの話だが(全て好みの話しかしていないが)、少年漫画で一番熱いのは、かつての敵が一番の理解者として仲間になるところである。ドラゴンボールを思い出してほしい。ヤムチャは盗賊として登場した。クリリンは亀仙人門下の押しかけ弟子だが、当初はライバル心を隠そうともしなかった。天津飯とチャオズは、敵対流派で命を狙っていた。ピッコロは大魔王だし、ベジータは侵略者だ。熱い。

10話は単純に言えば、反抗期の少女が親を許す話である。一般的な親子関係では、幼少期の子供にとって親は、すべての規範を規定する存在である。あるいは神と言ってもいい。お友達をたたいてはいけないとか、お店では走り回ってはいけないとか、法律的なことからマナーまで、それらの階層構造とは関係なく、あらゆるルールを幼児は親から学ぶ。学童期に入ると少し様相が変わる。自分の家庭のルールが絶対的なものではなく、よその家にはよその家のルールがあることをうっすらと感じる。思春期に入るとそのルールはかなり揺らぐ。「悪口を言ってはいけない」と言っていたはずの親が、職場の悪口めいた愚痴を言うかもしれない。「勉強しなさい」とはいうものの、親はそこまで勤勉ではないかもしれない。絶対的な基準としての”神”だった親が、実はそうではないということに気が付く。絶対的な基準が揺らぐわけだから、子のアイデンティティも揺らぐかもしれない。このような不安定さの矛先は当然親に返される。「大人は汚い、嘘をつく」といった形での反発が、思春期の典型であるかもしれない。親は完璧であってほしいという思いが、無意識のうちに反映される。この時期を脱すると、親の親なりの苦労が見えてくる。当然のことながら、親は神ではなく人である。市井の人として、精いっぱい、”親”であろうとした人の限界を知ることで、親の存在を許せるようになる。

思春期の親に対する思いの中には、理解してほしいという無意識の期待がある。幼少期子にとっての親は、何でも世球をかなえてくれる存在でもある。おなかがすいていたり、眠かったりすれば、口に出さずともわかってくれて、必要なものを供給してくれる。親は、自分が何も言わずともわかってくれるという前提は、思春期の間も続いていて、前提が崩れる時の裏返しが「わかってくれない」「理解がない」というこの訴えになるかもしれない。それはもちろん過剰な期待であろう。

子供が家庭からでて、自分の世界を知る過程において、よりどころとなる規範が相対化されて揺らぐのである。

仁菜は、父が何も理解していない、理解できない異物と認識している。経済的には親に頼っており、父も保護者としてアパートの準備や予備校の手続きなどに貢献してきた思いがある。しかし、子どもとしての仁菜は、それを求めてはいない。仁菜が求めるのは完全な理解と受容なのである。
桃香は仁菜に言う。
「お前が一番引きづってンのはさ、いじめでも受験でもないだろう。父親が味方してくれなかったことじゃないのか」

和解のきっかけは姉である。父は娘をすべて理解した話ではないが、娘の力になれるように努力を続け、教育者としてのプライドを捨てて、娘のためになろうとしている。普通の”人”としての、父の苦悩を理解することで、理解を求めることをあきらめ、完全に理解されることがなくとも、支持されていること、愛されていることに気づかされる。
姉は言う「あんたはさ、愛されてるの。あんなだけどおとうさん達は間違いなくあんたのことを愛してる」

父は、トゲナシトゲアリの曲を聴き、いい曲じゃないかという。いい曲とはいうが、父の耳に馴染む曲ではないし、その曲に感動して心を震わせているわけではないだろう。娘が懸命に打ち込んでいる曲だからこそ、いい曲だというのだ。

姉の助言もあって、父の愛の形を少しつかんだのかもしれない。
「先のことなんか考えるなって思い切り飛べってそれが奈落の底へ落ちているのか、大空へ向かって飛んだ瞬間なのか分からないけど」
「だから帰る地面はないしもうもどりたくもない」
と回想し、半ば投げやりにそれでも好きな自分になるために、上京しバンド活動をしていた仁菜は、帰れる場所があることを発見するのだ。それが父の「行ってらっしゃい」であり、仁菜の「行ってきます」なのだ。仁菜には帰る場所がある。

9話から続く、自立とは何かという問い。「自立とは依存先の数が多いこと」は熊谷晋一朗氏の言葉であるが、家庭から自立するとは過程から離れてしまうことではなく、足場にして、別の依存先、頼れる場所をえることであろう。父からは勝手に変えられてしまった鍵を渡される。そこに家族の愛が詰まっている。

ここで少し疑問に思うのは、母の影が薄いことだ。仁菜の家族では、母がいるにもかかわらず姉が母の代わりをしているようにも見える。ほかのメンバーにも母の存在は希薄である。あるいは年上の女性がほとんど出てこない。仁菜と桃香が喧嘩した居酒屋の店員くらいである。一般的に言って、思春期を少し過ぎた若年女性と母の関係は、もう少し濃密で、ちょっとした相談事も母になら話すというケースは多いように思う。ライブハウスのマスターや、レコーディングエンジニアはおっさんである。これが、クリエイター界隈のリアルなのか、何かの伏線なのか、制作側の誰かの個人史の反映なのかはわからない。

ある意味で敵として認定されていた父が、最大の理解者で支援者であるという展開は熱い。年頃の娘を抱える自分を父に重ねてしまった。

最終話はどうなるのか。個人的には、横浜の1000Clubでの1stワンマンライブはまだ劇中に登場していない。対バンライブはクラブチッタで行われ、収容人数1300人。収容数から見れば、クラブチッタの方が格上かもしれない。劇中に1000Clubが登場するのであれば、2期になるのか?などと期待している。


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