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黒い昆虫との戦い

私は昆虫類が苦手である。
どんなに頑張ってみても、こればかりは克服できない。
幼少の頃は、トンボを捕まえたりカマキリを掴んだりも出来たのだが、
大きくなるにつれてすべての虫がダメになった。

私の亡くなった父は、虫取り名人並みに
虫を捕まえて来ては、小さかった私に渡してきた。
私はその度に悲鳴を上げて逃げまどい、
喜ぶと思って捕まえてきた父は激怒。
セミを渡されそうになった際には、
私がセミだとわかった途端に部屋の奥へと一目散に逃げたため、
放たれたセミが、あちこちにぶつかりながら部屋中を飛び回り、
本当に怖かった。
ますます虫が苦手になったのは言うまでもない。
本当に人の気持ちのわからない父だった。

また、社会人になりたての頃、
残業で遅くなってしまった夜に、先輩からお金を渡されて、
「缶コーヒーを買ってきてくれる?自分の分も買っていいから」
と言われたことがある。
お金を握りしめて外に設置してある自販機に向かうと、
お金を入れる場所に、大人の男の人の掌ほどの「蛾」が止まっていた。
追い払うことも、お金を入れることも、
もちろん、飲物のボタンを押すことも出来なかった私は、
お金を握りしめたまま戻り、先輩に苦笑いをされたのだった。

例にたがわず、私は太古の昔から姿を変えずにこの世に生息し続ける、
真っ黒くてテカテカした虫が大の苦手である。
殺虫剤をかけた後の猪突猛進ぶりはもちろん、
触角をうごめかしながらじっとしているところなど、
今まで見てきた姿をちらりと想像するだけで肌が粟立つ。
それなのに、家族と住んでいても、
遭遇する確率が断然高いのは、なぜか、私だ。
母が言う。
「嫌いな人ほど早く見つける」

先日も、夕食が済んだ後、母の部屋に用事があって入った時のこと。
夜だし、無人なのでもちろん真っ暗だ。
電気を付けようと一歩踏み出したところ、
押し入れの中でクリーニングの袋に包まれた毛布がずれるような音がした。
カサカサとも、ズルズルともいえない、何とも言えない摩擦音。
イヤな予感はした。
当初、押し入れの中で荷崩れが起きたのだと、
自分に言い聞かせようとした。
でも、いやな予感はますます大きくなるばかり。
このままにして夜中に母が何かの被害に遭ってもイヤなので、
心を決め、電気をつけて、少しだけ扉が開いている押し入れに近づくと、
そこには、やはり、例の油光りする昆虫が・・・
しかも、足の一部とお尻が荷物の間からはみ出ていた。
叫び出したい気持ちを必死に抑え、しばし観察する。
微動だにしない。
もしかして、もうすでに亡骸になっているのか・・・
近寄って確かめる勇気もない私は、そっと部屋を出て母を呼ぶ。
「殺虫剤とティッシュを持って、部屋に来て」
私は見つけるのは得意だが、退治できない。
秋になり、涼しくなって体調を取り戻してきた母が、
指示されたものを手に、神妙な顔で音を立てずにやってきた。

黙ったまま指をさすと、母もしばしじっと見ていたが、
おもむろに殺虫剤を噴射した。
すると、すでに死んでいるのかと思っていた黒い昆虫、
押し入れの奥に向かって逃げたではないか。
死んだふりしてたのね!と、母がこれでもかと殺虫剤を噴霧する。
あとから掃除が大変なのでは?と私が心配してしまうほどに。

「逃げちゃったわ」
とようやく噴霧をやめた母が、積んである毛布や座布団をそっとどかす・・・

「きゃあっっ」

マンガの吹き出しにありそうな悲鳴をが突然聞こえた。
それを聞いた私は脊髄反射で

「ぎゃああああ」

と叫びながら、全力で部屋の隅まで逃げてしまった。

はっと我に返って戻って見れば、
腰が抜けた母がティッシュに包んだ何かを手に爆笑している。
「いやだ、腰が抜けちゃったわ。びっくりした!!」
と息も絶え絶えに笑いながら言ってきた。
私もその様子と、自分の情けなさに笑いがこみ上げて来て、
ふたりともお腹がよじれるくらいに笑ってしまった。

どうも、毛布に手をかけた途端、黒い大きな何かが飛び出してきて、
とっさに掴んだものの、あまりにもびっくりして腰が抜けたらしい。
腰が抜けつつも、きちんと確保しているところが母である。

「すごーく大きかったのよ!」
と自慢そうだが、見る気には到底なれない。
重ねたティッシュでつかめる母を尊敬してしまう。
キャーなんて声を出す女は信じられない、と日ごろから言っているにもかかわらず、やっぱり「きゃー」と叫ぶ母は可愛い。
自分でも「きゃー」という声が出たことが可笑しかったそうだ。

とりあえず、就寝中の母の安全は守られたので良かったとする。
その後も三日ほど、思い出しては爆笑する、笑いのツボが安上がりな母娘。


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