アルトゥールと振り香炉

鏡に祈る

 アルトゥールは祈らない。いつだって戦場で自分を助けるのは自分であり仲間であるからだ。
 祈ったところで、何が起こるわけでもない。祈る暇があれば、鍛錬をし、作戦を立て、己が身を省みる。それが、「外」と戦う者として自然に身につけた姿勢だった。

 北国の夏も終わりかけ、力ない太陽が出涸らしの紅茶のような色で街を照らし、歩く人の影を長く長く引き伸ばす。通りに面した喫茶店や小物屋の窓が淡い西日を受けて光った。薄紫色をした闇に沈んでいく街のそこここに、きらりきらりと鏡写しの橙が名残を惜しんでいる。
 貴族の邸が連なる街の中心地から、街を守る隔壁へ向けて放射状に伸びる道の一本。北東の門へ向けて坂を下る男がいた。腰までの長い髪や白い肌、均整はとれていても決して逞しいとは言えない体つきからすると、文弱貴族のようにも見える。しかし、筋金を通したようにまっすぐに伸びた背と、毅然と前を見据えて揺らがない視線は、男が邸に籠るばかりの繊弱な性(さが)でないことを雄弁に語っていた。
 この王都ゼールカラに座す王に仕え、騎士として従軍する、彼の名をアルトゥール・アンドレーエヴィチ・レーベデフという。
 かつ、かつ、と硬い靴底が砂色の石畳を打って、靴音が規則正しい間隔でアルトゥールに追随した。さして風も吹かないのにさらりと流れる淡い色の長髪が、彼の姿を認めて声をかけようとした者の口を噤ませる。特段急ぐそぶりもなく、ゆったりとした振る舞いでありながら、アルトゥールの歩調は速い。
 行くあてもない夕食前の散歩であるが、人と話すのを煩わしがる気分と、身に染みついた軍人の所作が、彼の歩幅を大きくしていた。
 用事を抱えているように見えない、というところまでは理解できた少女が、彼に声をかけようとする。一緒に歩いていた少女の母親は、気が向かない日のアルトゥールが大層冷淡であることを知っていたので、苦笑して娘を引き留めた。
 アルトゥールは少女が楽に追いつける速さで歩いてはいない。やめときな、でも、と母親と言い合っていた娘がはたと彼の向かう先を見れば、辻を曲がったアルトゥールの髪がなびいて消えていくところだ。走れば追いつけたかもしれないのに、とむくれた娘に、母親はやれやれと肩を竦めた。

 声をかけるのかけないの、と声を潜めて言い合う母娘のことなど知らないアルトゥールは、何を考えるでもなくただ足を進める。彼は少々気が立っていた。というのも、軍学校に入学すると言ってこの街に来た従弟が、寮へ入るまでの宿として彼の屋敷に居ついているからだ。それだけであれば大したことではない、アルトゥールも初めは快く剣術の指南などしていたし、従弟は素直できちんと言いつけを守る少年だった。まだ彼が字の読み書きを習い始めたばかりのころ一度会ったきりだったが、あまり覚えていないとは言いながら彼はよくアルトゥールに懐いている。
 アルトゥールの心をささくれ立たせるのは、従弟の言動にある些細な仕草だ。
 誰かが出かけると言えば「ご無事をお祈りします」。誰かが怪我をしたと言えば「お早いご快癒をお祈りします」。つまり、なにかと祈るのだ。
 祈る者(マリートヴァ)と呼ばれる、この世界の内地で主流となっている教えを信じる者の特徴だった。祈る者は救われる、祈りこそ汝を人たらしめん、と謳うそれを、アルトゥールは信じる気になれない。
 人の暮らす世界は狭く、都市の隔壁から一歩踏み出せば、通常物理攻撃の効かない魔物(デーマン)が跋扈しているのだ。魔物に対抗する戦闘能力、魔力を持つ人は少なく、都市間の交流や輸送を成立させるためには、魔力を持った者の護衛が欠かせない。
 祈ったからといって魔物は退かないし、人の魔力が向上するわけでもなかった。祈りには、現実的な効果は何一つないのだ。内地と違い、ときに魔物が隔壁を超えて街へ侵入することさえある辺境の街で、祈りに縋る者は少ない。
 代わりに辺境の人々が恃むのは、鏡だ。
 常に自らを映し、己を知り、為すべきことのために磨き鍛える。映す者(ゼールカラ)と呼ばれる教えは、隔壁の外で戦う者の多くに支持され、アルトゥールも例に漏れず信奉している考え方だ。
 北東辺境の守りを固めている都市連合の、中心に位置するゼールカラの街。ここに住まう者は、戦う力を持たない者でも、この教えを信条とする者が多い。家庭の玄関には必ずと言っていいほど等身大の姿見が置かれ、街の至る所に鏡、よく磨かれた硝子や金属板、波の立たない水盤などが置かれているさまは、よその街では見られない光景だ。眩く輝く鏡の街は、人類生存圏の極北東に位置する辺境都市ながら、内地にも知られた有名な街となっている。
 「外」へ出るわけでもない人までが鏡を心の支えにするのは、隔壁の中にいても安全とは言い切れないからだ。戦えずとも、魔物が侵入すれば自力で逃げなくてはならない。その日その時、自分がとれる最適の行動を導き出すために、生きるために。自己を把握することは、街の人間にとって必要不可欠なルーティンとなっている。
 従弟は、アルトゥールの父の妹が内地の都市へ嫁ぎ、そこで生まれた子だ。父親は魔力を持たないただの人間であったが、従弟にはレーベデフの血に受け継がれた魔力が宿った。幼いころ魔物に対抗する力に目覚めた彼は、死ぬまで魔物を見ることすらない人が大半という内地で育ちながら、幼少から戦闘訓練を受けている。そして一五歳になる今年、国内一の精兵養成機関とされるこの街の王立軍学校に入学するために、はるばる内地からやってきたのだ。
 軍学校に入れば、戦闘訓練はよそとは比較にならないほど厳しく、三年課程の卒業前には隔壁の外へ出て実戦訓練も行われる。従弟が生まれたころにその軍学校にいたアルトゥールは、学校と、そして隔壁の外の厳しさを骨身にしみて知っていた。
 何よりもまず彼我の実力差を把握しろと言われ、当然教官から生徒までほとんどが「映す者」だ。「祈る者」もいたかもしれないが、表立って祈るところを見せた者は異端者のように扱われ、爪弾きにされた。同じ戦列に立つ仲間が、悠長に何の役にも立たないお祈りなどにかまけていたせいで自分まで死ぬのはごめんだと、「祈る者」へ私刑じみた暴力を振るうことすらあったのを、アルトゥールはよく覚えている。私刑に参加こそしなかったものの、制止しようとしなかったアルトゥールも、彼らと同意見だった。
 隔壁の外にいる魔物は、通常の人間の膂力や精神力で太刀打ちできるものではない。魔力さえあればどうにかできるものでもなく、倒すためには戦闘技能と魔力の研鑽、そして隊を組んだ仲間との連携が必須だ。いかに才能と素質、経験があろうとも、一人で魔物に立ち向かうのは自殺行為であることを、戦いを繰り返すごとに思い知らされていく。
 だからこそ、仲間の弱さを許容することができない。
 初陣から一五年を経たアルトゥールも例外なく、あらゆる魔物がどれほど弱そうに見えても侮ることなどできない強敵だと、身をもって知ってきた。死んだ仲間、死にかけた自分、たった一体の魔物に壊滅させられた城塞都市、そして最強と謳われた人の訃報。外へ出ることを日常として、数百人いた同期はすでに指折り数えるほどしか五体満足の者がいない。
 従弟がこれから赴く世界の過酷さを知るが故に、ことあるごとに祈る、という彼の些細な仕草が、アルトゥールの気に障るのだ。従弟と、かつて私刑の的になった同期生の姿が重なり、彼に覚えた苛立ちを掘り返される。それはひどく不愉快だった。

 散歩でもして気を紛らわそうと外に出たはいいものの、誰と話すでもなく歩くだけでは気分のささくれも収まらない。ただただ足を進めていたアルトゥールがふと我に返れば、もう街の外れだ。
 アルトゥールが初陣を終えた直後に滅んだ、かつての北限城塞都市に向かう街道門が見えている。隔壁の上に立つ立哨が彼に気づき、姿勢を正して敬礼をしてきたので、アルトゥールも手を挙げて返礼した。
 立哨の足元に黙り込んでいる大門が開くことは滅多にない。錆の目立つ門扉は気難しく沈鬱な重々しさでもって、魔物の侵入だけでなく、存在していたはずの道と街への追憶を阻んでいた。
 気が立っているところに気の滅入るものを見て、すっかりうんざりしたアルトゥールは、踵を返して邸へ戻ろうとする。もう日は暮れた。地平線に溺れた太陽が残した、最後の吐息のあぶくさえ、瞬きの間に弾けて消える。街の端から中心まで、戻るにはかなりの距離の上り坂があり、民家もまばらでろくな街灯もないこの区画に長居する楽しみもない。
 しばし止まっていた足音をまた石畳に刻もうとしたところで、アルトゥールは人の声を聞いた。話し声ではなく、滑らかに音をつなげた、どうやら歌のようだ。声変りを終えたばかりの若い声で、戦いへ赴く人の無事を祈る言葉が連なる。
 男の声にしては細く、しかし撓みはしても折れることを知らない、強く、よく響く声に、アルトゥールは聞き覚えがあった。
 アルトゥールは足早に歌声のほうへ歩き出す。いくらも歩かないうちに歌声は途絶え、闇に慣れた目が古びた教導会の鐘塔をとらえたところで、思った通りの青年と鉢合わせた。
 半端に伸びた薄茶の髪を括り、まだ薄い体で胸を張って歩いている。優し気な濃灰色の瞳は上機嫌に手元を見つめていた。
「ディーマ。こんなところで何をしているのです?」
「トゥーラ兄様(あにさま)……!」
 アルトゥールを兄様と呼び、顔を上げた青年は、明らかに詰問の色を帯びた声を聞くとうろたえた様子で半歩下がった。件の従弟、ドミトリーである。手に持った何かをさっと懐へ隠すが、遅い。ものを懐に押し込み切る前にアルトゥールに手首をとらえられ、引きずり出されてしまう。
「おやめください、兄様!」
「王立軍学校へ行こうという者が、まさかイコナまで持って祈っていようとは……!」
 祈る者が、想いを熾すよすがとして持つのがイコナだ。人によって形はまちまちだが、教導会から出てきて、しかも祈りにいい顔をしないアルトゥールから隠そうとしたのであれば間違いない。祈る者が多い内地の育ちであれば、習慣として祈りを口にするということもあるだろう。だがこれを持っているからには、明確に祈るつもりで祈っているということがはっきりしてしまった。
 ただ気に障るという段階を通り越し、アルトゥールは柳眉を逆立てる。灰紫の瞳に怒りを灯し、つかんだドミトリーの手首を握り締めた。
「兄様、いたいです……!」
「こんな木片一つで、一体誰に何を祈るというのです」
 締め上げられたドミトリーの手から、からん、と軽い音を立てて彼のイコナが落ちる。白木の、手のひらに収まるような小さな板だ。取り落としたそれを泣きそうな顔で拾おうとする従弟の手を放さず、アルトゥールはそのまま彼を引きずるようにして帰路に就こうとした。
「待ってください、あれは」
「失くしたり壊れたりしたくらいで動揺するモノなどに縋って、外で戦えるとでも思うのですか? いい加減になさい、ドミトリー・ルキヤノヴィチ」
 兄様と呼び慕う従兄から、まるで他人のようによそよそしく冷たい声で呼ばれ、ドミトリーは抵抗をやめた。かろうじて涙はこらえ、かたかたと震えながら、手を引かれるままに歩き出す。アルトゥールの言うことはもっともで、どれほど強く握りしめようと体に括り付けようと、魔物に相対すれば死ぬまで持ち続けられるのは己の魂一つであると、それは外で戦ったことのある者が口を揃えて言う真実だった。自分の手足でさえ隔壁まで持って帰れないこともある、と語ったドミトリーの伯父は、杖をつき義足で歩いている。
 従兄の言うとおり、捨て置かねばならないのだろうと、ドミトリーが落ちたイコナから顔を背けかけた、その時。
 シャン、シャリン、と大きな鈴がいくつか転げたような音が背後から響いて、二人は足を止めた。
「お待ちください。レーベデフの騎士様」
 姓を呼ばう声に、家名を誇りにする騎士は振り返る。開け放した教導会の扉からこぼれる灯火に照らされて、そこには一人の青年が立っていた。
 長年使い込まれて拭いきれない煤を纏ったような重たい金の髪と、熾火を溶かした乳白色の瞳。長くまっすぐな髪には細鎖が絡まり、点々と四つ、掌に包める大きさの鈴が揺れている。白い肌を祭袍に包んだ姿は、宵闇に白色だからという以上に、浮かび上がるような非現実の光を帯びていた。
「ラーダン様!」
 ヒトの形をした人ならぬものか、と身構えたアルトゥールとは対照的に、ドミトリーはぱっと顔を上げると彼の名を呼んだ。幼い素直さの滲む反応に、ラーダンと呼ばれたそれは困ったようにほのかに笑う。
「私の従弟を誑かしたのは貴方か」
 警戒心も露わに問いかけるアルトゥールの苛立ちをよそに、ラーダンはドミトリーが落としたイコナへと歩み寄り、身をかがめると石畳から拾いあげた。細い指先が木札の表面をなぞり、傷がないことを確認して微笑む。
「僕は自分でここを見つけて通っていたのです、ラーダン様は僕の話を聞いてくださっていただけで」
「話す者よりも、聞く者こそが容易く人の心を奪うものですよ」
「兄様!」
 聞く耳を持たない従兄に焦れたドミトリーが、尾を踏まれた犬のように声を上げた。
「ドミトリー様」
 いつの間にか二人の至近まで歩み寄っていたラーダンが、あと一歩で手が届く、というところから声をかける。アルトゥールはとっさにドミトリーの手を放し、従弟を庇うようにラーダンに正対した。
「もうお夕飯の時間なのでしょう? 兄君にはわたくしからお話をいたしましょう。一足先にお帰りなさい」
「でも」
「心配することはありません。きっとわかっていただけますし、兄君もすぐに戻られますよ。それに……」
 イコナはそれを必要とする者の手に帰るもの。
 静かに付け加えられた一言で、あきらめたのか納得したのか、ドミトリーは素早く一礼すると二人を置いて邸の方角へ駆け出した。

 アルトゥールは、走り去った従弟を目で追うこともせず、ひたすらにラーダンを見ている。警戒の姿勢は解かない。
「そんなに怖い顔をなさらなくても、わたくしに騎士様を害する力などありませんよ」
「どうだか」
 言い合いでよそ見をしていたとはいえ、アルトゥールはずっとラーダンを警戒していたのだ。手が届くような距離まで接近を許してしまったという、それだけで十分脅威となりうる。
「わたくしは確かにあなた方の言う魔物ですが、この教導会の振り香炉にとりついてほんの数年の非力で繊弱な……」
 警戒に加えて猜疑の色まで瞳ににじませたアルトゥールに、ラーダンは言葉を飲み込むと目を伏せてうつむいた。話を聞く気のない人間というものは頑なで、いかに言葉を尽くそうともなかなか平穏に解決まで持っていくことは難しい。
「憑きモノ(プリリパーチ)とはいえ、魔物に危険性がないなどと信じるのはよほどの愚か者か赤子くらいです。あの子はヒトに見えるものを信じすぎる」
 憑きモノとは、器物にとりつかねば定まった形も性質も持つことができない、薄弱な魔物のことだ。しかし、ヒトらしき姿を取り、ヒトの言葉を得た魔物は、時としてただ力が強いばかりの魔物をはるかに凌駕するたちの悪さでもって人を、都市を脅かす。
 アルトゥールの危惧は、故のないことではない。
 蝋燭の火も消えないような、かすかな溜息の後で、ラーダンはうつむいていた顔を持ち上げてアルトゥールを見据えた。
 音もなく、甘いような深い緑のような、燻る香りが漂う。
「存外、癇癪持ちの童子のようなお方ですね。……ええ、騎士様のおっしゃることはごもっともでしょう。同類がいずこかの都市に甚大な仇をなしたという噂も、耳にしたことはございますし……ですが」
 ゆらゆら、とラーダンの瞳が揺れる。不穏な兆候を感じ取って、距離を取ろうと退がりかけたアルトゥールの足がもつれた。たたらを踏み、立ち直ろうとした膝がくたりと力を失って石畳に崩れる。
「何……!?」
 ほのかに眠気を覚えるほどの、この場にそぐわない緊張の弛緩。不自然に凪いだ心が、座り込んで手を石畳に落とした姿勢から、立ち上がることを阻む。
「お話を、聞いていただきたいだけなのです。わたくしのことはどう思われても結構ですが、あなたは弟君のことも、祈りのことも、誤解されておられる」
 あれではドミトリー様が哀れです、とラーダンはアルトゥールへ向かって歩を進めた。危険だ、回避を、反撃を、と騒ぎ立てる思考の警鐘が、ラーダンが近づくにつれ強まる香りで綿に巻かれたように鈍く小さくなっていく。
 ついに、アルトゥールは立ち上がろうと思うことすらできずに、ラーダンが目の前まで来るのを見ているだけになった。心底申し訳なさそうな顔をした振り香炉の魔物が、石畳に膝をついて、そろりとアルトゥールの手に触れる。
「わたくしにできるのは、香で人を落ち着かせることのみ。香炉より重いものは持てませんし、めいっぱい力を入れたとて、きっとあなたの指一本折ることもできないでしょう」
 ラーダンはアルトゥールの手を握る。言葉通り、やや強めの握手程度にしか感じられないのに、振り香炉の手は限界を訴えるように小さく震えていた。
「……私としたことが、油断したものです」
 強制的に解かれた警戒心にめまいのようなものを感じながら、アルトゥールは灰紫の瞳から苛立ちの色を消す。彼が聴く気になったのを見て取ると、ラーダンは微かに笑った。
「わたくしの香は、興奮や緊張ができなくなるだけで、思考も判断も阻害いたしません。ご安心ください」
「興奮も緊張も、戦うためには不可欠なのですが」
「わたくしは戦うつもりがございませんし、今は必要ありませんよ。効果自体も、風でも吹けば香の煙ごと消し飛ぶような脆い技です。……わたくしはあなたに『話を聞いていただきたい』。そして、『弟君の祈りのことを理解していただきたい』だけ」
 ゆるやかに部屋を満たす香のごとく、ラーダンの言葉がアルトゥールの心に広がっていく。
「魔物(われわれ)は嘘をつけないようにできています。……さて、お話ししたいと言っておきながら、いくつか質問をさせていただきます。お答えになりたいものにだけお答えください」
「随分甘い条件ですね」
「わたくしに、自白を強制するような力はございませんから」
 にっこりと笑ったラーダンは、まるで喧嘩した子を諫める母親のような顔をして問いを口にした。
「なぜ、あれほどまでにドミトリー様を『祈り』から遠ざけたがられたのですか?」
「あの子は、騎士を目指して……兵として、外で戦うためにこの街へ来たのです。実りのない祈りなどに費やす時間があれば、鍛錬の一つもするべきでしょう」
「それだけでしょうか」
「それだけもなにも」
 それ以外に何がある、と言いながら、アルトゥールが視線を揺らしたのを見て、ラーダンは問いを重ねた。
「ドミトリー様が祈ることで、何が起こりますか? 思いつく限りを教えてください」
「何も。魔力が増すでなし、戦いの技術も磨かれません。……そうして、未熟なまま外へ出れば、あの子は功を立てるどころか初陣をやり過ごすこともできないでしょう。祈りに縋る者と知れれば、足を引っ張る未熟者はいらないと切り捨てられ、仲間に虐げられることにもなりかねません。軍学校は、『映す者』の理屈で動く世界です」
 ぽつりぽつりと、連想の根を辿るまま声に乗せたアルトゥールの言葉を、ラーダンは遮ることなく聞いた。「祈り」の教導師に対して「祈っても何の役にも立たない」と言い切った男にも、柔らかくうなずくだけだ。
 アルトゥールの言葉が途切れたところで、ラーダンがゆっくりと口を開く。
「ドミトリー様を、ご心配なさってのことだったのですね」
「……ええ。あの子のためを思って言うのに、まるで言うことを聞かないものだから、苛立っていました」
 不思議なほどまっすぐに胸に落ちてきた苛立ちの理由に、アルトゥールは苦く笑う。自分がなぜこうも苛立っていたのか、人に言われなければ自覚もできなかったのだ。何よりも己を知ることを大事にする「映す者」がこのザマか、と口の端に自嘲が滲む。
「そう悲しいお顔をなさらないでください。そのご様子では、なぜ祈りを手放すように言うのかもはっきりお伝えになったことがないのでしょう? ドミトリー様は素直な方でいらっしゃいますから、騎士様がご心配ゆえにおっしゃることだと分かればご納得されますよ」
 血縁の自分よりもこの振り香炉のほうがドミトリーのことを理解しているように思えて、アルトゥールは目を伏せた。
 何を言おうともアルトゥールの心がうつむくだろうと察して、ラーダンはゆるりと話の向きを変えた。
「教導師の役をいただいてはおりますが、わたくしも、『祈り』そのものには力はないと知っております」
「知っている?」
「ええ。例えばこの世すべての魔物が消え去ればいいだとか、どんな魔物にも負けない魔力が欲しいだとか、そういった祈りは効果を持ちません。それを願う人は数多いるでしょうけれど、わたくしも、隔壁の外のものも、哀しいことに健在ですからね」
 「祈り」の本質はもっと別のところにあるのです、とラーダンは未だ手に持っていたドミトリーのイコナを、それからアルトゥールを優し気に見詰めた。
「想いや願いを、明確な形にすることで、変わることはあるのですよ。わたくしが教導会で説くのは、他者を想い、それを伝えることです」
 怪訝そうに首を揺らしたアルトゥールに、ラーダンはそっと白木のイコナを手渡す。すべすべとした滑らかな木札は、月明かりの下で柔らかな白色をしていた。白樺を切り欠いて、ドミトリー様手ずから磨いたのだそうですよ、と告げながら、ラーダンが空いた手でアルトゥールの髪をひと房すくい上げる。
「よく似た色だとは思いませんか」
 手の中に収まったイコナを見ていたアルトゥールは、はたりと顔を上げ、それからすくい上げられた自分の髪を見やった。月に光る淡い象牙色に、言われてみればイコナの白樺色はよく似ている。
「ドミトリー様が何よりも熱心に祈っていらっしゃったのは、騎士様のご無事でしたよ。騎士様がお仕事でお邸を空けられるたびに教導会へいらして、あなたの身にいかなる危険も降りかかってくれるなと、祈りを歌っておいででした。わたくしにも、騎士様がどれほど素晴らしい方かをよく教えてくださって」
 兄様、兄様とおっしゃるので、ご兄弟かと思ったほどです、とラーダンは微笑む。アルトゥールの髪を指に滑らせるようにして手放すと、どこか呆けたような顔をしている彼に改めて語る。
「彼の祈りは、直接騎士様を守りはしなかったかもしれません。それでも、今、どのような心地でしょう? 他でもない騎士様、あなたのために、ドミトリー様は心と時間を割いてご無事を祈っておられた」
 無事を願うこと、帰りを待つこと。自分のためにそれをしてくれる、自分を想ってくれるものがいることは、力にならないでしょうか。ラーダンの声に、アルトゥールは言葉を返さない。ただ、イコナへ目を落とし、指先で何度もその表面をなぞっている。
「自らのことを祈るのであれば、祈りは力を持ちません。しかし、誰かを想う心を形にするのであれば、それは祈られた者と、祈る者自身の心を支えます」
「……私が、祈りを嫌うから」
「ええ。ドミトリー様も言い出しにくくていらっしゃったのでしょう」
 仕方のないことです、とラーダンは穏やかに言った。長年外で戦っている者が、「何を思うか」よりも「何を為すか」を重要視することは、ドミトリーも承知の上だったろう、と続ける。
「……ディーマが何を思っていたのか、私は聞いたことがありませんでした」
「お帰りになられたら、改めて聞いて差し上げてください。きっとドミトリー様も喜ばれるでしょう」
 両者の髪が揺れる。宵の冷えた風が香をさらって、涼やかな夜の気配とともに、アルトゥールは四肢に力を取り戻した。ラーダンがすっと立ち上がるのにつられるように、アルトゥールも立ち上がる。石畳に座り込んでいた割に、手足の先は心地よく温かい。
「強引なまねをして、申し訳ありませんでした」
「いいえ。貴方は私の鏡になってくださった。こちらこそ、情に任せた振る舞いをして申し訳ございませんでした」
 教導師と騎士は互いに礼を欠いたことを詫びた。振り香炉は己が住まう教導会の門前で騎士を見送り、騎士は邸へとつま先をを向ける。靴底が石畳を叩き、辻を曲がろうというところまで来て彼は振り返る。
「貴方の言う『祈り』の定義が正しいのなら、私も、知らず祈っていたのかもしれません」
 教導師はまだ門前で静かに微笑んでいたが、騎士の声が届いたかどうかは定かでなかった。

 アルトゥールはやや遅れて夕飯の席につき、ちらりちらりと居心地悪そうに自分の顔色をうかがうドミトリーに苦笑したくなるような気分で食事を終えた。二人の様子に、何があったのかと、アルトゥールの両親も給仕たちも疑問を感じている様子だ。食後の茶を飲み終えて席を立てば、ドミトリーは何を言うでもなくおずおずとアルトゥールを見上げる。
 ついにこらえきれなくなり、アルトゥールは「仕方のない子だ」とばかりの力の抜けた笑いを顔に浮かべて、まだ黒パンを手に持ったままのドミトリーの肩を叩いた。びく、と椅子から跳ね上がりそうになった青年を柔らかく制して、そのまま告げる。
「食事が済んだら、私の部屋へ。……落ち着いて、ゆっくり食べてからいらっしゃい」
「は、はい!」
 去り際、アルトゥールの服から香った教導会で馴染みの香りに、ドミトリーは目を瞬いて彼の背を見送った。

 コツコツコツ、とノックが三度。
「ドミトリー、参りました」
 まるで上官の執務室に呼ばれた新兵のような、緊張しきった声が呼びかける。
 あのほんの数分でどれだけ怯えさせたのかと、固く縮こまっている従弟の様子に反省しながら、アルトゥールは自らドアを開けて彼を部屋に招き入れた。上着を脱いだ従兄の、まるで親しい友人を迎え入れるような丁寧さに、ドミトリーが戸惑う。
 チェス盤一つ置くのがやっとの小さな机と、二脚の椅子を示し、座るように促すと、ドミトリーはぎくしゃくと歩いて椅子に腰かけ、背中に定規でも入っているかのような固さで背筋を伸ばした。
「……力を抜きなさい。私は、貴方にお詫びがしたくて呼んだのです。詫びる立場で部屋に呼びつけるのもおかしいかと思いましたが、私が行くのでは気を遣わせるかと思いましたので」
 するりとイコナを取り出すと、アルトゥールはそれを小机にそっと置いた。石のように固まっていたドミトリーが、あっ、と小さく口を開いて身を乗り出す。
「乱暴なことをして、すみませんでした。これは、お返しします」
 長い指が、磨かれた黒い小机の上で白樺の木札を滑らせた。ドミトリーは、戦いなど知らぬ素振りの白い指が意外と固いこと、いつでも短く整えられた爪と乾いた掌が人にやさしいことを知っている。握り潰すほどの力で手首を引いてイコナを取り上げた手と、剣の稽古をつけてもらったときに、上達した、と褒めて汗に湿った頭を撫でた手は、同じ手だった。
「いいの、ですか」
「お返ししますと言ったでしょう」
 ばつが悪そうに手を引っ込めたアルトゥールは、ドミトリーがひたすらに仰いで憧れていた騎士ではなく、ただの歳が離れた従兄だ。拍子抜けしたような気になるドミトリーだが、不思議と「完璧な騎士」でない従兄の姿に安心感のようなものを覚えて、やっと肩の力を抜く。
「ありがとう、ございます」
 自分の手の中に戻ってきたイコナを見つめて、ドミトリーは綿毛めいた柔らかな笑みを浮かべた。まだまだ幼い心が手に取るように見えて、これほど素直で無防備なまま一五歳を迎えて大丈夫なのだろうか、とアルトゥールは具体性に欠ける心配に駆られる。己が一五のころ、これほど無防備でいられる瞬間があっただろうか。
「……そのイコナのこと、教導師から聞きました。私の無事を祈ってのものだとか」
 ぴく、とドミトリーが僅かに身を縮め、小さくうなずく。
「僕が祈るまでもなく、トゥーラ兄様がお強いのは承知の上で、……お力になるばかりか、外へ出ることすらできない僕の未熟がもどかしく、せめて祈り想うことで僕自身の心の安寧を図りました……」
 ラーダンが言っていた「祈る者自身の心を支える」とはこういうことか、と申し訳なさそうに目を伏せたドミトリーを見てアルトゥールは納得した。そして、祈ることそのものにすがろうとする弱さを自覚していたことに、やや驚きながらも安堵を覚える。
「自分の未熟をもどかしく思うのなら、その分鍛錬をすればいいとおっしゃられるだろうとは、思っていました」
「朝稽古についてくるのがやっとで、この前やっと稽古終わりまで立っていられるようになったばかりでしょう。今鍛錬を増やしても怪我をするだけです」
「……はい」
 きゅう、と口を結んで心底情けなさそうな顔をするドミトリーに、アルトゥールは戸惑った。体力と技術はよく見て稽古をつけていたはずなのに、彼の気持ちをこれほど細かく見たことはなかったことに気づいたのだ。ドミトリーが稽古の度にやる気をみなぎらせていることは一目見ればわかったし、限界まで追い込んでも食いついて来ようとする熱意は肌に感じられるほどだ。戦うことに前向きであることは疑いようもなく、アルトゥールはそれさえ分かっていればいいと満足して、もう一歩踏み込むことをしなかった。
 ドミトリーがなぜこんなにも前向きに、痛みも苦しみも飲み込んで戦う術を身に着けようとしているのか。考えたこともなければ聞こうと思ったこともなかったのは、アルトゥールにとってはそれが生きるために必要な、当たり前のことだったからだ。そうあれと望まれ、魔物と戦える素質を身に宿して生まれ、時が来れば外へ戦いに行くことが半ば以上決められていた。代々騎士を輩出してきた家の直系で、この人類生存圏の縁でこそ求められる、強い力を有していたのだ。彼が身を置くように定められ、自分でも選び取った世界では、努力しない者、向上しない者は淘汰されて命も何もかも失う。
 だが、ドミトリーは違う。内地生まれで、レーベデフの血を引いてはいても力が発現する確率は五分だった。戦える人をと望んで作られた子ではない。研鑽次第ではあるが現状アルトゥールほどに強い力の素質を持っているわけでもない。わざわざ僻地に赴いた挙句、どこよりも過酷とされる王立軍学校へ入るなどせずとも、十分に生きていけたはずなのだ。力を持っている以上戦うことは求められたかもしれないが、なにもこんな最前線へ出てくることはなかった。内地寄りの軍学校へ行き、都市間の街道に出る魔物を狩る、隊商護衛兵になることもできたし、そのほうがはるかに長生きできる可能性が高い。
 だが、ドミトリーはこの街へ、アルトゥールのもとへ来た。
「……あなたは、なぜ王立軍学校へ入ろうと思ったのですか?」
「兄様に近づくために、それが一番早くて確実だろうと思ったからです」
 迷いなく言い切ったドミトリーに、問いを重ねる。
「ではなぜ、私に近づこうと?」
「僕は、幼いころトゥーラ兄様にお会いした時、何をお話ししたのかあまり覚えていません。それでも、僕を抱え上げて笑ってくださった兄様のお顔は、よく覚えています。忘れられないのです。かなしいような、さみしいような、あの時のお顔が」
 剣だことマメを行ったり来たりの、傷んだ手でイコナを包み込み、ドミトリーは静かに語る。
「何があのようなお顔をさせてしまうのかと、ずっと気にかかっておりました。だから、私はここへ来ました」
 アルトゥールも、ドミトリーに会った時のことをそう詳細に覚えているわけではない。一〇年も前のことだ。だが、しけった顔については心当たりがあって、従弟から語られた動機のひたむきさにぐっと喉を詰まらせる。
 アルトゥールが初陣を終え、騎士として叙勲されたのは一五年前のこと。そしてその直後、初陣で命を助けてくれた人の訃報を聞いた。国の内外を問わず最強と謳われたほどに強く、話せばきっぱりとした明朗な気性が鮮やかで、姿勢の美しい女性だった。
 アルトゥールは、いつかひとかどの立派な騎士として胸を張って再会したいという願いが永遠にかなわなくなったことを嘆いたし、彼女の死は自分を助けた際に負った傷のせいではないのかと、長く自責していた。彼女の死からたったの五年では、その傷も癒えていない。
 さらに、ドミトリーと会うことになった理由が、なおのことアルトゥールに感傷的な顔をさせたのだ。
 生まれた直後には魔力を持たなかったドミトリーに、どうやら力が芽生えたらしいと聞いて、本家の代表としてアルトゥールが様子を見に行った。そうして抱き上げた、まだどこもかしこも小さく細く柔らかい幼子に確かな魔力を感じ取ったアルトゥールは、何も知らない子供の目の前で泣き出してしまいたい衝動に必死であらがったのをよく覚えている。
 外へ出て戦うようになって五年経っても、アルトゥールは自分が生きるので精一杯だった。まず自分が助かって、それからやっと他人を気にかける余裕ができる。そして魔物相手では、そんな余裕を持てる人間は一握りどころかひとつまみにも満たない少数だ。
 小さな従弟ひとり守ることもできない自分の無力が、胸に痛かった。
 まさかその感傷のせいで当の従弟が国一番の危険地帯を志願することになろうとは、思ってもみなかった。知っていたなら、従弟と顔を合わせる前の自分を殴り倒していただろう。
 無言で額を抑えて黙り込んだアルトゥールに、ドミトリーはおずおずと声をかけた。
「兄様」
 アルトゥールは動かない。
 夕飯以前と比べれば別人のように態度の軟化した今なら聞けるのではないかと、ドミトリーは一〇年越しの疑問を従兄に投げかけた。
「あの……わけを、お聞きしても……?」
 あまりにも情けない。言えるわけもなかった。
「……私が五体満足の騎士でいるうちに、三本勝負で二本取れるようになってください。そうすればお話ししましょう」
 地を這うような低い声で、アルトゥールは条件を出す。
「あなたが勝てるようになるまでに、私が指の一本でも失くせば、そこで時間切れです」
 ドミトリーは息をのみ、背筋を伸ばし、目を見開いた。朝稽古も終盤になれば、アルトゥールも涼しい顔をしてはいられなくなり、へたばるドミトリーの傍らで上衣を脱ぐことがあった。細身の体には胸から腹を裂く大きな傷跡が走り、その他にも激戦を潜り抜けてきた彼の騎士としての歴史がありありと刻まれているのを、ドミトリーは畏敬をもって記憶に刻んでいる。
 一五年も外で戦い続けて、指の一本さえ失うことなく五体満足でいる方が奇跡なのだ。いかに技術を磨き、仲間との連携精度を高めようとも、時を経るごとに反応は鈍り、体力は落ちる。肉体のピークを過ぎたアルトゥールは、今後否応なしに加速度を付けて増していく危険と付き合っていかなければならない。
 アルトゥールの指など、ドミトリーが王立軍学校の入学式を終えるまでに腕ごとなくなっている可能性だって大いにあるのだ。
 それでもドミトリーは、アルトゥールから示された「約束」に食いついた。
「……わかりました。兄様からその約束を違えたくなるほどの頼もしい騎士になって見せます」
「心意気だけで私に心変わりさせる気ですか?」
 徹底した実力主義の従兄が、気持ちを示しただけで一度決めたことを覆すことなどないのは、この屋敷に世話になってからの生活でよく知っている。イコナを返してくれたのは、思い込みから思考が硬直していたことを自覚したからだ。
 アルトゥールから示された期限は厳しい。ドミトリーが彼を力で捻じ伏せることができるようになるまで、早くとも数年はかかるだろうし、その間外への出撃を控えてくれるわけもない。
 顔を伏せていた従兄が面白そうに笑ったのを見て、「もちろん、実力もつけます。軍学校を首席で卒業するくらい」とドミトリーは大口を叩いた。言ったからにはやり遂げるつもりで、その決意はアルトゥールにもしっかり伝わったらしい。
「そうと決まれば」
 ドミトリーは自分の手の熱が移って温まったイコナをそっと机に置いた。
「やはりこれは、トゥーラ兄様が預かっていてはくれませんか」
「もうこれは不要だと?」
 やや寂しそうな声に聞こえてドミトリーは動揺したが、こくりとうなずく。
「祈るよりもきっと、鍛錬と勉学に励むことが近道でしょうから」
「……私も、知らず知らずのうちに祈っていた、と言ってもですか?」
 するり、とアルトゥールは自分の髪を撫でた。
 祈りは近道でなくても、遠回りにはならないのではないか、と告げる。
「……それでもです。今、兄様が僕に明確な目標をくれました。だから、兄様を祈るためにモノに頼る必要は、もうないのです」
 自分の無事を祈る者がいることを思い出して、少しでも体と命を大事にしてくれと、自分が追いつくまで健勝でいてくれと、ドミトリーはイコナをアルトゥールの手に握らせた。
「兄様から二本もとれるようになれば、きっといつでもお側にいて、祈るだけでなくお助けすることもできるでしょう。だから、それまで」

 ドミトリーを自室に帰し、寝支度を整えたアルトゥールは、部屋の明かりを落として姿見と向き合った。
 まっすぐに伸びた淡い色の髪は、いつか憧れた女性の髪と少し似た色をしている。鏡を見るたびに、彼女に恥じない己であれているかと自問してきた、それはきっと祈りとも呼べる時間だった。そうと自覚したのは、あの教導師との会話と、ドミトリーあってのことだ。
 あれほど忌避していた祈りを自分の中にも認めて、アルトゥールはやわらかくため息をついた。自分を把握しきれていなかったこと、思い込みで自分の中にもあるものを否定し、はねつけたこと。
「まだ、貴女の前に胸を張って立つことはできないようですね」
 笑われてしまいます、とひとりごち、鏡の冷たさを吸った指先で窓にカーテンを引いた。


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