かくて行動経済学は生まれり(文藝春秋)書評-巨人の邂逅とすれ違い、そして別れ

 今回取り上げるのは、マイケル・ルイス著/渡会圭子訳の「かくて行動経済学は生まれり」(文芸春秋社)です。2022年2月8日に「後悔の経済学 世界を変えた苦い友情」と改題してその文庫版が出版されています。
 マイケル・ルイスは「マネー・ボール」(中山宥訳/ハヤカワ・ノンフィクション文庫)というセイバー・メトリクスという統計学的手法をMLB(米大リーグ機構)に初めて導入したビリー・ビーンを描いた本や、サブプライム・ローンの破綻を見抜き、破綻する側に賭けて投資をした人たちを描いた「世紀の空売り―世界経済の破綻に賭けた男たち」 (東江一紀訳/文春文庫)、さらにはNFLの実在の選手、マイケル・オアーを描いた「ブラインド・サイド アメフトがもたらした奇蹟」等の著者としても有名です。「マネー・ボール」は原題のまま、「世紀の空売り…」、「ブラインド・サイド…」はそれぞれ「マネー・ショート 華麗なる大逆転」、「幸せの隠れ場所」の題で映画化されているので、映画をご覧になられた方もいらっしゃるかもしれません。今回はそのベスト・セラー作家による行動経済学の草創期の二人の巨人、ダニエル・カーネマンとエイモス・トヴェルスキーの生い立ちからトヴェルスキーの死去、ノーベル賞の受賞直前までを描くノンフィクションです。行動経済学とは、心理学的な観点から、合理的経済人が行動することによって経済が動く、という古典的経済学の考え方を修正する経済学です。現在の経済財政政策にも応用されることが増えていて、たとえば毎日新聞2022年3月18日付朝刊の以下の記事

では、原油価格が高止まりする中でガソリンにかかる税金の一部を一時的に引き下げる「トリガー条項」発動を求める声が強まる中で、財務省幹部の「いくら一時的な減税措置だと説明しても、税率を元に戻す時になれば、多くの人は『増税』と捉える」との懸念や、経済官庁の幹部の「一度税率を下げてしまうと政治が世論の批判を恐れ、解除基準を満たした後も減税継続の声があがる恐れもある」との発言が引用されていますが、これらの考え方はダニエル・カーネマンとエイモス・トヴェルスキーが考え出し、そして洗練させたプロスペクト理論という理論を念頭に置いていると思われます。 
 実際、2002年にはこの「かくて行動経済学は生まれり」の主人公の一人であるダニエル・カーネマンがノーベル経済学賞を受賞していますし、2013年にはロバート・シラー、2017年にはリチャード・セイラーが行動経済学の研究からノーベル経済学賞を受賞しています。一般向けの書籍も多数出版されていて、特にダニエル・カーネマンに関しては「ファスト&スロー(上) (下) あなたの意思はどのように決まるか? 」(村井章子訳/ハヤカワ・ノンフィクション文庫)の著者としても有名です。行動経済学に関しては、2010年代からアメリカのビジネス書の翻訳として日本でも多数出版されるようになっています。私は法学部の出身ですので、経済学に対してはほとんど専門の教育を受けていないのですが、書店でふと手に取った「経済は感情で動く はじめての行動経済学」(マッテオ・モッテルリーニ著・泉典子訳/紀伊國屋書店)と「世界は感情で動く 行動経済学からみる脳のトラップ」(同上)があまりにも面白かったので、ダン・アリエリーやスティーヴン・D・レヴィット&スティーヴン・J・ダブナーやハワード・S・ダンフォードによる行動経済学の一般読者向けの本を読み漁り、最終的にはダニエル・カーネマンの「ファスト&スロー…」まで読み、行動経済学に関する著作は今まで20冊前後は読んできたかと思います。ここで取り上げる「かくて行動経済学は生まれり」では、カーネマン&トヴェルスキーとリチャード・セイラーのやりとりや「ファスト&スロー…」の執筆秘話が盛り込まれていて、特に本書の執筆中と執筆後のカーネマンの愚痴の下りには、カーネマンの後ろ向きで内向的で非常に人間的な面が垣間見えて、思わず笑ってしまいました。
 しかしながら本書で笑える箇所は、ほぼこの箇所くらいです。本書の主人公のカーネマンとトヴェルスキーの生い立ちからは、研究者であるにもかかわらず祖国のために武器をとって戦わなければならないイスラエルの厳しい社会状況が読み取れますし、二人がアメリカの大学でテニュア(終身在職権)の教授になるまでの記述からは、あれほどの実績を残した二人をもってしてもアメリカの大学でテニュアとして生き残るのは大変なのだということがよく分かります。全体的に緊張感が漂う中で、穏健で内向的なカーネマンと外向的ではあるものの論敵とは衝突も辞さないトヴェルスキーが出会い、圧倒的な実績を残しながらも、その二人の性格の違いからやがて行き違いに発展し、研究での協力関係が解消される様子には、読んでいて切なくなってしまいました。カーネマンとトヴェルスキーの経歴からも分かりますが、トヴェルスキーはノーベル賞を受賞する前に亡くなります。個人的には、本書の最後数ページを読むのは辛く、かなり時間がかかってしまいました。本書は、行動経済学が大好きな方にとっては行動経済学の発展そのものを実感できるので面白いかと思います。他のマイケル・ルイスの著作と同様、映画化されるのが楽しみな一冊です。
 最後にこの本にあったトヴェルスキーの言葉を引用したいと思います。

・優れた研究をするための秘訣は、いつもあまりうまく使われていない。何時間かを無駄にすることができなかったために、何年も無駄にすることになる。
・とても賢明なことと、とてもばかげていることの違いはわずかであることが多い。

 私も、ほんの数時間を費やせば解決できたはずのことに、煩雑であることを理由として取り組まなかったことで日常に支障をきたすことがあったので、やはり今後は何時間かの無駄については将来の何年かのために厭わないようにしたいと思います。そして自分自身の言動や考えが賢明なことであるか、あるいはばかげていることなのか、常に考えながら生きていけるとよいと思います。
 ここまでnoteに記事を投稿することにより自分の過去に向き合うことができましたので、そろそろ大学の再受験に向けて勉強を再開したいと思います。しばらく記事の投稿はしなくなりますが、また大学の再受験を無事終えられた場合には政策立案に関する記事を再投稿できればよいなと考えております。今までいろいろな方にお世話になったり、ご迷惑をおかけしたりしてきたので、次に記事を投稿する場合には、平成後期と同程度の社会的影響力がある政策立案についての記事を投稿できればよいなとも考えております。
 拙文であるにもかかわらず最後までご清覧くださいましてありがとうございました。


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