人と同じ、という簡単なことができない。
わたしには、「共通のルールを守るのが下手」というコンプレックスがある。
新体操部だった高校時代は「みんなと全く同じタイミングで片足を上げる」という、たったそれだけのことができずに、ずっと団体戦のメンバーに選んでもらえなかった。
10代から習っている茶道のお稽古では、「型」として絶対に守らなければいけない順序や身のこなしがなかなか身に付かず、先生からよくお叱りをうけた。
たとえみんなより身体が柔らかくても、顔が和風だから着物姿がサマになったとしても、それらはオプションであって、「絶対」の部分がズレてしまうわたしは、いつも先生やコーチを悩ませる。
みんなが当たり前のように「普通」にできることが、自分にはできない。いつしかこれがトラウマになっていた。
それを自覚するたびに、社会から仲間外れになってしまったような気持ちになって、しくしく泣いた。
今だって似たようなものだ。
みんなが普通にこなしたであろう就職活動が自分には向いていなかったし、企業という組織で、社員という肩書で仕事をすることにピンとこなくて、フリーランスの人をやっている。
とはいえ楽しく生きているけれど、ときどき「同じにできない」というコンプレックスが頭をもたげて、どうしようもなく自信がなくなる時がある。
「同じにできない」ということは欠陥なんだろうなと心細くなる。
だからこの約2か月、率直にいえば、わたしはホッとしてしまっていた。
「家にいる」という絶対的なルールを、ちゃんと守ることができた。なんの違和感もなく、みんなと同じにできた。
たったそれだけのことが、今の私をつくる栄養になっている。
守れるルールのなかで
そもそもわたしの仕事は、こんな状況になる前から、家でできるはずのものだった。
それを裏付けるように、緊急事態宣言下においても、ありがたいことに仕事の量が減ることはなく、アウトプットの質にも影響はなかったように思う。
そして、やらざるをえない状況になってみると、なぜわたしが「家で仕事はできない」と思っていたのかが、手にとるようにわかった。
「みんなより劣っている」と思っていたからだ。
みんなは会社で頑張っているのだから、私は家でのんびりPCと向かい合うよりも、もっと吸収の多い場所で仕事をしなくちゃ意味がない、と、心のどこか、いやけっこう真ん中でいつも思っていた。
これをフリーランスの仲間に話したら、あまりに誰からも共感されなくて笑ってしまった。
だから、家に留まっている間じゅう、考えていた。
私の思う「みんな」って、誰のこと?
見えないみんなと比べて、私はいったい何を焦っているんだろう?
輪郭のぼやけた心配事に気を取られるばかりで、肝心の自分をしっかりと見ることはできているんだろうか?
「自分ハック」の時間
外に出るという選択肢がなくなったことで、半強制的に「みんなと同じ」ができるようになった時間を使い、私は自分にフォーカスしてものごとを考えるように心がけてみた。
いま自分が持っているものと、弱ってしまう時の条件、モチベーションが爆上がりする時の条件、これからやりたいと思っていること。
これらを表現するには、「自分と向き合う」という丁寧なことばよりも、「自分ハック」という、ちょっと器用そうな響きがしっくりくる。
「自分ハック」は、昨年取材させてもらった時にものすごく感銘を受けて、それから事あるごとに思い出すフレーズなのです。
▼その時に書かせてもらった記事
「成長」や「キャリアアップ/スキルアップ」という言葉ばかりが頭の中で空回りをして、むしろトータルでは後退してるようなことは、往々にしてある。
まずは思考の乗り物である自分自身を、しっかり理解して使いこなさないといけないのに。
デジパーを注意された思い出
2か月前よりも「自分ハック」が少しだけ捗ったうえで、やっぱり私は、気兼ねなく人に会える時期がきたら、家にずっとこもって原稿を書くなんてことはしない(できない)だろうと思う。
ただ、忙しなかった日々の中で何が無駄だったか、何が甘えだったかが見えてきたので、前よりもうちょっと家にいるかもしれない。
誰かと比べるのでなく、私は私を生きることをもっと大事にしなくちゃいけない。
とはいえ、きっとまた見えない「みんな」と比べて疲弊するだろうから、ここに書き留めておくことにしたのでした。(これも自分ハック)
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話はだいぶ逸れるけれど、家にいたこの数か月間、ルールとの付き合い方を考えながら、学生時代の校則のことを考えていた。
校則が厳しいにもかかわらず、高校時代のわたしは生意気にも髪にデジタルパーマをかけていた。
だけど3年生になってついに、担任の先生に「それパーマでしょう?おとしてきなさい」と言われ、縮毛矯正をかけた。
「髪を不自然に加工してるという点では同じなのに、なんで縮毛矯正は良くてパーマはダメなんだろう?」と少し憤ったけど、美容院に行き、それまでのゆるふわとは正反対の、まっすぐ艶々に伸びたストレートヘアを見て、ニンマリとした。
「これもアリじゃん」と思ったのである。
校則違反はしていないけど、これはこれでおしゃれ。しめしめ。
と、思えば昔からルールの中でやりくりするのは嫌いじゃなかったみたいだ。
そして、「みんなと同じ」ができないことにコンプレックスを抱いていると言いながらも、こういう部分では、意図して「みんなとちょっと違う」を選び続けてきたのが私だった。
分からないことと、分かること
あいも変わらず、これから先の世の中がどうなっていくのかは、きっと誰もが分からない。
自分史上もっとも社会の動きが分からない時期かもしれない。
でも、「自分を分からない」わけじゃないのが救いだ。
ここに関しては、自分史上もっとも自分を分かっている時期かもしれない。
分からない世を、分かる自分と生きていく。
縮毛矯正をかけたときと同様に、「これもアリじゃん」と思う。
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