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三浦光世さんに示された愛

ここに一通のハガキがある。故・三浦綾子氏の夫、三浦光世氏が天に召される2年前にいただいたものであるから、私は大切に聖書に挟んでいる。

このとき私は求道中の身だった。25歳からゴスペルという音楽に出会い、それから1年に1回ほど教会にコンサートでおじゃまさせていただくようになり、「逆立ちしてもクリスチャンにはなるまい」と思っていた私がクリスチャンになっていた。洗礼を受けたのが2019年だから、求道から受洗までに実に12年も要したことになる。

聖書というのは疑問の多いとっつきにくい書物で、神の言葉を預言者が書き記したわけだからわけがわからなくて当然だ。1個、2個の気に入った言葉がある程度のレベルでこの壮大な世界観を理解することはできない。かつての私がそうであったようにキリスト教には終末思想があることさえ知らない日本人も多いのではないだろうか。
キリストを信仰し救われて生きるとは、究極、終末がやってきたとき(それは神のタイミングでしかわからない)永遠の天国、永遠に地獄という裁きのどちらに行くか、という選択を迫られることを意味している。それを神は人間の生きている間の自由意志に委ねているのだ。

ゴスペル音楽を初めて1、2年で私は地域の教会の礼拝に顔を出すようになった。そこで私は「罪」という言葉につまづいてしまった。
罪、罪、罪、罪、
罪という言葉のない礼拝はないと思う。いつも聞くたびに苦しくなった。パイプ椅子に座って許しや愛の話だけで終わるといいのに、必ず罪という言葉は出てくるから、そのときは肺が締め付けられたように息がしづらくなり、教会を出たくなるほど冷や汗をかいていた。救いを求めてきているのに、どうしてこんなに辛いのかがわからなかった。

とっさに私は、
「あ、三浦綾子さんならどう考えるかなあ」
と思い立ち三浦綾子さんの文学館につらつらと手紙を書き送った。すでに綾子さんは亡くなられており、当時の館長は光世さんだ。
生前綾子さんは「三浦の人格には嫉妬する」と書き記すほど、光世さんの神にある真実な信仰を多くの著作に遺している。病気に伏すことの多い綾子さんを傍で支え、途中から旭川営林局を退職し綾子さんの創作を口述筆記をしていくこととなった光世さん愛の深さは著作のいたるところにちりばめられている。

そんな光世さんが私のような、どこのウマのホネともわからんやつにわざわざご自分の住所を公開してお返事をくださったのだ。これには打たれた。光世さんのお返事は私の背中をそっと筆で押すようであり、優しくハガキの裏表に励ましの言葉を達筆に綴ってくださった。亡くなる2年前のことであるからすでに88歳という超高齢の時分である。こんなときにまで私のような名もなき一匹の羊にハガキをしたためてくださるはたらきに頭が上がらない。
そこで私は、罪というのは親に犯した罪のことではない、単純に神のほうを向いていないことなのですよ、ただそれだけのことなのですよ、と教わり、そういった意味では光世さんも同じ罪びとなのですよと、自身のことを綴ってくださった。
このやりとりがなかったら私は教会通いをやめていたかもしれない。実際、数か月教会に行かず牧師さんから心配のメールを送られていたほどだった。「あんたは悪い子ね」的なメッセージをさんざん親から受け取った私には、罪と言われると母に冒した(思いこまされた)大罪が想起されていて、「親を敬え」というモーセ十戒の教えもどぎつく聞こえ、まるでそこだけ切り取ったようになんと自分はひどい人間なのだろうかと辛かったのだ。
そんな私がいくら「あなたは神に無条件に愛されてますよ」と牧師の説教で聞いたくらいで回心することは無理である。だって経験がないんだもの。聖職者はよく、赤ちゃんの手を引いて歩く親のことを無条件の愛と例えるが、私にはそんな例を出されてもピンとくるわけない。親こそ罰則付きの激しい条件付き愛を提示してくる存在なのだから、結局私が回心するには、そういった教会の信仰の先輩や、無条件の愛を他人の私に実行してきてくださる方の姿をモデルとして見るしかなかった。

三浦光世氏のハガキを郵便受けに見つけたときはマジか…と鳥肌が立ち、綾子さんの著作に真実な人、真実な人とさんざん書かれていたけれどそこまでとは思わなかった。私が泥棒だったらどうするんだろう、私が光世さんを危険にさらすやつだったらどうするんだろう。そういったことも光世さんはおそらく祈り、神の声に聞き従って超越したのだと思う。私を信頼もしてくださった。信頼されたのなら自立するしかない。これこそ本当の愛、無条件の愛だと思った。ひとりでも多くの人が挫折することなく永遠の滅びで焼き払われてしまうことなく、神と罪なき完全な世界で天国で祝宴をひらけるように……そんな思いでわたしのような小さきもののひとりにメッセージをくださったのだ。
その信仰は私にもしっかりと受け継がれている。聖書のブックカバーには三浦光世さんのハガキを挟んでいる。綾子さんのように文字を通して神に用いられる伝道者になりたい。

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