コロナになった友人の友人と、紙に恋する日本人
「こないだ、仕事で会う○○さんがコロナになって、「3週間仕事休んでたのよ~」なんて言ってたわよ」
友人の友人という身近な人がコロナウィルスになった。「コロナは報道の中の他人事」と思っていたが、あまりにもあっけらかんとそのことを言われると「あ、そう…そうですか…」としか言えなかった。
今目の前にいる人は濃厚接触者なのか?すると私も接触者なのか?色々尽きせぬ疑問はあったが、少なくとも今私は健康だし目の前の人も健康だ。
会話中にあがきようもなく、今日できることは穏やかな空気を吸うだけだ。
彼女は続けた。
「「都内で何人っていう感染者数に入っているの?」って聞いたら、「入ってない」って言ってたわ。そういう報告あげなかったらしいの」
そんなことってあるの…?コロナウィルスが陽性になったら病院と保健所が連携して自治体に必ず報告されると思っていたが、そうならない手段もあるのだろうか?それは誰が決めるのだろうか?
そう考えると「隠れコロナ」という患者は数字にでいるだけでなく、かなり多いんだろうなと思う。
私はコロナウィルスの流行から数ヵ月経ってもも、イマイチコロナウィルスのことがわからない。いや、掴めないと言ったほうがいいか。人を恐怖に貶め続けているこの微細な生物とはなんなのだろうか。
少なくとも私たちは医療的なコロナウィルスのこと以外にも闘うものが増大した。意味のない紙製品の買い占め、相次ぐ予定のキャンセル、リーマンショック並みの経済…
私が怖いのはウィルスによる人体被害よりも、こうした人の行動心理やメディア情報だ。なんか、すごく不気味。私たちは明らかにパニック状態にある。パニックなときに発信する情報はまず確かではない。それを信じる大衆は同じようにパニックとなる。パニックにならなければマスクだってあったかもしれないのに。必要な分だけチマチマ買っていればこの花粉症の季節に欠品になどならなかったかもしれない。
日本人の紙への執着は改めてすごいと感じさせる。まるで紙に恋をしているようだ。311のときもそう。なぜ日本人は大災害や社会的ピンチの場面ではまず紙製品を買うのだろう?外国人に尋ねられたら
「それが私たちの伝統なんです」
と答えることにしている。私たちにとって紙は精神の拠り所。紙には人を安らかにさせる魔力がある。紙があることで自分の寿命まで伸びると感じさせる媚薬なのだ。
紙は使い捨てである。1度使えばゴミ箱や便器のなかにポイである。刹那な製品。
まるでそれは私たちがパニック時予期している刹那な命が投影されているようだ。パニックのとき私たちの命はいつもより短く感じる。私たちが欲しい紙は、同じように運命の短い紙。だから私たちはそんな紙たちと苦楽を共にして運命共同体として安らぎを得ていたいのだろうか…。
過度な買い占めはネットのデマが原因というけれど、私はそうは思ってない。少なくとも私の目にはそのデマ記事は目に入らなかった。私たちはピンチのとき紙を買う。そういう習性があるのだ。紙という消耗品が多ければ多いほど、寿命が伸びる気がする。
紙はいざというときの日本人の精神安定剤。それ以上でもそれ以下でもない。だから私たちは、子供のとき使っていたような綿マスクをしない。誰がなんと言おうと紙でなければダメなのだ。
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